ジャマイカ移住計画

 

 翌年バーンズがアーヴィンから戻ってみると、一家は地主を相手に面倒な裁判沙汰に巻き込まれていた。契約とは異なる農地の値上げが原因だった。数年にわたる裁判費用の捻出に苦しんだバーンズの父親は、経済不安と心労、そして長年の重労働が原因で、ついに1784年の2月に63歳で逝去してしまう。
長男であるバーンズは、家長として一家を養っていかなければならないことになる。だが、尊敬する厳格な父親の死は、彼を少なからず解放的にしたようで、彼の本格的な詩作はこれを機会に一気に開花する。そして女性関係もまたそれと比例するように、にぎやかになっていくのだった。
まず、病床に付いていた父親の世話にあたっていたエリザベス・ペイトンという少女を口説き、彼女はバーンズの子を生むことになる。母親はバーンズがエリザベスと結婚することを望んだが、反対があったうえ、バーンズ自身も結婚の意志はなかったようで、生まれた娘は結局バーンズの母親が育てることになる。これは醜聞となって広がり、教会でも問題となったが、バーンズはこのことから『あの娘は素敵な女の子』『詩人、愛娘の誕生を祝う、「お父さん」という敬称を詩人に与えた最初の機会に』『うるさい犬』の3本の詩を作り上げた。
一家は父親の死後、フリーメイソン仲間の地主の紹介でロッホリーの北西にあるモスギール(Mossgiel)に移り住み、そこで25歳のバーンズは将来の妻となるジーン・アーマー(Jean Armour)と出会う。彼女は石工の娘で、愛らしい快活な17歳の少女だった。1786年の春にジーンは妊娠し、これを知ったバーンズは困惑するものの、結婚の証文をジーンに与える。だがジーンの両親に大反対されてしまう。

  

▲モーホリンに建つ、若きジーン・アーマーの像。Rosser1954 ▲55歳当時のジーン・アーマーの肖像画。愛らしさは既にない…。

 

 一方で、バーンズにはもう一人の女性がいた。メアリー・キャンベル(Mary Campbell)である。彼女は大きな農場でメイドとして働いていたが、彼から『カリブに来るかい、ぼくのメアリー』という詩を送られている。バーンズはジーンの父親から告訴され、生まれてくる子供の養育費を迫られていたが、モスギールの農場経営は思わしくなかった。
行き詰まった彼は、全てを捨ててジャマイカに移住する計画を立てたのである。バーンズはメアリーと聖書を交換しているが、これは婚約を意味しており、メアリーと秘かにジャマイカへ渡ろうというつもりだった。しかし、メアリーも妊娠していることが分かり、彼女は実家へ将来を相談しにいく。そしてこれがバーンズとの永遠の別れになった。チフスが原因で、1786年10月に彼女は嬰児ともに他界してしまったのである。この事から、バーンズの中でメアリーは神聖化され、後に『ハイランドのメアリー』という名作が生まれた。
実家から戻るはずのメアリーを待つあいだ、バーンズはジャマイカ行きの旅費を工面するために自作の詩をまとめて出版する作業に入っていた。フリーメイソン仲間の協力も得て、やがてバーンズは1786年7月31日に、『詩集―主としてスコットランド方言による』をキルマーノック社から刊行する。1冊6シリングで初版は620部、印税は50ポンドだった。
バーンズは序文にこう記している。「これは、上流階級の優雅と怠惰の中で田舎の生活を見下して歌う詩人の作品ではない。…自分と自分の周囲の農夫仲間の中で感じたり見たりした心情や風習を自分の生まれた国の言葉で歌っているのだ」と。この詩集はすぐに大歓迎を受けた。エディンバラの貴族から、エアシャーの農夫の少年までが手にして夢中になる、大ベストセラーとなったのである。初版は1ヵ月で売り切れた。文学界も、「スコットランドが生んだ天才の顕著な見本」であると手放しで大絶賛した。こうしてバーンズはジャマイカではなく、スコットランドの首都エディンバラへ向かうことになる。

 



タムとメグが魔女を振り切ったとされる、オールド・ブリガドゥーン
(the auld Brig o'Doon=ドゥーンの古い橋)。
© James Denham