文化人としてアメリカへ

 1878年に大学を主席で卒業し、ロンドンに住まいを移したワイルドだが、この頃にはすでにロンドン社交界での人気が高まり、自宅で開くサロンには有力な政治家や王室のメンバーまでが訪れるようになっていた。81年に上演されたギルバート&サリヴァンの耽美主義を風刺したオペレッタ 『ペイシェンス』には、ワイルドをモデルにした人物まで登場している。
ニューヨークで『ペイシェンス』が非常に成功したことから、興行主はワイルドを米国に送りこんで講演旅行をさせるアイディアを思いつく。ワイルドは特定の職業に就いておらず、時々雑誌や新聞に寄稿したりする暮らしを続けていた。このためその人気とは裏腹に、ますます金銭的余裕がなくなってきていたのだった。このチャンスに背を向けるはずはなく、81年12月、27歳のワイルドは「アリゾナ号」でリヴァプールから海路、ニューヨークへと向かう。
当時の米国は富裕層が増えたものの、文化的にはまだ未熟な若い国であり、欧州文化への憧れが強かった。そのため、当時はチャールズ・ディケンズを始めとする欧州の人気作家が、自作を読み聞かせたり、講演をする目的で米国を訪問した。彼らは米国に欧州の文化を紹介することで、高い報酬を得ていたのである。
ワイルドはこの時、到着したニューヨークの税関で「私の才能以外に申告するものはない」と言ったとされているが、真偽の程は定かではない。彼は「英国のルネサンス」等の主題で、西部開拓地を含む米国各地を過密スケジュールでまわる。
欧州文化に憧れる米国の観客たちを喜ばせるため、ワイルドは長い髪をなびかせ、衣装も耽美主義的な華美なものにして壇上に上がった。そして口を開けばオックスフォード大学で鍛えたクイーンズ・イングリッシュによる警句が飛び出すというわけで、ワイルドの米講演ツアーは各地で大好評をもって迎えられた。ファン・レターが殺到し、まるでアイドル・スターのような扱いを受けたという。やがて、戯曲作家としても名声を手に入れるワイルドだが、観客が何を欲しているか、どうすれば「受ける」かということを本能的に察知する稀有な才能に恵まれていたのだ。
ワイルドは米国人の子供じみた素朴な反応を面白がっていたようである。開拓の進む西部の銀鉱山を訪れ、鉱夫たちを相手に講演も行っている。米国滞在は当初3ヵ月の予定だったが、講演が好評を博したため延長となり、結局ワイルドは1年近くも米国に滞在した。各地での講演数は70回に上ったといわれる。ロンドンに戻ったワイルドを迎えた母親のジェーンは、彼が随分成長したことに驚いたと伝えられている。
米国から戻ったワイルドはその足でパリへ向かう。パリでの講演を試みたワイルドだが、当時デカダン(退廃的な芸術至上主義)の本場で世紀末文化の中心地であったパリは、米国と違いワイルドを無邪気に迎えてはくれなかった。だが、この時ワイルドは文豪ビクトル・ユゴーやゾラ、人気画家のドガなどと親交を結び、爛熟したパリの文化を改めて吸収する。そして1ヵ月の滞在で米国で稼いだ講演費をすべて使い果たし、ロンドンへ戻る。

つかのまの家庭人生活

 1883年、29歳のワイルドは11月にアイルランド名士の娘であるコンスタンス・メアリー・ロイドと婚約。彼女とワイルドが初めて会ったのは、ワイルドが金策に悩んで米国行きを考えていた頃だが、コンスタンスの家族は当初、2人の交際に反対していた。ワイルドの生活態度に懸念を抱き、難色を示していた家族を押し切ったのは、コンスタンスの熱意だった。コンスタンスはおとなしいが聡明な女性で、ダンテの『神曲』を原語のイタリア語で読むようなインテリであり、ワイルドの大ファンでもあった。この時、彼女の中に根付いたワイルドへの崇拝の念は、その後、様々な困難に見舞われても衰えることはなかった。それは、はからずも、ワイルドが同性愛の罪で投獄された際に証明されることになる。


ワイルドの妻コンスタンスと、1885年生まれの長男シリル(Cyril)。
1886年には次男ヴィヴィアン(Vyvyan)も誕生した。

 1884年、5月に結婚。当時のワイルドは講演で各地を走り回ってはいたものの、文壇に地位を確立しているわけではなく、単なる耽美主義者、ダンディとして有名な人物であり、1200ポンドもの借金を抱える身であった。一方でコンスタンスは年収が250ポンドあり、祖父が死んだ場合はそれに加え、年900ポンドが与えられるはずだった。2人はチェルシーのタイト・ストリート16番地(現在の34番地)に新居を構える。装飾美術にうるさいワイルドのため、コンスタンスは改装費に5000ポンドもの大金を用意している。当初から、コンスタンスがワイルドに尽くすという関係だったと見ていいだろう。


ワイルド一家が1884年に移り住んだチェルシーのタウンハウス。
住所は「16 Tite Street」(現在は34番地)。

 1885年には長男のシリルが生まれ、翌年には次男のヴィヴィアンが誕生。ワイルドの生活は家庭人として変化する。もっと家にいなければという意識が、講演で飛び回る日々から執筆生活へと向かわせたのだ。その結果、『幸福な王子』『カンタヴィルの幽霊』『秘密のないスフィンクス』『アーサー・サヴィル卿の犯罪』といった小説を雑誌に連載をするほか、87年には『婦人世界』という女性誌の編集長も務め始める。週3日、1日1時間程度オフィスに顔を出すだけといういい加減なものではあったが、ワイルドの進言で雑誌の内容は向上し、売り上げも伸びたという。
仕事も家庭もようやく軌道に乗り始めていたが、妻のコンスタンスが2人目の子供を妊娠した頃から、ワイルドは彼女の体型の変化に幻滅するようになっていた。「少年のように細くて優雅だった体が、醜く鈍重になってしまった」と友人に漏らしている。古代ギリシャ文明を愛するワイルドの理想は、若くて鞭の様にしなやかな少年であり、脂肪の多い女性は、ワイルドの美的感覚とは合わなかったのだ。
そんな折、ワイルドはパーティーでカナダから来たケンブリッジ大学の学生、ロバート・ロス(Robert Ross)に出会う。彼の祖父はカナダ首相、父親は駐英大使という家柄で、ワイルドの大ファンを公言していた。さらに、彼は同性愛者でもあった。しかも、18歳の時、自分がゲイであることを母親にカミング・アウトするような、進取の気性を持った若者だったのだ。

ワイルドの妻 コンスタンス
キャンダルの多いオスカー・ワイルドを夫に持ち、常に彼を支えたコンスタンス・メアリー・ワイルド(Constance Mary Wilde、1859~1898)は、ワイルドの才能を信じてさまざまな不安と戦う日々を送った。その美貌はパーティーでも注目の的であり、当時の新聞に彼女の着ていたドレスの詳細が載る程であったが、彼女自身はもの静かで控えめな人物であったようだ。
に対する繊細なセンスをワイルドと共有しており、それは意外な方向で発揮された。ワイルドが2年間『婦人世界』の編集長を務めたことは本文で後述するが、その際ワイルドは妻のコンスタンスに執筆を依頼している。彼女は「今世紀の子供服」というタイトルで、子供服は実用的で着心地がよいものであるべきだ、という良い文章を寄せている。それがきっかけとなり、コンスタンスは「合理服協会」の主催者のひとりに祭り上げられる。これは、いかなる流行であろうと体を変形させたり動きを妨げたりする服やデザインに抗議する集団で、ヴィクトリア朝後期に現れた女性解放運動の一種であった。コルセットで締め付けられたり、極端なハイヒールから解放されなければならない、というのが主張である。ワイルドもたった1人の男性会員として、この会のメンバーに名を連ねたという。
う一つコンスタンスが情熱を燃やしたのが政治。当時女性に参政権はなかったが、女性議員を当選させるため、婦人自由党同盟のサンドハースト男爵夫人と共に奮闘した。ワイルドに対するコンスタンスの我慢強い性格や賢妻ぶりばかりが強調され、こうした活動面はあまり知られていないのは残念なことである。