◆◆◆ ワタシハ、ニホンジンダ! ◆◆◆

 

不安定な精神状態に陥り、その治療のためにウィーンへと旅立った妻のアデルからは、年に数回便りがあった。だがマンローはどうにかして正式に離婚出来ないか、そればかり考えていたようだ。老齢を迎えた彼は、自分の死後、チヨに財産が残せるようにと心配したのだった。なんとか協議離婚という体裁を整えたマンローが、晴れて木村チヨと結婚したのは1937(昭和12)年6月30日のことだった。マンローは74歳。チヨとの生活もすでに13年が経過していた。

マンローが愛用した籐椅子と机
(写真:北海道大学提供)
チヨに残せる財産と言えば、助成金の半分を使って建てた診療所兼自宅、蔵書、自著からの印税などであろうが、一方で、ロックフェラーの研究助成金は、この結婚がなった1937年で終了することになっており、マンローはじりじりと生活経済の不安を感じるようになっていた。
マンローは、大事な自宅を売り払って札幌に引越し、借家住まいをしながら、コタンの人々からの聞き書きをまとめて出版することも選択肢に含めていた。考えが錯綜しているようにも思えるが、今までの研究成果を全部発表するには、5冊の著作を著すことになる計算だった。マンローにそれ程多くの時間が残されているだろうか。しかも金銭の余裕もない。マンローは焦っていた。


4度結婚したマンローには3人の子供があった(最初の子は幼少時に逝去)。マンローは、2番目の妻、高畠トクとの間に生まれたアヤメ(アイリス)=写真= を、ことのほかかわいがったが、1933年、アヤメは留学先のフランス・リヨンにて、28歳の若さで病死した(写真:北海道大学提供)。
ちょうどその頃、奇妙な噂が相次いで流れ始めた。マンローが「無資格で診療している」「アイヌを使って北海道の地図を作成している英国のスパイらしい」というような根も葉もない悪意あるものだった。
「無資格」に関しては、無料診療を行うマンローのもとに患者が流れてしまうことを恐れる近隣の和人の医者が流したもので、「英国のスパイ」に関する度重なる様々なデマは、火事で仲のこじれた、かつての家主によるものだった。
当時の日本は国家総動員法が発令されたばかり。これは国を挙げて国民の一人一人を戦争に駆り立てるための様々な規制を含んだ法律で、物資欠乏に備えることに加え、言論や思想に関する規制が日本中を包み始めた。「贅沢は敵だ」「外人見たらスパイと思え」といった標語も大々的に宣伝され、防諜の名のもとに密告制度がはやり始めた。
北海道とて例外ではなく、マンローの外国への定期郵便物も検閲を受けており、検閲どころか没収されたものもあったようだ。この状況は、マンローを打ちのめした。実際どこへ行くにも監視付きで、秘かに尾行されていたという。しかも二風谷のコタンでこそ尊敬を集めていたものの、一歩その外へでれば「ガイジン、スパイ」とはやし立てられ、石を投げられることもあった。ある時、軽井沢からの帰りに、マンローとチヨは憲兵に列車から引きずり下ろされ、殴る蹴るの暴行を受ける。マンローは下手な日本語を使うことを嫌い、普段英語で通して暮らしていたが、この時「ワタシハ、ニホンジンダ! とっくの昔に帰化して日本人! 国籍日本人!」と日本語で叫んだという。チヨが、「マンローは秩父宮さまのテニスのお相手をおつとめ申しあげたこともある、軽井沢の病院長です」と訴え、これを憲兵が東京へ連絡。事実が確かめられたことで、ようやく2人は釈放されたという。
当時このような目にあっていた外国人はマンローだけではなかった。幕末に来日、貿易商として活躍した長崎のグラバー氏の長男、富三郎氏は、官憲の圧迫などに堪えかねて自殺している。また、函館にある食料品店「カール・レイモン」に商品注文のため連絡したマンローは、店主がユダヤ系のために迫害され、他社に強制買収されたことを知る。1938(昭和13)年6月に日独伊防共協定が締結されて以来、遠い東洋の地にもヒトラーのユダヤ排斥政策の波がおしよせてきていたのである。