Special Thanks to: Leach Pottery, Tate St Ives.

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/田中晴子・本誌編集部

■ 明治末期の東京を訪れ、陶芸の魅力に取り憑かれた英国人、バーナード・リーチ。白樺派とも交わり、柳宗悦による民芸運動の発展にも大きく貢献、日本では「親日派」「日本の陶芸を西洋に広めた人物」として語られることが多い。幼少期をアジアで過ごし自己の確立に悩んだ彼が、数十年の旅路の果てに辿り着いた独自の思想と、その生涯を前・後編で追ってみたい。

東西の文化が融合した作風が特徴的なバーナード・リーチの作品群。© The estate of Bernard Leach/Tate St Ives

桜、たくあん…朧げな日本の記憶

「To Leach or not to Leach」

スタジオ・ポタリー(Studio Pottery/製陶所)の父と呼ばれ、それまでの英国における陶芸の意識を大きく変えたバーナード・リーチ。だが20世紀前半の英国では、東洋の陶芸から強烈な影響を受けているリーチの姿勢や作品に対し、拒否反応を示す陶芸家も少なくなかった。しかし、流行した冒頭の「リーチか、否か」というフレーズは、英国の陶芸家にとってリーチがどれほど大きな存在であるかを示しているとも言える。

リーチはヴィクトリア女王の即位50周年に沸く大英帝国下の香港で、1887年1月5日に生まれた。当時の英国は世界各地に植民地を所持し、リーチ家の人々の多くは政府関係者、あるいは法律家として、東アジアの植民地各地で活躍していた。父親もオックスフォード大学を卒業した後、香港で弁護士として働いていたものの、妻がリーチを出産した直後に死去。そのため彼は、日本で英語教師をしていた母方の祖父母に預けられることになる。4歳まで京都の祖父母のもとで育てられたが、その頃の日本を「桶の中で泳ぐ大きな魚、桜の花、たくあんの味…」という「五感」に密着した断片で記憶していることを後に語っている。

やがて父親が再婚。リーチは再び香港で暮らし始めた。父の再婚相手はリーチの亡き母の従妹にあたったが、リーチはこの継母に馴染むことができず、代わりにアイルランド人と中国人の血を引く乳母を慕った。彼は生涯を通じて実母の面影を追い続け、これは成人してからの私生活にも多大な影響を与えることになる。

少し経つと、父親の仕事の関係で一家はシンガポールへと転居。香港~日本~香港~シンガポールとめまぐるしく引越しを繰り返し、やがて両親から離れて初めてひとりで英国の地に降り立った時は10歳になっていた。

「中国人」と呼ばれた少年時代

幼いリーチが両親から離れて単身渡英したのは、「本国で高等教育を受けさせたい」という父親の意向があったためだ。ウィンザーにあるイエズス会の寄宿学校に入学するが、ここでのリーチのあだ名は「Chink」。日本人でいう「Jap」に等しい中国人へのの蔑称である。これはリーチが東洋で暮らしてきたことからついたあだ名であったが、アジア生活が長いリーチと、アジアの異文化など何も知らずにヴィクトリア朝末期の繁栄の中に育つ生徒たちの間に、どんな不協和音が流れたかは想像するに難くない。ひとりっこで引っ込み思案、しかも夢想家でもあったリーチは、イジメの格好のターゲットにされてしまった。うんざりした彼にできることは、それこそ夢想による現実逃避くらいだっただろう。

芸術家を目指したリーチは16歳の史上最年少で、ロンドンのスレード美術学校へ入学。ところが、父親の発病により、わずか1年で道は閉ざされることになる。ガンを宣告された父がひとり息子の将来を心配し、美術学校を辞めて銀行に勤めるよう命じたのだ。リーチはまだ17歳。自分の意志を通すには若すぎた。彼は父親の言いつけを守り、スレードを中退した。

翌年、大きな影響力を持っていた父親が死去。しばらく継母と共にボーンマスで生活したが、どうにも我慢がならなかったようで、「銀行員になるための試験勉強に集中するため」と称し、マンチェスターに住む亡母の妹宅に身を寄せた。そして、彼はここで1人の女性と出会うことになる――叔母夫妻の愛娘で4歳上のミュリエルである。だが、従姉弟という近親関係にあたるため、2人の関係は周囲に反対された。

父親の遺言通り、リーチはロンドンのシティにある香港上海銀行(The Hong Kong and Shanghai Bank)に就職、毎晩11時まで働く日々が続く。慣れない仕事に加え、反対されるミュリエルへの想いや中退した美術学校への未練など、あきらめきれないことばかり。精神的にどんどん追い詰められ、我慢の限界に達したリーチは結局1年で銀行を辞職してしまった。

日本との再会と出発

当時、彼が好んで読んでいた小説の中に、「怪談」で知られる小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの著作があった。ハーンは放浪の末、日本に帰化し「小泉八雲」となったアイルランド出身の作家である。古きよき日本の姿が理想化された形で書かれた彼の著書は、リーチの日本に対する興味をいたく刺激した。リーチは「私の他国人に対する同情、すなわち非ヨーロッパ人、黒人、褐色人、あるいは黄色人種に対する私の同情がたかぶり出した。そして東洋に対する私の好奇心が育って来た。そこで私は日本の現状を知ろうとしたのだ」とハーンから受けた影響について語っている。「他国人に対する同情」と彼は言うが、英国において彼は常に疎外感を覚え、他国人の目で西洋を眺めていたのではないだろうか。実際に友人も南アフリカ人やオーストラリア人など、外国人ばかりだった。

ロンドンに留学していた高村光太郎。

銀行勤めで貯めた資金で、リーチはロンドン美術学校に通い始める。そこは留学生も多く受け入れており、その中には後に詩集「智恵子抄」で知られることになる、4歳上の高村光太郎の姿があった。きっかけは高村からであった。教室でひとり静かにハーンを読んでいたリーチに、高村が興味を持って声をかけたのだ。この高村光太郎との出会いにより、リーチの日本への想いはますます強くなっていった。

21歳の成人を迎え、父親の遺産の管理が自らの手で行えるようになると、即座にミュリエルへ求婚。さらに銅版画(エッチング)の印刷機も購入した。美術学校で学んだ銅版画の技術を日本で教えながら、ミュリエルと結婚生活を送ろうと考えたのだ。落ち着いたらミュリエルを呼び寄せることを約束し、リーチは高村からの紹介状6通を手に、ドイツ船で日本へ向かう。1909年3月のことだった。

白樺派との出会いと交流

高村が書いた紹介状のあて先の中には、彼の父親である彫刻家の高村光雲、その友人の岩村透がいた。2人とも東京美術学校(現・東京芸大)の教授である。日本語を全く解さないリーチのために、岩村は教え子を紹介。その教え子の協力を得ながら、まずは上野桜木町にある寛永寺の貸地に、西洋風でもあり和風でもある一軒家を新築し、英国からミュリエルを招き寄せた。

次にリーチが着手したのは、この自宅兼スタジオで銅版画を教えること。生徒募集のため、宣伝を兼ねた3日間のデモンストレーションを開催すると、数人の見学者が訪れる。それは名前をあげれば、柳宗悦、児島喜久雄、里見弴、武者小路実篤、志賀直哉などの、翌年には「白樺派」(※)を起こすことになる蒼々たるメンバーであった。

これ以後、リーチと白樺派のメンバーは互いに学び合い、思想の上でも双方共に多くの刺激を受けていくことになる。特にリーチと2歳下の柳宗悦の関係は生涯続き、日本民藝館(目黒区駒場)の設立にも携わるなど、リーチの思想形成や作品制作に重要な役割を果たしている。

リーチと柳宗悦。© Leach Archive

結局、銅版画クラスはリーチが白樺派から日本文化を学ぶ時間にとって代わられた形で自然消滅。しかし当時の日本は物価も安く、父親の豊富な遺産もあったリーチは、近くの学校で英語を教えたり、美術誌にエッセイを寄稿したりして十分に生活でき、あくせく働く必要はなかったようだ。

一方、妻との関係は彼が芸術にのめり込む分だけ、希薄になっていった。しかも家族愛を知らず、10歳で寮暮らしを始めていた彼は家庭生活、とりわけ夫婦生活がどういうものかよくわかっておらず、異国の地で夫にほとんど置き去りにされたミュリエルは、キリスト教の布教のために日本を訪れている西洋人グループと時間を共にするしかなかった。それは子どもが生まれてからも変わらず、ミュリエルは夫の女性問題にも頭を悩ませることになる。

※白樺派とは、1910年創刊の文学誌「白樺」を中心にして活躍した作家、美術家たちのことで、人道主義・理想主義・個人主義など自由な思想を掲げ大正時代の文壇に大きな勢力を誇った。

陶芸で変化した東西の価値観

1936年に開館した、リーチの作品が多く収蔵されている日本民藝館。© Kamemaru 2000

そんなリーチに、再び転機が訪れる。訪れた茶会の席で、初めて「楽焼き」を体験したのだ。

楽焼きとは低温で焼く、素人も参加できる素朴な焼き物の一種だ。リーチは自分の絵が皿に焼き付けられるのを見て、強い興味を覚える。そして友人を介して紹介された6代目・尾形乾山のもとに入門し、毎日のように工房へ通った。1年後には自宅に陶芸用の窯を築くまでになり、さらに1年後には7代目・尾形乾山の伝書をもらい、免許皆伝とまでなっている。

陶芸を学ぶことは、茶の湯や禅など、より深く日本文化を知ることに繋がり、また中国や韓国の文化に触れることでもあった。リーチは陶芸を通し、さらに広い視野で東洋を、そして美術の世界を見つめていく。それまでは「西洋に対する東洋」という対比で物事を見てきたが、やがて二者の融合――「西洋と東洋の融合」ひいては「西と東の架け橋」となる存在になりたいと考えた。そのためにはもっと東洋を知る必要がある…。彼の目は次の目的地、中国へ向けられていた。

週刊ジャーニー No.1232(2022年3月24日)掲載