絵の才能を買われた修行時代

 時は流れ、1891年。エジプトのベニ・ハッサン。
 ナイル河中流域にある岩窟墳墓の中で、一心不乱に壁画の模写をしていた少年は、一息つこうとスケッチブックを小脇に挟み、薄暗い墳墓から抜け出した。目の前に広がるのは、一面の砂漠と透き通るような青い空、照りつける太陽。そこに佇むかつての繁栄の面影を伝える壮大な遺跡の数々は、何度見ても少年の心を強く揺さぶる。この少年が、のちにツタンカーメンの墓を発見するハワード・カーター(Howard Carter 1874~1939)である。
 カーターは、1874年にロンドンのサウス・ケンジントンで、9人兄姉の末っ子として生まれる。体が丈夫でなかったカーターは学校に通えなかったが、絵を描くことは得意であった。動物画家である父親から手ほどきを受け、次第に父親の助手としてわずかながらも収入を得るまでになっていく。
 父親の顧客からの紹介で、エジプト考古学の第一人者フリンダーズ・ピートリー率いる発掘隊がエジプトから持ち帰った、出土品などの模写画を整理していたカーターのもとに、ある日運命の話が舞い込む。目に映るものを精密に描くことのできる才能を高く評価され、エジプト調査基金(現在の英国エジプト学会)の調査隊のスケッチ担当として、エジプトに同行しないかと誘われたのである。このときカーターは17歳、エジプトでの長い発掘生活の幕開けであった。
 カーターは、この調査が終わっても英国へ戻らなかった。ピートリーやスイス人考古学者エドワール・ナヴィーユの発掘隊に引き続き助手として参加し、やがて発掘作業にも加わるようになる。朝は誰よりも早く起きて現場に向かい、昼間は発掘の一からを実地で教わり、夜は古代エジプト史やヒエログリフ(象形文字)を独学で学ぶ日々を送った。
 1899年、25歳になったカーターは、これまでの現場経験やピートリーらの推挙もあり、エジプト考古局のルクソール支部・首席査察官に就任。この若さでの首席査察官採用はきわめて例外的だったはずであり、カーターの優秀さがうかがえよう。
 古代エジプト時代にテーベと呼ばれていたルクソールはナイル河で分断されており、その一帯には多くの遺跡が残されている。日が昇る方向であるナイル河東岸にはカルナック神殿やルクソール神殿など「生」を象徴する建造物が建ち、日が沈む方向である西岸には「死」を象徴する王家の谷などの墓所が広がる。カーターは査察業務の傍ら、アメリカの富豪セオドア・デイヴィスが発掘中の王家の谷で、遺跡発掘の現場監督としても采配をふるっていた。発掘への情熱をいかんなく注ぎ込むことのできる職を得て、カーターがやりがいと充実感を味わっていたであろうことは想像に難くない。
 ところが1903年、首都カイロ近郊のサッカラ支部へ異動が決まったことにより、順調に進んでいた人生は急変する。赴任したサッカラのセラピウム(聖なる牡牛の地下回廊)入口にいた警備員と、入場料を払わずに入ろうしたフランス人観光客の間で起きた小競り合いに巻き込まれたのだ。カーターは仲裁に入るが、観光客たちは酔っ払っており、警備員と殴り合いにまで発展。この事件を知ったフランス総領事は責任者であるカーターを非難し、公式な謝罪を要求した。しかしその謝罪を拒んだため、考古局を解雇されてしまう。
 失業したカーターはルクソールに戻り、デイヴィスに発掘監督として再び雇ってもらえないかと頼むが、考古局という後ろ盾をなくした代償は大きく、話さえ聞いてもらえず、引き下がるしかなかった。仕方なく観光ガイドをしたり、自身で描いた水彩画を観光客に売ったりしながら凌ぎ、発掘のチャンスが巡ってくるのを待った。



1924年、49歳のハワード・カーター。

 

「執念」と「財力」―運命の出会い

 1907年、遺跡発掘に投資している一人の英国人紳士が、カイロのエジプト考古局にやって来た。考古局長は「またか」とひっそりため息をついた。当時、発掘の真似事をしたがるヨーロッパの上流階級出身者は珍しくなかった。しかし、そう簡単に遺跡が見つかるはずがなく、また作業中は発掘現場に立ち会わなくてはならないため、1~2年ほどで音をあげる。その結果、中途半端に放置される場所が増え、考古局長は頭を悩ませていた。ところが、「発掘放棄の話だろう」と覚悟を決めて会った紳士の態度は、これまでの投資者とは少し異なっていた。
 11世紀にさかのぼる家柄を誇るカナーヴォン伯爵家の第5代当主、ジョージ・エドワード・スタンホープ・モリニュー・ハーバート(George Edward Stanhope Molyneux Herbert, 5th Earl of Carnarvon 1866~1923)は子供の頃から好奇心旺盛で、冒険にあふれた生活に憧れていた。乗馬やヨットを好み、爵位を継いでからは自動車に熱中。自らハンドルを握ってヨーロッパ中を旅した。しかし、数年前にドイツで起こした自動車事故により、毎年冬は英国を離れて療養するようになる。ギリシャやスペイン、南イタリアでの生活に飽きたカナーヴォン卿は、医者に勧められてエジプトで過ごすうちに、神秘的な遺跡群に魅了されて発掘投資を決めたのであった。
 発掘開始から数ヵ月が経ち、ほとんど成果が出なかったにもかかわらず、カナーヴォン卿に諦める気配はなかった。どうすれば墓が見つかるのか真剣に相談を持ちかける、その並々ならぬ熱意は、ある男を彷彿とさせたに違いない。考古局長は発掘には知識のあるプロの考古学者が必要であることを説き、無職であるものの、発掘への情熱だけは人一倍熱いカーターを推薦したのである。



好奇心旺盛だった英国の名門貴族、第5代カナーヴォン伯爵。