運命を狂わす出会い

 ワイルドはこのロバート・ロスによって自分の嗜好を期せずして『発見』することになる。年上の男性が若い男性に経験や知恵を授け、引き換えに若い男性は太陽のように輝くばかりの美しさを提供するという、「古代ギリシャ文明に存在した男性同士の真に崇高な愛のスタイル」だとワイルドは言う。


「ロビー」ことロバート・ロス(1869~1918)

 しかし、奇しくもこの前年、英国では同性愛者を今まで以上に厳しく罰する法律が施行されたばかリだった。富国強兵と帝国主義の道をまっしぐらに進む英国にとって、子孫繁栄を阻害する不毛な同性愛は無用どころか、この世の悪、罰するに値するものだったのである。これに挑むように、ワイルドは「芸術はすべて無用なものである」という逆説的な言葉を残している。
彼がもし、素直に世間の道徳観念に従うような人物であれば、悲劇的な道を歩むことは避けられただろうが、そもそも、ワイルドの作品の数々も生まれることはなかった。運命という言葉で片付けるべきではないかもしれないが、オスカー・ワイルドの才知は、反社会的な環境の中でこそ輝く運命にあったのである。
やがて、ワイルドの思想を散りばめた『ドリアン・グレイの肖像』が1890年に発表されるが、この本はこの時代の価値観である物質主義や富国論、偽善的なモラルなどに真っ向から挑戦していた。「非道徳」で「堕落の頂点に達した」小説だと大きな非難を呼ぶが、ワイルドは「世間が非道徳と呼ぶ本とは、それが社会の恥辱を暴いたからだ」「道徳的な本とか不道徳な本とか言うものは存在しない。よく書けた本かヘタクソな本か、それだけだ」と批判に答えている。
『ドリアン・グレイの肖像』によってワイルドは芸術至上主義者として、ヴィクトリア社会に反旗をひるがえしたのだ。多くの芸術家たちがこの本に感銘と刺激を受け称賛し、ワイルドは遂に「ダンディな服装の社交家」から、革新的な作家へと脱皮したのだった。


ワイルド(左)とボウジー(1893年撮影)。
スティーヴン・フライ主演の映画『ワイルド』では、このボウジーを当時25歳、
美しかりし頃のジュード・ロウ(髪のはえぎわも後退していない)が演じている。

 だが、この成功によってワイルドは一人の青年と出会うことになる。ワイルドが後に身を滅ぼす原因となった、「ボウジー」ことアルフレッド・ダグラス卿(Lord Alfred Bruce Douglas)の出現である。クイーンズベリー侯爵の次男という22歳のボウジーはオックスフォード在学中の学生で、友人から勧められて『ドリアン・グレイの肖像』を読む。大いに気に入った彼はタイト・ストリートのワイルドの自宅を訪れた。ボウジーは小柄でブロンドの美しい青年だった。おそらくワイルドが美の理想とした姿そのものであったのだろう。更に、甘やかされて無軌道で生意気という、美しい者にのみ許される非常にやっかいな性質も持ち合わせていた。ワイルドはあっという間にボウジーの虜になってしまう。ワイルドは37歳になっていた。

「英国」相手の法廷対決

 ワイルドと自分の息子が関係を持つことに我慢ならなかったクイーンズベリー侯爵は、ワイルドと会うことを続けるなら勘当し、金銭的援助を打ち切るとボウジーに申し渡すと同時に、ワイルドに何度も嫌がらせを試みている。このクイーンズベリー侯爵というのは、貴族でありながらかなり粗野な人物で、偏執狂的な性格を持ち併せていた。家庭内では、暴君的存在で、ボウジーとの親子仲もよくなかった。
侯爵は、ワイルドの戯曲『真面目が肝心』の初演当日、劇場に野菜クズを投げ込もうとしたり、拳闘家を連れてワイルドの家に乗り込んだり、ワイルドの通うクラブに「男色家を気取るワイルドへ」という名刺を置いて帰ったりという、かなり低俗な行動をとっている。それに対し、ワイルドは侯爵を名誉毀損で訴えるのだが、これは自発的な行為ではなく、これを機に父親に仕返しをしようと考えたボウジーのアイディアだったとする説もある。しかし、この裁判は『ウィンダミア卿夫人の扇』『サロメ』『何でもない女』『理想の夫』と矢継ぎ早に作品を発表し、制作の上で絶頂期にあったワイルドの運命を大きく変えてしまうことになる。


アルフレッド・ダグラス卿(1870~1945)。
ボウジーと呼ばれるようになったのは、彼を溺愛した母親が、
「坊や」を意味するボイジー(Boysie)を縮めた
ボウジー(Bosie)という愛称をつけたことに始まる。

 クイーンズベリー侯爵への裁判が行われ、侯爵には無罪の判決が下る。怒りのおさまらぬ侯爵から、今度は逆にワイルドが男色罪(正しくは複数の青年といかがわしい行為をした猥褻罪)で訴えられてしまう。侯爵は国会議員であった甥の力を利用して、入念な政界工作を施したのだった。しかも私立探偵を雇い、ワイルドと関係した青年たちを集め不利な証言をさせようと待ち構えていたとも言われている。ワイルドが様々な階級の青年たちを知るに至ったのはボウジーの誘いによるものであるが、ボウジー自身は裁判中フランスへ逃れていた。
ワイルドは嘘をつく気も逃げるつもりもなかった。おそらく自分の弁舌の才能に自信を持っていたのだろう。だが、同性愛に対する嫌悪、頑固な階級制度、ヴィクトリア朝の道徳観、つまり「英国」はワイルドを許すつもりは到底なかった。この点をワイルドは過小評価しすぎていたとしか思えない。
下層階級の若者を豪華なレストランに連れて行き、食事を振る舞ったり銀のシガレット・ケースを与えたりするのは、「異常なこと」であるとワイルドはしつこく追求される。
そして、1895年4月4日、公判の2日目に、ワイルドはついに敵の術にはまってしまう。ある一人の少年との関係について「キスをしたのですか?」とダイレクトな質問を受けたワイルドは「まさか。彼は地味な青年で、随分と醜かったんです。気の毒になるくらいでした」と答えてしまったのである。ワイルドがボロを出すことを虎視眈々とねらっていた原告側がこれを見逃すはずはなかった。「醜いからキスをしなかったということですか」という鋭い質問が重ねて発せられた。これは「醜くなければキスをしていた」、つまりワイルドが自ら男色の嗜好があることを認める発言につながる。ワイルドは、次第に追い詰められて行く。また、当時の法律では被告の証言は証拠として採用されなかったため、ワイルドは文字通り孤立無援の状態で法廷に立っていたわけである。
ワイルドの弁護士は国外逃亡を薦めたが、彼は頑としてそれに従おうとしなかった。4月6日、ロンドンのカドガン・ホテルの滞在中に逮捕され、5月25日に有罪判決を受ける。懲役2年、重労働の刑であった。
この結果にクイーンズベリー侯爵は大喜びし、仲間たちと大々的な祝賀パーティーを開いた。かたや、ワイルドの書物は書店から姿を消し、芝居も上演中止となった。ダンディと言われたワイルドが、丸刈りにされ囚人服を着せられると知り喜ぶ人々もいた。
ワイルドはホロウェイ、ペントンヴィル、ワンズワースとロンドン市内の刑務所を点々と廻されたあと、ロンドン郊外、レディングの獄舎に送られる。ここは囚人に特に過酷なことで知られた刑務所で、ワイルドは「C・3・3」という囚人番号で呼ばれることになった。1日6時間「トレッド・ミル」という足踏み式の水車をまわし、郵便配達用の袋も縫わされたとされている。面会に訪れた妻のコンスタンスは、衰弱して傷だらけのワイルドの姿にショックを受ける。多くの友人から離婚を勧められていた彼女だが、ワイルドを見捨てることなど出来ないと考え、出所後も彼を金銭的にサポートすることを約束したのだった。

デカダンスと反プロテスタント主義
「食事も十分出来ない状況下で生きる者に清貧を説くのは酷であり、侮辱だ」。これはワイルドが当時ヴィクトリア朝の英国で美徳とされていたプロテスタントの「清く貧しく美しく」という教えに対して述べた言葉である。贅沢を愛するワイルドがプロテスタント思想を否定するのは、ごく至当なことともいえるが、これを単なるデカダンス趣味と片付けるべきではないようである。当時の英国の状況を簡単に振り返ってみよう。
州は1873年~1896年の間、世界初の同時恐慌(The Long Depression)に見舞われていた。中でも英国は最も激しい打撃をこうむった国の一つといわれており、英国の巨大産業が他の欧州国に対して保っていた優位も失っている。こうした中で真っ先に影響を受けるのは立場の弱い労働者階級であり、貧困層だろう。この時代のプロテスタントの思想は資本主義と深く結びつき、グロテスクな様相を示していた。「低賃金にもめげない忠実な労働を神は深く喜び給う」というのである。支配層は、自分たちはいかにして富を増やすか思案しながら、その一方で労働者たちに勤勉と清貧を説いていたわけだ。産業革命後の労働者は効率よく製品を量産するためのロボットであり、個人の能力を発展させるようなものはすべて「悪い」として潰された。こんな時代にあって「神はいつもおまえを見ている」という言葉は、もはや宗教ではなく脅しであろう。
19世紀末の退廃的なデカダンス文化やダンディズムは、このような風潮に反して現れた、反プロテスタント主義、反全体主義の文化といって良いだろう。「健康的で質素でよく働く」まるでロボットか家畜のような人間が求められる中、不健康でアンニュイなライフ・スタイルが反抗の象徴、一つのポーズだったのである。ワイルドは個人主義の必要性を、その著作「社会主義下における人間の魂」の中で説いており、イエス・キリストは最大の個人主義者だったとも記している。ワイルドが抵抗したのは、ねじ曲げられた当時の道徳観であって、宗教そのものではなかったのだ。後に発表される童話「幸福な王子」は、信仰心なしには書けない作品である。 ワイルドを始めとした世紀末の芸術家たちは、退廃的な背徳者である点ばかり強調されがちだが、当時の時代背景を考えることなしには、彼らの立場を正しく捉えることは難しいだろう。