詩作の原動力は恋心と憤り

 

 1773年、14歳になったロバート・バーンズは、農場の刈り取り作業で知り合ったネリー・キルパトリックという少女に恋心を抱く。その恋心からバーンズは初めての詩『おお、かつて僕は愛した』を作り上げる。この詩はネリーの好きだった旋律『私は未婚の男』にあわせて作られた歌詞で、バーンズはこのように民謡や流行歌に詩を付けることを好み、生涯を通し、多くの歌詞を残している。これはスコットランド民謡の保存にもまた、一役買ったといえる。
バーンズは後にこの詩についてこう語っている。「詩人になろうとか、なりたいなどとはまったく思わなかった。しかし恋心を知ってしまうと、詩や歌が私の心から自然と湧き出た」。バーンズにとって恋愛は詩を書く際の一番の刺激、そして創造の泉となった。本人がこれを自覚していたのかどうかは定かではないが、この後バーンズは、死ぬまで恋多き男性として生きることになる。
さらに、社会的格差に対する憤りも彼が詩を書く際の大きな原動力となった。これは、幼い頃に一緒に遊んでいた地主の子供たちが成長するにつれ彼を見下すようになったことや、自分の父親が過酷な労働と貧困に苦しみ衰えていく姿、容赦のない土地管理人の仕打ちなど身近な出来事に加え、当時のイングランドとスコットランドの関係もまた、スコットランド人にしてみれば不平等で不愉快なものであったからであるに違いない。多くのスコットランド人同様、バーンズも、成長するに連れてスコットランドへの強い愛国心を育んでいく。このことはバーンズにスコッツ語で詩を書き続けさせる動機ともなっていたのだ。
1766年から11年間一家が暮らしたマウント・オリファント(Mount Oliphant)の地は、極めて辛い状況を彼らにもたらしていた。彼らが借りた土地は土壌が痩せていて農業にはまったく向いていなかったのである。長男のバーンズは15歳にして大人と同様の農作業を、この不毛な地ですぐ下の弟ギルバートとともにこなしていた。
ただ、一時期、実務的な土地の測量術を学ぶため、家から16キロ程離れたカーコズワルド(Kirkoswald)の測量学校に通ったこともあったが、学校の隣にペギー・トムソンという美少女が住んでいたせいで、バーンズの言葉によれば「私の三角法はすっかりメチャクチャになった」。
しかも、現在は海に近いリゾート地として知られるこの地は、18世紀当時「密輸商人の浜」という悪評を取っており、船乗りや荒稼ぎした男たちが酒場で大暴れをするような町でもあった。バーンズは勉強を疎かにしただけでなくここで夜遊びを覚え、それが厳格な父親にバレた訳なのか、早々に家に呼び戻されている。だが、後に彼の代表作の一つともなる詩『タム・オ・シャンター』のモデルともなる人物や光景にも巡り会うなど、農家育ちの若いバーンズにとっては刺激的で貴重な体験だったようだ。

 

To A Haggis (1786) 『ハギスのために』

付き合わせにはニンジン、ターニップなどが添えられることが多いハギス。ニガテな人も少なくない…。© zoonabar
 初の詩集キルマーノック版を出版し、大成功を収めたバーンズは、エディンバラの社交界から招待される。この詩はその直後に書かれたもので、友人宅で出された郷土料理ハギスに感動したバーンズがその場で披露した詩。「つまらないものを食べてるヤツは、しなびた草のように弱々しいが、ハギスで育った田舎者は、歩くたびに地面が震える。敵の腕も頭も足も、スパリスパリと切りまくる」というような、ハギスを通してスコットランドや農夫を賛美する勇ましい詩だ。
スコットランドの伝統食とされるハギスは、茹でた羊の内臓(肝臓、心臓、腎臓、肺など)のミンチを、麦やタマネギ、ハーブと共に羊の胃袋に詰めて茹でるか蒸すかした料理で、スコッチ・ウィスキーを振りかけて食すのが正統派の食べ方。現在では羊の胃袋の代わりにビニールパック入りや缶詰などがあり、一般家庭で食べる場合はこちらが主流だ。パイなど固形物に包まれている訳ではないので、皿に分けた時の見た目が甚だ悪いことでも有名。
ハギスが大好物だったというバーンズにちなみ、彼の誕生日、1月25日になると、スコットランドでは毎年『バーンズ・ナイト』と呼ばれるハギス・パーティーが行われる。バグパイプの演奏とともに、3本の羽根の刺さったハギス(ハギスは、毛の長いカモノハシのような、3本足の動物であるという伝説が残っていることからくる)の皿が入場し、バーンズの『ハギスのために』や『タム・オ・シャンター』(左ページのコラム参照)が朗読される。そして儀式の後はウィスキーとハギスでパーティーが進んでいく。次回の1月25日には、ハギスを試してみてはいかが。

 

詩人としての自覚の芽生え

 

 1777年、農地の契約が切れたため、一家はエアシャーの北西にあるロッホリー(Lochlea)に引っ越す。ところが、バーンズの父親はまたも選択を誤ったらしい。以前より労働は苛酷さを増したにもかかわらず、今度の土地は酸性土壌だっため、収穫量が上がらないというひどい有様だった。
だがバーンズは、きつい農作業の後でダンス教室に通い(これは大いに父親の不評を買った)スマートな立ち振る舞いを学びつつ、女性たちとのやり取りを楽しんだ。また、男性のための独身者クラブを結成して討論会を開催したりと、決して働くだけの日々ではなかったのである。
母親譲りの陽気で人なつこいバーンズは、誰とでもすぐ仲良くなれるという才能に恵まれていた。彼はここで、当時の欧州で広まっていた友愛結社「フリーメイソン協会」にも入会している。会員であれば相互に助け合うというフリーメイソンは、困難を抱えた人間にとって非常にありがたい協会で、ウィーン支部に加入していたモーツァルト(1756年生まれで、バーンズの3歳上である)はフリーメイソン仲間に借金の無心をするなどしている。バーンズはここで、自分と同じ階級の人間だけではなく、上流階級に属する人々と知り合う機会を得たが、後にバーンズ初の詩集出版に尽力したのも、こうしたフリーメイソン仲間だったのである。
22歳になる頃、バーンズはアリソン・ベグビーという近所の屋敷で働く女性に夢中になり、『セスノックの岸辺に住む娘』、『かわいいペギー・アリソン』などの詩を書き、求婚するが断られてしまう。がっかりしたバーンズはこの後古い港町アーヴィン(Irvine)へ、一人で亜麻精製の技術を学びに出掛ける。1781年のことだ。先の見えない農場での労働にうんざりし打開策を考えていたとも、単なる失恋のショックだとも言われているが、比較的都会であるこの町で、バーンズはかなり羽目を外して遊び回ったらしい。
この町は彼に重要な転機をもたらした。リチャード・ブラウンという、女好きだが性格の良い、教養を備えた船乗りと友人になり、彼はバーンズの詩の良さを認め、詩人としての自覚を持つよう説いたのだ。また、ロバート・ファーガソン(Robert Fergusson)という詩人による、スコッツ語で書かれた詩集も手に入れた。その詩は平易な日常のスコットランドの言葉でつづられており、バーンズは目の覚めるような思いをした。こうして友人ブラウンの言葉とファーガソンの詩集は、若いバーンズの進む道を照らしたのだ。彼は自分の詩作を、単なるなぐさみで終らせるべきではないことに気づくのである。