◆◆◆ コタンの人々に見守られて ◆◆◆

 



二風谷の自邸内で、書棚の前に立つマンロー(写真:北海道大学提供)
大柄で丈夫そうに見えていたものの、さすがにマンローの体にも衰えが目立ち始めていた。
コタンでの無料診療を続けるために、マンロー夫妻は毎年3ヵ月間だけ軽井沢を訪れ、裕福な患者の治療を続けることで1年分の生活費を稼いでいた。日中戦争が始まり、戦時態勢に入っていた日本で、列車で移動するだけでも大変だったことだろう。
1940(昭和15)年の夏は特に多忙で、友人に向けた手紙には「月50枚以上のレントゲン撮影、診療時間外の往診、今日も寝る前には虫垂炎の破裂で上海から担ぎ込まれた3歳の子の手当。78歳の男には限界です」とある。
翌年になると血尿が認められるようになり、マンローは腰の部分のしこりにも気が付いた。医師だけに、マンローはそれが何であるかすぐ分かったようだ。5月半ばに札幌にある北大の医学部で診察を受けると、果たして予想通り腎臓と前立腺の癌で、手術適期はすでに過ぎていた。
この検査結果が出た翌朝、マンローは市内に住む日本人の友に連絡をとった。その友人はマンローに「クロビール、ノミタイネ」と誘われたという。もう普通の店から黒ビールが姿を消して久しかったが、2人は遠くまで車を走らせ何とかビールの杯を傾けることができた。マンローはこの時自分の半生を振り返り、「研究に熱中するあまり妻子に冷たすぎた」と涙ぐんだという。

二風谷に眠る、マンロー夫妻の墓=右写真は改装前。下の写真は現在の墓碑
(写真:沙流川歴史館提供)
この頃、かつてマンローの論争相手だった宣教師バチェラーは同じく札幌で、帰国に向けての準備を急いでいた。彼は11月に65年間暮らした日本を離れ、カナダ経由で英国へ帰国する。12月8日の太平洋戦争開戦を前に、まさに間一髪のタイミングであった。
多くの日本在住欧米人がこの時期に先を争って祖国へ戻り、軽井沢の住民も櫛の歯が欠けるように減ってきた。マンローも英国へ戻るようアドバイスを受けたが、日本に帰化したうえ末期ガンも抱えているマンローにそれはできない相談だった。また、そのつもりもなかった。マンローは自分の体が動かなくなる最後の時まで、アイヌの人々の世話をすると決意していたのである。
マンローはチヨに向かって言った。 「私が死んだら、アイヌの皆と同じように葬って欲しい。泣くんじゃないよ、皆、土に帰るだけのこと。アイヌに文字はなかった。土饅頭に名前はいらないよ」
解け切らない雪が残る1942(昭和17)年4月11日、二風谷の自宅でマンローは息をひきとった。享年78。カムイ(神)に祈る大勢のコタンの人々と、チヨに見守られての穏やかな最期だったという。
もしマンローが10年早く来日していたら、明治政府のお雇い外国人として、優遇されていたかもしれず、逆に10年遅く来日していたら、戦後にアイヌ研究を華々しく発表できたかもしれない。「もしも」と言っても仕方のないことだが、彼の集めた大事なコレクションや映像、原稿が戦中戦後の混乱の中、散り散りになってしまったことを知るにつけ、マンローに与えられた運命の厳しさに胸を痛めずにはいられない。幸い、分散し、行方の分からなくなっていたマンローのコレクションは、近年になって少しずつコタンの地に戻されつつあるといい、それに従い、彼の業績にも改めて光が当たり始めた。マンローが、激動の時代に身体を張ってアイヌの人々を助け、多くの記録を残したことは、これからも確かに語り継がれねばならないであろう。