受け継がれる想い

 

 やがて一家は、1791年にエリスランドの北西にあるダンフリース(Dumfries)の町へ移る。ここは『スコットランドの南の女王』と言われる美しい町だが、町議会からバーンズを名誉市民にすると案内が来たのだ。彼の子供の学校教育費を無料にするという特典付きである。バーンズはこの地で『タム・オ・シャンター』『なんといっても人は人』をはじめとする多くの詩作をしながら、劇場建設に関わったり義勇軍に参加したりと、名誉市民としての務めも果たす。
そして、有能な沿岸収税官としての仕事もこなしていた。10代の頃バーンズが酒場で見かけたような、密輸業者の男たちを摘発する仕事である。彼はある時このような業者から4丁の拳銃を摘発し、これをフランスの革命軍に送ろうとしたことがある。自由を求めて戦う革命の思想に大いに共感したからだが、これで危うくバーンズは職を失うところであった。
また、こりないバーンズは、グローブ・タヴァーンというパブの女将の姪、アンナ・パークと関係を持ち子供をもうけている。バーンズは妻を含め5人の女性に子供を産ませているが、彼女が最後の相手であり、妻のジーンはその子を引き取っている。しかもジーンもこの時妊娠中であり、この1ヵ月後には出産しているのだ。バーンズはジーンに頭が上がらなかったと想像できる。
詩作と女性と家族生活、そして政治への興味。ようやく叶った人間らしい生活はまだまだ続くはずであった。しかし、バーンズを容赦なく人生の残酷な『いじめ』が襲う。1795年からバーンズを悩ませてきたリューマチ熱が、悪化し始めたのである。
10ヵ月ほど寝たり起きたりの生活をしたあと、医者の勧めで海辺に滞在する。この病は今の医学で言うと「リューマチ熱を伴った心内膜炎」ということになり、抗生物質で治療が可能だ。しかし、当時は違った。
帰宅後、バーンズはジーンの父親に向けて手紙を書いている。「アーマー夫人(ジーンの母)をどうかすぐにダンフリースへ寄越して下さい。妻の出産が目前に迫っているのです。私は今日海水浴から戻ってきました」。ところが、このわずか3日後である翌年7月21日に、バーンズは突然息を引き取る。37歳だった。25日には町の名誉市民であるバーンズのために、ダンフリースの国防義勇軍による盛大な葬儀が執り行われた。そしてちょうどこの日、バーンズの家ではジーンが第7子を出産したのである。それは、バーンズの詩が代々受け継がれていくことを示唆するような出来事であった。バーンズ本人はこの世にいなくとも、その心は、そしてその詩は永遠の命を得て、これからも愛されていくのである。

 



ダンフリースでバーンズが晩年を過ごした家。© Rosser1954

 

Tam o' Shanter: A Tale (1790) 『タム・オ・シャンター』

アロウェイ教会の廃墟。ここで、タムは魔女たちの宴を覗き見してしまう。


魔女たちの宴。右上の窓から、タムが顔をのぞかせているのが見える。
 バーンズ作品の中でも特に名高い物語形式の詩で、朗読すると10分を超える長さになる。『スコットランドの古物』の著作もあるフランシス・グルース大尉に、廃墟となっているアロウェイ教会にまつわる魔女物語を依頼され、作られた。1791年に『エディンバラ・マガジン』に掲載され、1793年にはバーンズの詩集エディンバラ版にも収められている。
シャンター村のタムが嵐の晩に町で楽しく酒を飲んだ後、愛馬メグにまたがり帰宅する際、廃墟のはずのアロウェイ教会に灯りが点っていた。そこでは悪魔や魔女が音楽に合わせて踊りまくっている最中で、中でも短い下着の若い魔女ナニーの踊りに興奮したタムは、ついうっかり「うまいぞ!」と声を上げてしまう。タムに気づいた悪魔たちは一転、恐ろしい形相でタムに向かってくる。
魔女は水の流れを越すことができないとされている。愛馬のメグを必死に走らせ、命からがらドゥーン川を渡ったタムだが、愛馬メグのシッポは魔女につかまれ、そのオシリからスッポリ抜けてしまっていた…。
以上のような物語が、スコッツ語とイングランド語を駆使し、スピード感溢れる描写で描かれ、絶妙なリズムと場面転換の妙は、詩人のウォルター・スコットに「シェークスピアを除いて、いかなる詩人も、このようにすばやく場面転換させながら、この上なく多様で変化に富んだ感情をかき立てる力を持たない」と絶賛されている。
なお、スコットランドの土産物店でよく売られている、タータンチェックのベレー帽はこの物語の主人公の名にちなみ、 タム・オ・シャンター帽と呼ばれている。そして、タムに我を忘れさせた魔女ナニーの「短い下着」はスコッツ語で「カティー・サーク」。現在グリニッジに展示されている帆船カティー・サークは、その船首に魔女が飾られ、彼女の手には今なおタムの愛馬メグのシッポがしっかり握られているのである。