女の子のドレスを着て育った優しい少年

 オスカー・ワイルドことオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルズ・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde)は、1854年10月16日、アイルランドの首都ダブリンの裕福な上流家庭に生まれた。
オスカーの父親は後にサーの称号を得たウィリアム・ワイルド。ヴィクトリア女王の専属医も務めたアイルランド有数の耳目外科医である。考古学や民間伝承の本なども執筆し、アイルランドでは名士として知られる人物だった。一方、妻のジェーンは作家としても活躍するリベラルで快活な女性で、エスペランザというペンネームでも活動。アイルランド愛国者として政治活動にも積極的に参加し、パーティーの花形だったという。当時としては「とんでいる」女性だったといって良いだろう。
彼らにはオスカーのほかに2人の子供がいる。オスカーの2歳年上のウィリアム、そして4歳年下のアイソラ(Isola)である。アイソラはオスカーが13歳の時に病死しているが、彼は封筒に入れた妹の遺髪を、終生、大切に持ち続けたという。
運動好きの長男ウィリアムとは違い、幼い頃は母親によって女の子のドレスを着せられていたという夢見がちで優しい少年オスカーは、9歳まで両親の元で教育を受け、その後は北アイルランドのファーマナ州(Fermanagh)エニスキレン(Enniskillen)にある名門校ポートラ・ロイヤル・スクール(Portora Royal School)へ進学した。夏の休暇は家族と共に田舎や別荘で過ごすという、恵まれた少年時代であった。
ワイルドは終生、アイルランド出身であることに誇りを持っていたといわれ、イングランドでは、彼なりのやりかたで「反体制」の姿勢を貫こうとしたが、彼にとって、アイルランドがそれだけ特別な場所だったのは幸せな思い出のおかげ、ひいては両親のおかげだったと考えて良さそうだ。


ダブリンにあるメリオン・スクエア(Merrion Square)の北西の角に設置されているワイルドの像。
道をはさんだ向かい側には、ワイルドがかつて住んだ家があり、一般公開されている。

 1871年、17 歳になったオスカー・ワイルドは兄のウィリアムの後を追って、「アイルランドのイートン校」と言われる名門パブリック・スクール、トリニティ・カレッジに入学。頭脳明晰であるばかりでなく、好奇心旺盛な17歳にとって、心躍るできごとであったはずだ。彼はここでマハフィ教授(J.P. Mahaffey)の指導によって古代ギリシャ・ローマ文明に対する興味を開眼させる。これが同性愛嗜好に結びついたのかどうかは想像の域を出ないが、すべては後の創作活動にいかされたであろうことは間違いない。そして古典で優秀な成績を修めた学生に贈られる、バークレー・ゴールド・メダルを受賞している。
また、ポートラ・ロイヤル・スクールで萌芽した彼のおしゃべり好きは、トリニティ・カレッジで学んだ討論術で更なる発展を見せる。人生にドラマを求め知的な会話を愛する、母親ジェーンの性格がワイルドに色濃く『遺伝』していたのだ。また、この頃人気の絶頂にあったチャールズ・ディケンズの著作が「大嫌いだ」とも語っており、ワイルドの耽美主義への傾倒は、すでに現れていたといえる。経験主義者で道徳家のディケンズは、若いワイルドに「俗物」と見なされたわけだ。
1874年、奨学金を得て、オックスフォード大学のモードリン・カレッジに入学。いよいよ、英国に足を踏み入れたのである。しかし、特権階級である貴族の子弟ばかりが通うオックスフォード大学で、ワイルドはカルチャーショックを受ける。ダブリン名士の息子とはいえ、この超エリート校に漂う貴族的雰囲気には圧倒されたようだ。だが、ワイルドは自分のアイルランド・アクセントをすぐさま矯正すると、持ち前の警句やウィットに満ちた話術で次第に頭角を現していく。ワイルドは美しいか、美しくないかということについて、すでに確固たる判断基準を持っていたと考えられるが、アイルランド訛りは美しくないもののグループに入れられてしまったのだろう。
私たちがイメージする、ロマンチックな古典的ファッションに身を包んだ長髪のワイルドというのはこの頃に培われたが、当時としてもかなり奇抜なものであったようだ。しかし、ワイルドにとって、自分の判断こそが最も重要。自分に似合っている、美しく見える―それだけで十分だった。

大学停学中にロンドン社交界へ

 この頃、ワイルドの人生を大きく変えるできごとが起こる。父親ウィリアムの死だ。それを境にワイルド家は斜陽に傾き始める。
だが、母親のジェーンは別荘などを売却して年間200ポンドの仕送りを続けた。ワイルドはそれを惜しげもなく使い、そのうえ借金もしていたと伝えられる。当時の物価は、独身の若い紳士が暮らすロンドン市内のフラット賃貸料が年間20~40ポンド、労働者階級の最低年間給与が50ポンドといったところである。200ポンドはかなりの額だったといえるものの、彼には足りなかった。だが、ワイルドは単に贅沢をして喜ぶというケチな精神から散財していたわけではない。ワイルドにとって、極上のものに、できるだけ囲まれていたいという思いは美に対する感性を磨くことに通じていたのだ。
ワイルドの金銭感覚は母親や叔母から受け継がれ、その嗜好はトリニティ・カレッジのマハフィ教授の影響を大いに受けて形成されたといえる。教授は美酒や葉巻、そして骨董品を愛する人物で、若いワイルドは彼から多くを学んだ。また、教授の著作の手伝いをするまでにお気に入りとなっていたワイルドは、オックスフォード在学中に友人たちとローマへ旅する際、このマハフィ教授も誘っている。


オックスフォード大学時代のワイルド。

 当時の英国では、裕福な大学生が卒業旅行と称してイタリアやフランスへ出掛ける習慣があった。これは「グランド・ツアー」と呼ばれ、18世紀に始まったものである。数ヵ月から数年にも及ぶ滞在で、貴族の子弟たちはフランスで優雅なマナーを学び、イタリアでは古代ローマやルネサンス文化の遺産に触れるというのがお決まりのパターンだった。現代の学生旅行とは比べようもない、特権階級にのみ許された召使い付きの優雅な旅である。規模は縮小されたものの、19 世紀にもグランド・ツアーは依然として行われており、大学生たちは「ハクをつける」ため欧州へと向かった。
ワイルドもこの分に漏れず3年生の春休みである1877年にマハフィ教授らと共に欧州大陸に赴く。ローマだけではなくギリシャがその訪問先で、この旅はワイルドに強いインパクトを与えた。イタリアで触れたカトリック文化のレベルの高さに感服したからか、あるいは当時、裕福な若者の間で流行していたからか、この旅行はプロテスタントからカトリックへの改宗を考えるきっかけともなったといわれている。ワイルドはギリシャのコルフからオックスフォード大学の学寮長へ向け、新学期の始まりに10日程遅れるという手紙を投函。学寮長はこれを読み大いに不快に思うとともに、ワイルドがそのままカトリックに改宗するのではないかと気を揉んだようだ。英国国教会(プロテスタント)を「国教」と定めるイングランドにおいて、当時、カトリック教徒への差別はまだ公然と行われていた。 
結局、欧州旅行のため新学期の始まりに2週間以上遅れたワイルドは、不遜な態度から教授の心証を悪くして半年間の停学と、奨学金の停止処分を受けてしまう。だが、ワイルドはここぞとばかりにロンドンの社交界へ顔を出し始め、その特異なファッションと人を逸らさぬ会話術であっという間に人気を獲得する。ワイルドはまだ何もしていない大学生のうちから英国社交界の有名人になってしまったのである。