少年王の呪い

 世紀の大発見から5ヵ月後、突如悲劇の幕が上がる。
 贅を尽くした副葬品の整理を終え、玄室(埋葬室)にある王の石棺が納められた巨大な4重の黄金厨子の解体作業に取り組むカーターのもとに、青天の霹靂ともいえる知らせが届く。それはカイロのホテルに滞在しているイヴリンからのもので、カナーヴォン卿が危篤だと告げていた。カーターは翌朝一番の船でカイロに向かうが、カナーヴォン卿と再び言葉を交わすことはできなかった。
 1923年4月6日午前1時50分、カナーヴォン卿が56歳で死去。黄金のマスクやツタンカーメンのミイラと対面することなく、その遺体は英国へと帰っていった。死因はひげを剃っている際に、蚊に刺された箇所を誤ってカミソリで傷つけてしまったことより菌血症を患い、肺炎を併発したためといわれている。
 ところが、これが一連の不思議な事件の始まりとなった。カナーヴォン卿の急死後、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げていったのである。カナーヴォン卿の弟、専任看護婦、カーターの秘書と助手、調査に協力した考古学者やエジプト学者…その数は20人以上。ほとんどが病死と診断されたが、当時のマスメディアはこの異常事態を「ツタンカーメンの呪い」と大きく報道した。
 やがてカーターも受難に見舞われる。最初にそれをもたらしたのは、父の跡を継いで第6代カナーヴォン伯爵となった息子ヘンリーであった。ヘンリーは考古学に興味がなく、発掘投資は浪費の極致だと考えていたため、王家の谷の発掘権を今期限りで手放すと宣言したのである。発掘権が他者に移ると、ツタンカーメンの墓の調査権もその相手に渡ってしまう。カーターはヘンリーに連絡をとるが、話し合いの場さえ持つ気はないようだった。
 行き詰ったカーターに、さらなる衝撃が訪れる。イヴリンが敏腕の実業家でもある準男爵と婚約したのだ。カーターとイヴリンの恋は、当然周囲に反対されていた。カーター自身もその身分差、年齢差を理解していたと思うが、ツタンカーメンの調査権を失おうとしている今、イヴリンまでもが奪われてしまうという残酷な事実に、どれだけ悲嘆に暮れたであろうか。その衝撃は計り知れないものがある。
 しかし、状況はさらに一転する。イヴリンが慌ただしく結婚した後、ヘンリーが発掘権放棄を撤回したのだ。一体何がヘンリーの気持ちを変えさせたのか?――そこにはイヴリンの犠牲があった。ヘンリーは、イヴリンが身分に相応しい相手と結婚し、カーターと二度と会わないならば、発掘権を延長してもいいとイヴリンに持ちかけ、彼女はそれを了承したというのである。カーターがこの話を知っていたかどうかは、今となっては知ることはかなわない。



ツタンカーメンのミイラが今も眠る玄室。
壁画が完全に乾く前に埋葬されたため、壁には暗褐色の染みが多く見られる。 © Hajor


ツタンカーメン王墓の平面図

 

黄金よりも美しいもの

 1924年2月12日。厨子の解体がようやく終了し、カーターが設計した滑車によって、石棺の重い蓋がゆっくりと持ち上げられていくのを、カーターと調査に協力している学者らは固唾を呑んで見守っていた。王はどのようにして姿を現すのだろうか? 一秒が一分に、一分が一時間にも感じられる。石棺の中に少しずつ光が注がれていくと、古びた布で覆われているのがわかった。カーターはそれを慎重に巻き取っていき、最後の布が取り除かれたとき、驚きのあまり呼吸をするのを忘れてしまうほどに眩い光景を目にした。若い王の姿をした、光り輝く黄金の人型棺が横たわっていたのである。
 「死後も存在する崇高な雰囲気を感じた。深い畏敬の念に満ちた静寂が墓内を支配し、時が止まったように思われた」
 静まり返る玄室内で黄金の棺を見つめるカーターの心を最初に占めたのは、おそらくカナーヴォン卿への思いだったのではないだろうか。意見が合わず、対立することも多々あったが、ともに歩んだ15年間を思い出し、この歴史的瞬間に彼が立ち会えなかったことが残念でならなかったに違いない。
 白いアラレ石と黒曜石で飾られた人型棺の王の両眼はまっすぐに天井を見つめ、胸の前で交差された両手は王を表す王笏と殻竿をにぎっており、その若々しくも力強い王の威厳をまとった姿に、学者たちから感嘆の声がもれた。しかし、カーターは別のものに目を奪われていた。それは棺の上にそっと置かれている「小さな花束」である。
 「最も感動的だったのは、横たわった少年王の顔のあたりに、小さな花束が置かれていたことだ。私はこの花束を、夫に先立たれた少女の王妃が、夫に向けて捧げた最後の贈り物と考えたい。墓はいたるところが黄金で包まれていたが、どの輝きよりも、そのささやかな花ほど美しいものはなかった」
 奇跡的にもほのかに色を留めていたその花束は、石棺の開封によって外気に触れた途端、崩れ始めた。思わずカーターが手を伸ばすと、まるで空気中に溶け込むかのようにパラパラと崩れ去っていった。3300年のあいだ、孤独を癒すかのように王に寄り添い続けた花は、カーターの目の前で最後の輝きを放ち、過去へと帰っていったのだろう。カーターは、時代に翻弄されながらも強く生きようとした、若い夫婦の苦闘と悲哀、そして愛情をそこに見て、胸が熱くなったのだと思われる。3000年前の「古代人」も今の「現代人」も何ら変わりないことに気付いたのだ。墓には、死産だったと思われる2体の胎児のミイラも丁寧に葬られていたという。



ツタンカーメンの黄金棺の内部を慎重に精査するカーター。

 

暗殺? 事故?ツタンカーメン 死の真相

王墓に納められていた、幼少期のツタンカーメンの像
 2010年、エジプト考古学研究グループがCTスキャン撮影をはじめとするDNAや放射線調査によってツタンカーメンのミイラの検証を行なった結果、ツタンカーメンは近親結婚で生まれたことによる、先天的な疾患を患っていた可能性が高いことが判明した。背骨の変形や足の指の欠損、臓器疾患の跡が確認され、おそらく死因は大腿骨骨折による敗血症とマラリアの合併症であったというのが、最新説として発表されている。
 かつては、後頭部に強い打撃を受けて命を落としたという説が最も有力視されていたが、X線写真に写っていた頭蓋骨の中にあった骨片は、ミイラ作りの際に脳をかきだすために開けられた穴から落ちたものと結論づけられ、頭部打撃による暗殺説は現在では否定されている。
 少なくともツタンカーメンの直接的な死因が病死であることはほぼ間違いないとされているが、大腿骨には縦にひびが入っており、太い大腿骨を縦に割るにはかなり強い力を要することから、戦車等から落下したのではないかと推測されている。それが不幸な事故であったのか、何者かによる暗殺未遂であったのかは、今や知る術はない。