エディンバラの田舎詩人

 

 バーンズが必要とあらば『格調高い英語』を正確に話すことができたのは、教育熱心だった両親と家庭教師のおかげだが、それに加え、当意即妙の話術を操る、母親似のハンサムな好青年に成長していた彼は、瞬く間にエディンバラ社交界の寵児となった。バーンズは紹介状を持って多くの名士のもとを訪れたが、招かれたどの家やサロンでも歓迎され、人々はバーンズの飾り気のない男らしさや、自分をわきまえ、虚栄心のないところなどに好意を持ったという。当時は『自然に帰れ』と提唱するフランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーの思想がもてはやされており、人々はバーンズにルソーのいう『高貴な未開人』を見ていたのだともいわれる。
バーンズは2年に及ぶ滞在のあいだ、詩集の『エディンバラ版』を準備するほか、失われつつあるスコットランドの民謡や歌謡の保存に努めるジェームズ・ジョンソンと出会い、その歌謡集編纂への協力も約束している。
また、恋多きバーンズのエディンバラでの相手は、アグネス・ナンシー・マクルホーズ夫人(Agnes Nancy Maclehose)。彼女は評判の美貌と知性を併せ持つ女性で、バーンズの作品に興味を持ち、しかも夫とは別居中という身の上だった。ただし、バーンズは身分の違いや社交界の醜聞を恐れた夫人とプラトニックな関係を貫かざるを得ず、2人の間には大量の熱烈な手紙が残るばかリである。バーンズは『やさしいキス』という詩を彼女に送っている。欲求不満が募ったためか、バーンズは、マクルホーズ夫人宅の召使いの少女と関係を持ち子供を産ませたり、酒場の女性とつき合ったりと、ここでも同様のカサノヴァぶりを披露した。
エディンバラ版の詩集が出版されると、バーンズの評判はついに国境を越えた。ロンドンやダブリンで評判をとるばかりではない、海を渡り米国のフィラデルフィアやニューヨークでも好評をもって迎えられた。これで一気に長年の貧困から解放されたバーンズだが、浮かれた有名人にはならず、不思議な程冷静な判断をくだしている。エディンバラに2年滞在する間に、社交界の人々がすでに彼の存在に次第に飽き始めているのを感じ取り、やがて彼に向かって丁重にドアを閉めるであろうと考えたのである。もともとバーンズが欲しているのは詩作であり、自由を得ることであり、決して上流階級の仲間入りすることではなかった。
バーンズはエディンバラに来る前、農業をあきらめて収税官になることを考え(ジャマイカへ移住するとも言っていたはずだが)、エディンバラでは資格を獲得するための勉強もしている。人々がバーンズの詩を称賛しているまさにその頃である。このような現実的な感覚と、恋愛に熱中し詩作に励む感覚が、バーンズの中には違和感なく共存していたのだ。
1788年2月、バーンズは故郷の家族のもとへ向かう。稼いだ印税は、留守中に家族を守った弟のギルバートに半分以上渡した。そして、残った資産でエリスランド(Ellisland)に家を購入すると、ジーン・アーマーを迎えて初めて自分の所帯を持ったのである。
ジーンの親はかつてバーンズを告訴した過去があるにもかかわらず、彼が有名になると手のひらを返したような卑屈な態度で接した。だが、バーンズを想うジーンの気持ちに変わりがないうえ、収税官になるには妻帯が条件だったこともあり、結婚に関してバーンズに不満はなかった。

 



1840年当時のエリスランド農場の様子(作者不詳)。



▲現在のエリスランド農場。© Rosser1954 Roger Griffith