貧しくとも「子供の教育が先!」

 

 ロバート・バーンズ(Robert Burns)は、1759年1月25日、スコットランド南西部の海岸沿いエアシャーにある、アロウェイ(Alloway)という寒村の貧しい家に7人兄弟の長男として生まれた。バーンズの生まれた家は父親の手による粗末な土作りで、バーンズが生まれた数日後に起こった強風で半壊し、バーンズと産後間もない母親のアグネスは隣家にしばらく避難しなければならなかったというエピソードもある。
父親のウィリアムはスコットランド北東部アバディーンシャーの出身で、元はインヴェルジー城の庭師だった。だが、1745年に起きたジャコバイト蜂起(※)の余波で自らの人生も軌道修正せざるを得ず、不本意ながら故郷をあとにして アロウェイに移った経緯を持つ。
だが、この地で育苗業を始めるも、それだけでは生計が立てられず、裕福な家庭へ園丁としても出向くなどし、働き者ながらもなかなか運を掴めない気の毒な人物だったようだ。

※スコットランド出身のスチュワート王家復興を悲願とするジャコバイト派(亡命したジェームズ〈ラテン語でJacobus〉2世とその直系男子を支持するという意味)と、イングランド軍の戦い。これに勝利したイングランドは、スコットランドの氏族(クラン)制度を解体し、民族衣装であるキルトやタータンの着用を禁止した。

 そんな経緯から、ウィリアムは息子のロバートに対し勉学の機会を惜しまずに与えた。将来少しでも息子がいい暮らしが出来るように。それには知識や教養が不可欠だと、ウィリアムは考えたのだ。彼自身も極めて厳格なカルヴァン主義(プロテスタントの一派で、長老派教会派)で、神学や哲学を好む知性ある人物であり、一家は敬虔なクリスチャンとして質素な日々を送っていた。バーンズはこの父親に大きな恩恵を受けている。この時代、このような貧しい環境に生まれ育った者なら、少しでも暮らしの足しにと幼い頃から働かされ、知識や教養を身につけるなど夢物語だと、勉学の道を閉ざされるのが普通であろうからだ。
バーンズは6歳になり、近隣の小学校に入学するが、数ヵ月で教師が転勤となり、事実上学校が閉鎖されてしまう。教育熱心なバーンズの父親は近所の父兄と5人で、ジョン・マードック(John Murdoch)という18歳の青年を家庭教師として雇う。父兄たちはそれぞれ持ち回りでこの家庭教師を自宅に宿泊させ、わずかな給料で子供たちをスパルタ方式で教育してもらったという。
この頃父親は園丁から小作人に転じていたものの、相変わらず苦しい暮らしの中から、バーンズの教育費を捻出したのだった。一家はこの後も数度の引越を繰り返すが、どういう運命なのか、そのたびに貧しくなっていくようであった。にもかかわらず、「子供の教育が大事」という父親の信念が揺らぐことはなかった。
一方、バーンズの母親アグネスは、農家の主婦としての知識に長け、「落ち着いていて、陽気でエネルギッシュ」だったと言われる。字は書けないが、聖書はかろうじて読むことができた。また、バーンズによるとこの母親は「悪魔、幽霊、妖精、魔女などについての物語や歌については、スコットランド中を探しても、彼女以上に詳しい人物は見つからないだろう」というほどだった。陽気な歌声を聞かせる母親の遺伝子は、バーンズの楽観的な性格の中に見ることができる。バーンズは学問に対する真摯な態度を父親から、その明るい性格とリズムに関する感性を母親から譲り受けたと言えるだろう。

 



アロウェイにある、バーンズの生家「バーンズ・コテージ」。
博物館として公開されている。

 

Auld Lang Syne (1788)  『遥かな遠い昔』(蛍の光)

© Toby001
 バーンズの歌詞では、『旧友と幼い頃の思い出を語り合いながら酒を酌み交わす』内容を持つこのスコットランド民謡は、もとは作曲者もわからない古い曲で、歌詞もかろうじて数フレーズ残っているだけだった。現在知られているのは、古い歌詞にバーンズが新たに詩を加えたもの。
また、日本においては随分異なる歌詞が付けられている。『蛍の光』は1881年(明治14 年)、文部省が小学唱歌集を編纂する際に、国学者の稲垣千穎(いながき・ちかい:『ちょうちょ』の歌詞でも知られる)の歌詞を採用した。当時文部省は出典を記さず、すべて『文部省唱歌』としたため、この曲がスコットランド民謡であることを知らない人も多い。そして、『蛍の光』の歌詞は全部で4番まであるが、3番と4番は、その国家主義的内容から、現在では歌われることはない。以下がその歌詞である。3番「筑紫の極み、陸の奥、海山遠く、隔つとも、その真心は、隔て無く、一つに尽くせ、国の為」。4番「千島の奥も、沖繩も、八洲の内の、護りなり、至らん国に、いさおしく、努めよ我が背、つつがなく」というものだ。
この曲は日本と韓国では卒業式に、台湾、香港では葬儀の際に、フィリピンでは新年や卒業式に演奏され、モルディブでは1972年まで国歌の代わりになっていた。大晦日のカウントダウン直後に演奏するのは、英国を中心とした、英語圏の各国である。
原詞 
1
Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and auld lang syne ?

【大意】
旧友は忘れ去られるものなのか。
古き昔も心から消えいくものなのか。
CHORUS(以下、繰り返し)
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
【大意】
我が友よ、古き昔のために、
親愛をこめてこの杯を飲み干そうではないか。
2
And surely ye'll be your pint-stoup !
And surely I'll be mine !
And we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
【大意】
我々は互いに杯を手にし、いまここに、
古き昔のため、親愛をこめてこの一杯を飲み干さんとしている。

CHORUS
3
We twa hae run about the braes,
and pou'd the gowans fine ;
But we've wander'd mony a weary fit,
sin' auld lang syne.
【大意】
我々二人は丘を駈け、可憐な雛菊を手折ったものだ。
しかし古き昔より時は移ろい、二人は距離を隔ててさすらって来た。

CHORUS
4
We twa hae paidl'd in the burn,
frae morning sun till dine ;
But seas between us braid hae roar'd
sin' auld lang syne.
【大意】
我々二人は日なが川辺に遊んだものだ。
しかし古き昔より二人を隔てた荒海は広かった。
CHORUS
5
And there's a hand my trusty fiere !
And gies a hand o' thine !
And we'll tak a right gude-willie waught,
for auld lang syne.
【大意】
今ここに、我が親友の手がある。
今ここに、我々は手をとる。
今我々は、友情の杯を飲み干すのだ。
古き昔のために。
CHORUS