◆◆◆ 『同胞』からの支援 ◆◆◆

 


軽井沢サナトリウムでのスタッフ集合写真。マンローは前列中央(写真:北海道大学提供)
横浜きっての資産家で大貿易商であるアデルの父親、ファヴルブラントからの援助で開設していた「軽井沢サナトリウム」は、主に結核患者の療養所として運営されていた。東京都内や横浜で被災し、家を失ったことにより軽井沢の別荘へ避難した西洋人は少なくなかったとはいえ、避暑地の病院を、1年を通してオープンし続けるのは効率的ではなかった。マンローは日本でいち早くレントゲンを導入した1人で、その他の最新機器導入にも積極的だっただけに、人口も減り、患者は近所の貧しい小作人や木こりたちのみになる(マンローはこうした患者には無料診療するのが常だった)冬季の軽井沢では、大幅な赤字を計上したのである。
しかも、関東大震災の直前に、富裕な義父が他界したこともあり、軽井沢で新生活をスタートさせた一家は瞬くうちに経済難に陥る。そんな中でのマンローの不倫は、妻のアデルを精神的に不安定にさせるには十分だった(『前編』9頁のコラム参照)。彼はサナトリウムの婦長、木村チヨと関係を持ち始めたのである。アデルは「軽井沢の冬は寂しすぎる」という言葉を残して、マンローの元を去る。ウィーンのフロイト博士の元で精神面の治療を受けるというのが名目だったが、実際には、マンローに欧州に送り返されてしまったといったほうが正確だろう。この後マンローとアデルが再び会うことはなかった。
一方でマンローは、患者だった詩人の土井晩翠、避暑客だった思想家の内村鑑三、そして来日講演の際に軽井沢を訪れた科学者のアインシュタインなどと交遊をもった。この頃結核を病んで療養滞在していた、『風立ちぬ』で知られる作家、堀辰雄とも顔見知りだったようだ。彼の『美しい村』に登場する「レエノルズ博士」は、マンローがモデルであると言われている。ただし、あまり良くは書かれておらず、マンローについて否定的な声もあったことを伺わせる。
また、1929(昭和4)年には来日中の社会人類学者で、ロンドン大学のC・G・セリーグマン教授が軽井沢を訪問。教授はマンローが日本亜細亜協会で行った講演に関する著作を読み、そのアイヌ研究を高く評価、研究を続けるよう激励している。ロックフェラー財団による研究助成金に申し込むことも勧め、教授自身が推薦者となった。マンローは、祖国からの来訪者である同教授の応援を得てどんなに嬉しかっただろうか。この教授の後押しこそ、マンローが北海道へ移住する大きなきっかけとなったのである。
セリーグマン教授はマンローに、起源や解釈の偏重から脱して正確な事実の記述を行うよう伝え、一般化を焦らずに小グループのアイヌの行動、言説、考えを優先してまとめるよう助言。これ以降、マンローは「熊送り」(右コラム参照)に代表されるようなアイヌならではの風習の記録に努める。今でいう人類学のフィールドワークというところだろう。

 

数奇な運命を辿った 「熊送り」の映像


マンローと二風谷アイヌの長老、
イソンノアシ氏=写真右。
© electricscotland
◆熊送りは狩猟にまつわる儀礼のひとつで、アイヌ語で「イオマンテ」と呼ばれる。動物(子グマであることが多い)を儀式に従って殺し、その魂が喜んで神々の世界に戻って行き、再び狩りの対象となって、仲間と共に肉体という形で戻ってくるよう、祭壇を設えてクマの頭部を祀り、酒や御馳走を捧げる。

◆マンローは1905年と30年にこの儀式を見学し、映像でくまなく記録した。ジョン・バチェラーが野蛮な風習と呼び、マンローとの考え方の違いを決定的にした問題の映像である。また、当時の警察からは検閲時にズタズタにカットされ、四分の一の短さになってしまったとも言われる。

◆オリジナル・フィルムはマンローの死後行方不明となっていたが、敗戦直後の長崎で米進駐軍用の土産物屋から出てきたのである。店先でこれを偶然発見した人物は、そこに映されている映像を見て、ただのフィルムではないと気付き、言語学者の金田一京助博士の元へ送った。やがて国立歴史民族博物館に安住の地を見いだしたのは1982(昭和57)年のことである。

◆一方、マンローはこのオリジナル映像から16mmプリントを何本か製作しており、そのうちの1本は英国に送られていた。ロンドンの王立人類学協会(Royal Anthropological Institute)に保管されており、『The Ainu Bear Ceremony』のタイトル、監督: N.G Munroとして、現在 27分のDVDで購入も可能になっている。

◆また、イオマンテの儀式は「生きたクマを殺す野蛮な行為」として1955年以来法律で禁じられていたが、2007年に「正当な理由で行われる限り」として禁止通達が撤廃された。マンローが生きていたら、さぞ喜んだことだろう。昔ながらの伝統や風習に対する評価は、その時々の時勢によって変化していくものなのだと、改めて思わずにはいられない。

 

◆◆◆ 「アイヌの聖地」への移住 ◆◆◆

 



1933年、東釧路貝塚で行われた調査の様子。ゴム長靴をはいたマンローの姿が中央に見える(写真:北海道大学提供)。
結婚こそしていないものの、アデルのいない今となっては実質的な妻である木村チヨ婦長を連れ、マンローは1931(昭和6)年、北海道へと移住する。彼はこの時すでに68歳になっていた。広い北海道にあって、日高山脈の麓にある二風谷(ニブタニ)を選んだのは、アイヌへのキリスト教布教に努めるバチェラー宣教師の勧めだったらしい。二風谷は沙流(サル)川に沿ってコタン(アイヌの集落)が点在し比較的人口が密集しており、和人(日本人)の数も少なく、昔から「アイヌの聖地」とも呼ばれていた。
マンローとチヨはこの地に永住する決意をかため、土地も購入、新居の建設に取りかかる。ロックフェラー研究助成金があるとはいえ、もう昔のように余裕のある暮らしをすることはできない。しかも満州事変が勃発し、日本は軍国主義の道を歩み始めていた。前途は多難に見えたが、それでも2人は夢と希望を持って進んだ。


1933年に完成した、二風谷の自宅の玄関前に立つマンローとチヨ夫人。2人のうれしそうな笑顔が印象的(写真:北海道大学提供)。
二風谷のアイヌたちは興味津々でマンローとチヨを迎え入れた。今まで多くの研究者たちがこの地を訪れ、自分たちを「研究」しては去って行ったが、この西洋人は何をする気なのか。
マンローは家が出来上がるまでの間にと、ある商店の倉庫を借り受けた。倉庫といっても藁葺き屋根の小さな木造建てで、それを改造し、診療所、書斎、自宅に分けた。そして時間をかけて、コタンの人々と信頼関係を築いていこうと決める。彼は横浜時代に研究がはかどらなかった時、自分が大学で正規に考古学を履修しなかったことを何度も悔やんだことがあるはずだ。しかし、この北の大地で、考古学者ではなく医者であることのメリットに改めて気づかされたのではないだろうか。
マンローはアイヌの人々に向け無料で診療を開始する。チヨが優秀な看護婦であることは大きな助けだった。バターや小麦粉、牛乳といった、マンローには欠かせないがコタンでは珍しい食材を使って料理をするのも彼女の役割で、チヨが作るビスケットは特にコタンの子供たちの間で大評判だったという。「マンロー・クッキー」と呼ばれたその菓子のために、子供たちは嫌な注射も我慢したと伝えられている。マンローは往診をこなし、農作業のアドバイスまでしていたとされ、「コタンの先生」としてアイヌの人々に受け入れられた様子がうかがえる。
しかし、マンローはここで「飲酒」という大きな障害につきあたる。当時アイヌの人々のあいだで、これは深刻な問題で、マンローは「過度の飲酒はしないように」と何度も住民たちに告げたものの、効き目はあまりなかった。
原因は日本政府による「旧土人法」にあった。同法はアイヌに狩猟と漁業を禁じていたが、元来アイヌは狩猟民族であり、農耕民族ではない。自分の土地を持つという感覚にすら乏しい彼らに、突然、種や苗を与えて、これからは農業一本で暮らすようにと命じた訳だ。それがどんなに乱暴な政策だったかは想像に難くない。家の前の川に鮭が泳いでいるのを見ながら餓死するアイヌ住民が現れた。結核も流行し、農業どころの話ではない。すっかり自信を失ったアイヌの人々が行き着いた逃避先が、アルコールだったのだ。また、アルコール依存症による労働力の低下が、さらに彼らの状況を悪化させるに至っていたのである。