旅路の果て

 1897年5月19日、ワイルドはようやく出所した。
出会って以来ずっと友人関係を続けていたロバート・ロスは、ワイルドを同性愛の道へ引き入れたことを深く後悔しており、事件以後は献身的な働きを続けていた。彼はワイルドが劇作家としてパリで再起を図れるよう、当地での暮らしのための準備を整えていたのである。
「セバスチャン・メルモス」という変名を使ったワイルドは、こうしてフランスへ向かう。妻を始め、ワイルドの支援者からの仕送りによる亡命生活の始まりである。ところが、ワイルドはまたも過ちを犯してしまう。獄中では非常な怒りを感じていたはずのボウジーに、手紙を出してしまうのだ。この頃もボウジーは相変わらずの放蕩生活を続けており、金に困るとワイルドからの手紙を売って暮らすような有様だった。ワイルドの手紙に答えたボウジーはフランス北部のルーアンを訪れ、2人は再会する。たった1日の逢瀬だったが、ワイルドの再生への決意は完全に崩壊してしまう。


トラファルガー広場そばのアデレイド・ストリート(Adelaide Street)にある
『A Conversation with Oscar Wilde』と名づけられたオブジェ。

 この再会後ワイルドがボウジーへ宛てた「いとしい私だけの子へ」で始まる手紙には、「美しい芸術作品を創りたいという私の願望は、あなたと一緒でなければ果たせないことに気づきました」とある。この後ワイルドとボウジーはナポリへ遊びに行ってしまい、それを知ったコンスタンスは、さすがに仕送りを停止する。
ナポリで放蕩の限りを尽くしていたワイルドとボウジーは、すぐにすべての金を使い果たす。だが、ボウジーにとって貧乏なワイルドなど、何の魅力も感じられない、ただの中年男に過ぎなかった。2人の関係にも少々飽きてきた彼は、ワイルドの前から姿を消す。
傷心のワイルドが一文無しの状態でパリに辿り着くと、そこで待っていたのは妻コンスタンスの死の知らせであった。脊髄の病を患っていた彼女は、ジェノバでの手術のかいもなく、ワイルドの今後について心を痛めながら死去したのだった。
コンスタンスが病気で苦しんでいたことすら知らなかったワイルドは、自分を責めに責めた。彼女の墓を訪れた後ロバート・ロスに手紙を書いている。「どのように後悔しても、もうどうしようもないという気持ちでいっぱいだ」。墓にはワイルドの名字はなく、「コンスタンス・メアリー、弁護士ホレス・ロイドの娘」とだけ刻まれていた。
ワイルドの精魂は尽き果て、もう創造のための集中力さえ見つけられそうになかった。彼は強力なアブサン酒と友人からの支援に頼った日々を送る。ズボンには穴があき、滞在先のホテルは料金未払いで追い出された。更に健康も悪化し、激しい耳の痛みなどに悩まされ始める。
1900年9月、パリの街は万博で賑わっていた。エッフェル塔が完成し、地下鉄も開通。新しい時代の幕開けである。そんな中ワイルドの体調は悪化し、「アルザス・ホテル」の一室で寝込んでいた。「イングランド人は私が死んでも異議を唱えないだろうね」と、同性愛主義の友人、レジナルド・ターナーに述べている。ターナーは、一時的に所用で不在にしていたロスの代わりに看病につとめていたのだった。


1889年撮影のワイルド。

 10月に部屋で耳の手術を受けるが、経過が思わしくなく、11月に入って意識が混濁し始める。27日、突然「マンスター号では僕に食事を出してくれるかな?」とうわ言を口走る。マンスター号とはウェールズのホリーヘッドからアイルランドへ向かう定期船のことで、ワイルドの心はこの時すでに故郷アイルランドへ向かっていたと想像できる。英国でキャリアの絶頂を迎え、人生を棒にふるほど愛したボウジーと出会ったのも英国だったが、ワイルドが最後に欲したのは故郷での静かな日々だったのかもしれない。
29日、若い頃からの念願どおりカトリックに改宗し、その翌日である1900年11月30日午後1時50分、オスカー・ワイルドは大脳髄膜炎で息を引き取る。46歳だった。枕元にはロス、ターナー、そして宿の親切な主人の姿しかなかった。
かつて「芸術生活とは長い自殺行為である」と語り、「人生は芸術を模倣する」と書いたワイルド。芸術至上主義を謳った彼は、自ら破滅の美学を生きてみせることで、その人生を芸術作品として後世に残したのである。

ワイルドの華麗なる世界
◆◆◆ 童話 ◆◆◆
ワイルドといえば、耽美主義的、皮肉とウィットに富んだ大人向けの作品ばかりを思い浮かべる人が多いだろうが、優れた児童文学を残している。代表作は『幸福な王子』と『わがままな巨人』で、ともにワイルドの子供向け短編集『The Happy Prince and Other Stories』(1888年刊)に収録されている。挿絵は当時の人気挿絵画家ウォルター・クレインとジャコブ・フッドによる。
『幸福な王子』The Happy Prince
ワイルド34歳の時の作品。自己犠牲により他人の幸福を願う人物が主人公。ある町の中心部に、金箔の王子の像が建っていた。その王子の両目は青いサファイア、腰の剣の装飾には真っ赤なルビーがはめ込まれ、美しい王子の姿は町の人々の誇りだった。ある時寝床を探すツバメが王子の足下で寝ようとすると、上から大粒の涙が降ってきた。それは、この場所から見える不幸な人々の姿に涙する王子のもので、彼は自分の体に付いている宝石を不幸な人々に与えるようにとツバメに頼む…。ワイルドの童話の中で最も有名な作品。
『わがままな巨人』The Selfish Giant
キリストと思われる人物も登場する、宗教色の強い作品。近所の子供たちを自分の庭で遊ばせないわがままな大男に、鳥や花そして春という季節すらも愛想を尽かし、彼の庭には冷たい風や雪しかやって来ないようになる。幼い2人の息子シリルとヴィヴィアンのために書かれ、ワイルド自身によって子供たちに読み聞かされたという。
◆◆◆ 小説 ◆◆◆
ワイルドはその生涯に幾つもの戯曲を書いているが、長編小説は『ドリアン・グレイの肖像』が唯一のもの。
『ドリアン・グレイの肖像』(1890年)The Picture of Dorian Gray
年齢を重ねても美貌が衰えない美しい男性ドリアン。彼は享楽的な暮らしに明け暮れるが、代わりに醜く変化していくのは、彼の肖像画だった…。発表当時、主人公のドリアン・グレイとワイルド自身の相似点を挙げる批評家もおり、後の裁判で本作が「証拠」として使われることになる。主人公の名前グレイは、当時関係のあった青年ジョン・グレイから、ドリアンは古代ギリシャの部族の名から取られている。左は、1945年の映画版をリメイクした作品(2009年)のDVD。
◆◆◆ 主な戯曲◆◆◆
テレビも映画もなかった当時にあって、舞台はエンターテインメントとしてきわめて重要な地位を占めていた。特に、当時のイングランドでは上流階級が楽しむ娯楽とされており、戯曲で成功するには、こうした上流階級の観客の支持を得る必要があった。下に挙げたもののほかに、『つまらぬ女』(A Woman of No Importance/1893年)、   『理想の夫』(An ideal Husband/1895年)=写真はその映画版(1999年)のDVD、『真面目が肝心』(The Importance of Being Earnest)(1895年)などがある。
『ウィンダミア卿夫人の扇』(1892年)Lady Windermere's Fan
ワイルドの劇作家としての名声を一躍広めた作品で、4作目の戯曲。これまでワイルドは新訳聖書など古典的な題材を選んでいたが、この作品で初めて現代社会を舞台にした。1本の美しい扇を中心に展開する、謎めいた女性と若く貞淑な妻の対決という有閑階級の恋愛模様をスリリングに描いた風刺劇で、驚きの結末が用意されている。本作は大ヒットし、ワイルドは初公演にして7000ポンドという多額の興行成績を収めたという。ちなみに2004年には『理想の女』のタイトルで、スカーレット・ヨハンソン、ヘレン・ハント主演で映画化されている=写真。
『サロメ』(1892年)
ワイルドがフランス語で書いた、新約聖書を基にした戯曲。洗礼者ヨハネの首を欲しがったヘロデ王の娘サロメについては、これまでもたびたび芸術上の題材になっていたが、ワイルドは切り落とされたヨカナーンの首にサロメが口付けするシーンを加え、これが物議をかもした。1892年に公演を予定されていたが国内公演禁止を通達され、怒ったワイルドはフランス国籍に変えることも考えたと言われている。結局、1893年にフランス語版の戯曲が発表され、英語版は翌年1894年にボウジーの翻訳で出版された(ただし間違いが多く、ワイルドが随分手直しをしている)。世紀末の画家オーブリー・ビアズリーが妖艶な挿絵を提供している=右のイラスト。
参考資料
『Brief Lives: Oscar Wilde』by Richard Canning Hesperus Press Ltd
『オスカー・ワイルドの生涯』山田勝・著/NHKブックス
『オスカー・ワイルドの妻 コンスタンス・メアリー・ワイルドの生涯』アン・クラーク・アモール著、角田信恵・訳/彩流社 ほか