◆◆◆ 奪われた名誉 ◆◆◆


 


ウィリアム4世治世下の1833年、14歳だった王女ヴィクトリアはライム・リージスを訪問。馬車を出迎える人ごみの中には、当時34歳のメアリーの姿もあったに違いない。その後18歳の若さで英国君主となったヴィクトリア女王は、七つの海を支配し日の没せざる国と謳われた大英帝国の黄金時代を築いた。
 その後、この「クロコダイル」の化石はライム・リージス在住の地主、ヘンリー・ホスト・ヘンリーが23ポンドで買い上げ、その後ロンドンの著名な化石蒐集家であるウィリアム・バロックの手に渡る。
同氏の所有するロンドン、ピカデリーの邸宅で行われた博物展示会には、かのキャプテン・クックが世界各地から持ち帰った化石や、ナポレオンにまつわる品々、メキシコからやって来たエキゾチックな財宝などが展示されるが、過去に種の絶滅が存在したことを示し、それが聖書の創世記よりはるかに大昔に起こったことを示唆するメアリーの化石は、一大センセーションを巻き起こす。
そして様々な研究ののち、1817年にこの「クロコダイル」は博物学者チャールズ・コニグらによって、古代の海生爬虫類「イクチオサウルス」と命名される。しかしオークションにかけられたこのイクチオサウルスの目録にはバロックの名前が記されるばかりで、 幼いメアリーの名前は言及されることはなかった。「世界初のイクチオサウルス全骨格の発見者」という輝かしい称号は、不運にも奪われてしまったのだ。


 

◆◆◆ 「化石少女」からプロの「化石婦人」へ ◆◆◆


 


保養地ライム・リージスには『高慢と偏見』ほか数々の名作で知られる女流作家ジェーン・オースティンも滞在。メアリーの父親リチャードが、滞在中のオースティン一家の所持品の修理を請け負ったという記録が残されている。ライム・リージスの町はオースティン最晩年の作品『説きふせられて(Persuasion)』の舞台にもなっている。
  イクチオサウルスの発見で多少まとまった額の金を手に入れたものの、アニング家は相変わらずの貧乏暮らしだった。兄ジョセフは家具職人の修行に忙しくなっており、母モリーが化石販売業を取り仕切り、年若いメアリーが採集人の主として岩場での作業を行った。 当時、女性がこのような危険な仕事に就くことは珍しいだけでなく、「化石少女」とからかいの対象になることもあったが、メアリーは父から授けられた技術、そして緻密な観察力と化石への情熱を武器にプロの化石ハンターとして成長していく。また独学で地質学や解剖学の知識を深めていった彼女は、見つけた化石を観察して分類するだけでなく、スケッチと特徴を詳細に記したものを学者たちに送り、その学術的価値を売り込むなど『営業』にも精力的だった。 最初の大きな発見から10年近くの年月を経た1821年、彼女は新たなイクチオサウルスの化石、そして、ジュラ紀に生息した首長竜の一種、プレシオサウルスの骨格化石を世界で初めて発見するという再度の幸運に恵まれる。続いて1823年には、より完全な形で保存されたプレシオサウルス、1828年には新種の魚の化石や、ドイツ以外では初めてとなる翼竜ディモルフォドンの全身化石などを次々と発見。彼女の「化石ハンター」してのピークは20代にあったといえる。


 

◆◆◆ 「学者たちの援助とスキャンダル ◆◆◆


 


ロンドンの自然史博物館に展示されている、メアリーが発見したイクチオサウルスの化石。
 これらの発見によりメアリーは化石ハンターとしての名を確固たるものにする。
しかし、古生物や地質学について学者顔負けの知識をそなえていたにもかかわらず、下層階級の女性であったことや「生活のために」化石発掘に関わっていたことから、身分の高い学者たちから一段低い者として扱われがちだった。いつまでも楽にならない自分の生活にひきかえ、他人の堀った化石で論文を書き、名を成していく学者達を恨めしい想いで眺めたことも1度ならずあったことだろう。
その一方で、彼女の功績を高く評価し、助力を惜しまない人々も存在した。前述の旧友ヘンリー・デ・ラ・ビーチ卿はもちろんのこと、家賃を払うため家具を売りに出そうとしていたアニング家の窮状を見かねて、自身の化石をオークションにかけ、その売上金400ポンド(現在の2万6000ポンドに相当)を惜しげもなく贈与した長年の顧客、化石収集家トマス・ジェームズ・バーチなど、彼女をサポートする学者たちも少なくなかった。 
これらの援助によってメアリーは財政を立て直し、新しい化石店を構える。だがこういった援助は周りの人々の野次馬根性をかきたてるものでもあったようで、未婚のメアリーと年上の学者たちの『関係』が噂の対象になることもしばしばであった。


 

◆◆◆ 輝きを放ち続ける遺産◆◆◆


 


ライム・リージスのセント・マイケル墓地に兄ジョセフとともに眠る、メアリーの墓石。
  30代半ばを迎えたメアリーは、大きな発見に恵まれず、財政的にも再び苦しい状態に陥る。ここでも、温かい手をさしのべてくれたのは旧友だった。イクチオサウルスの発見以来、メアリーを高く評価していた学者の1人、ウィリアム・バックランドが政府と英国学術振興会に掛け合い、年間25ポンドの年金支払いを取り付けるため奔走してくれたのだった。
十分とはいえないものの定期収入ができたことで彼女の生活は一応の安定を見るのだが、彼女の体はこのころから病魔に蝕まれていく。乳がんだった。
メアリーは、この後も長年に渡り病気と闘いながら化石採集を続け、1847年3月、47歳の生涯を閉じる。
ロンドンの地質学会会長へと出世していた旧友デ・ラ・ビーチ卿は彼女の死を悼み、学会で彼女への追悼文を発表した。20世紀初頭まで女性の参加を許さず、性差と階級の壁が厚かった地質学会では異例のことであった。
メアリーの死から12年後、チャールズ・ダーウィンによるかの有名な『種の起源』が発表される。突然変異と自然淘汰による進化論を世に知らしめた本書は、チャールズ・ライエルやダーウィンの師であったケンブリッジ大のアダム・セジウィックなど、メアリーと交流し彼女の化石をもとに研究を進めた当時一流の地質学者らからインスピレーションを得たものであったという。
1冊の書物も残さなかった彼女だったが、地質学に古生物学そして進化論への道を拓いたメアリー。その当時の社会が要求する「女性らしい生き方」にはこだわらず、情熱のおもむくまま在野のフィールドワーカーとして生涯を全うした。メアリーにより英国の自然科学の発展にもたらされた功績は計り知れない。