東日本大震災発生から10年日本地震学の父 ジョン・ミルン 前編
© Carisbrooke Castle Museum

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/北川 香・本誌編集部

■2011年3月11日、東日本を襲った地震と大津波の 想像を絶する破壊力に、世界中の人々が言葉を失った。 日本人にとって地震は珍しいものではないが、 この『地震大国』で「地震学」が 確立されたのはそう昔のことではない。 しかも、その礎を築いたのはある英国人だった――。 今回は、ジョン・ミルン博士の 多大な功績を前後編でご紹介したい。

1876年3月8日、25歳の若き英国人科学者が明治政府の招聘で日本にやって来た。政府の役人に迎えられ、案内された日本家屋で眠りにつこうとした時、彼を突然襲ったのは「ぐらぐらっ」という不気味な揺れ。床にへたり込み、しばらくは口もきくこともできなかった。この英国人こそが、「日本地震学の父」にして「西欧地震学の祖」と言われるジョン・ミルンだ。

やがて正気を取り戻した時、ミルンの頭の中に様々な疑問が浮かんできた。あの不思議な現象は何なのか? あれだけの揺れがどこから来るのか? なぜ日本に起こって、英国には起こらないのか? 持ち前の探究心が刺激されたミルンは、この不思議な「揺れ」に大いに興味を覚えたのだった――。

ミステリアスな極東の地へ

ミルンの日本滞在中に起きた地震で、被害を受けた村の様子。1876~95年撮影。
© Carisbrooke Castle Museum

ジョン・ミルンは1850年、スコットランド人の両親のもと、リヴァプールで生まれ、ランカシャーのロッチデールにて育った。子供の頃から『知りたがり屋』で、いつも周りの大人を質問攻めにしていた少年だった。

やがて一家はロンドンに移り、17歳になったミルンはロンドン大学キングス・カレッジの応用科学部に入学。数学、機械学、地質学、鉱山学等を学び、さらに王立鉱山学専門大学に進んで地質学と鉱山学を極めた。積極的に実地調査を行い、ランカシャーやコーンウォール、中央ヨーロッパ各地の鉱山を回った。そして23歳になる頃には、地質学と鉱山学の分野で頭角を現すようになった。

学位と現場経験の両方を持ち合わせたミルンは、就職にも困らなかった。1873年、サイラス・フィールド社に鉱山技師として雇われ、ニューファンドランド島(現在はカナダの一部)で石炭と鉱物資源の発掘調査に取り組んだ。そして島の岩石の種類や構造を論文にまとめ、地理学会誌に発表。氷河にも興味を持ち、氷と岩石の相互作用についての調査も行っている。その後も有望な若手地質学者・鉱山学者として引っ張りだこだった。

1875年、ミルンのもとに意外な雇い主からの仕事が舞い込んだ。日本政府が新設した工部大学校の地質学・鉱山学教授職への招聘で、近代化を目指す明治政府のいわゆる「お雇い外国人」政策の一環だった。ミルンは極東のミステリアスな島国・日本で働けることを喜び、すぐに承諾した。

日本までの旅路は容易ではなかった。船酔いをするミルンは船旅を嫌い、周囲の猛反対を押し切って、ヨーロッパ、ロシア、シベリア、モンゴルそして中国へと至る陸路を選択。しかしミルンにとってこの旅程は、足を踏み入れたことのない地域で地質学の研究を深めることができる最高のチャンスだった。壮大な旅は全行程に11ヵ月を要した。

貪欲に火山を調査

工部大学校の環境は、ミルンにとって非常に働きやすいものだった。学長はスコットランド人でグラスゴー大学出身の技師だったし、同僚には英国ですでに顔なじみであった教授もいた。外国人教員のスケジュールはびっしり詰まっていたが、若いミルン教授は活力に満ち、高い評判を築いていった。豊富な知識と内容の濃い授業で学生を魅了し、研究活動にも余念がなく、教材が不十分だと自ら教科書をつくった。特に結晶学の教科書は非常に専門性の高いもので、後に英国で書籍として出版されている。また、時間の許す限り実地調査に出掛け、日本社会の歴史、火山と地震についての知識を深めていった。

1876年に伊豆大島の三原山が噴火した時には、自らの身の危険を心配するよりも研究を優先し、「貴重な研究材料を逃すまい」と現地へ急行。噴火が収まって間もない噴火口に近づき、直径1キロ、高さ100メートルという円形競技場のような噴火口を見下ろしながら、注意深く調べて回った。この調査により、ミルンは火山の生成過程に関する知識を深め、同時にこのような噴火が地震の原因となるのではと仮説を立てている。

この後もミルンは浅間山、千島列島、富士山を含め、日本中の50の火山に登って観測を実施した。そして総合的な研究の結果、「火山活動は地震の原因ではない」という結論に達している。

運命の女性との出会い

ミルンによって撮影されたと思われる、妻のトネ。
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1878年、日本に来てから2年目のある日、ミルンに運命の出会いが訪れる。大学校の休暇を利用した探検旅行で函館にやって来たミルンは、ハンプシャー出身の自然学者トーマス・ブラキストンと知り合い意気投合。ブラキストンは日本の鳥類学の基礎をつくった人で、ミルンと同じく学者としての名声を求めるよりも、謎を解き知識を深めることに集中するタイプの学者だった。このブラキストンがミルンに紹介した日本人女性が、堀川トネである。

トネは1860年、函館山の願乗寺(今の西本願寺別院)の住職・堀川乗経の娘として生まれた。日本はその頃、桜田門外の変で井伊大老の暗殺が起き、幕府は力を失い始めていたが、函館は貿易港として栄え、外国人居留者も多かった。ブラキストンもその一人で堀川家の近所に住んでおり、長いつきあいがあったのだ。

トネは当時の女性としては珍しく、「女性の身でも男性同様に夢を抱いて生きたい」と志す先進的な人物だった。外国や英語に強い興味を持っていたトネは、ブラキストンの勧めで、東京にできたばかりの開拓使仮学校女学校で英語を学んでいた。上流階級の子女が集う中、身分差から辛い思いをしながらも必死に勉強に身を投じていたが、幼い頃から患う脳の病気(詳しい病名は不明)が悪化し、夢半ばで函館へ帰郷。最愛の父も突然亡くなり、心身共に疲れ切っていた彼女が父の墓参りに行った墓地で出会ったのが、ブラキストンに同行していたミルンだった。

2人は3年におよぶ東京と函館の遠距離恋愛の末、1881年に結婚。トネは日本の文献の英訳や歴史の調査など、ミルンの研究に助力した。

ミルンによって生き返った女 堀川トネ

英語を学ぶために、難関の試験を突破して開拓史仮学校女学校へ進んだものの、幼少期から患っていた病気が悪化し、志半ばに退学せざるを得なくなったトネを待っていたのは、函館での「針のむしろ」のような生活だった。
学業の挫折に加え、病気持ちの女性に対する周りからの冷たい目…。呉服屋の息子から縁談が舞い込むも、「洋服を着せたらさぞ似合うだろう」というのが見初めた理由であったと聞いたトネは、「女性は着せかえ人形じゃない。私は飾り物じゃない。女を自分の所有物とみなすような人は好きになれない」と縁談を断った。そんな「先進的」なトネは「やはり脳の病だ」と誹謗中傷される毎日だった。

そんな中での最大の理解者であった父の急死。人生のどん底にいたトネは、函館の墓地でミルンと出会い、瞬く間に恋に落ちた。遠距離ゆえに1年に2度ほどしか会えなかったが、頻繁なラブレターのやりとりが2人の気持ちを近付けた。
3度目に会った時にトネは、ミルンに一生治らない病を持っていることを告白。それに対しミルンは「あなたが受けた屈辱と悲哀の経験をもとに、より広い視野で大きく物事を見ることが本当の勉強だ。私は地震と火山の研究に夢中だ。あなたも英語の勉強がしたいと言っていたね。2人でそんな生活を共にしよう」とプロポーズした。翌年函館に来るはずのミルンを待ちきれず、トネは単身東京に向かい、霊南坂教会で挙式。ミルン30歳、トネ20歳だった。婚姻届は後に渡英が決まってから出されたが、その時にトネは英国での永住を覚悟し、函館に永遠の別れを告げている。自分の意志で外国人との恋愛・結婚を貫くトネには、病に悩む姿はもう見られず、強く逞しい女性となっていた。

トネは34歳の時に、ミルンと共に渡英。ミルンの研究生活を支えながら、各地からの訪問者の接待に忙しい毎日を過ごした。ミルンの没後も6年間、1人で英国に留まったが、体調を崩し1920年にミルンの遺髪を携えて函館に帰郷。晩年はいつも「私はミルンによって生き返ることができた女です」と語っていたという。

「地震学」の設立へ

世界的に神話や迷信で地震の原因を説明していた時代だったが、工部大学校に新たに着任したジェームズ・ユーイングとトーマス・グレイも地殻運動に強い関心を寄せ、ミルンと3人で研究に没頭するようになる。

ミルンは地震研究を2つのアプローチから行った。ひとつは正確なデータをできるだけ多く集めること。そのツールとして、地震の頻度、大きさ、波動の幅と方角、時刻を記録することができる「計測器」を開発しなければならなかった。そしてもうひとつのアプローチは、組織だった研究機関を立ち上げることだった。地質学、鉱山学の専門家としての経験から、新しい科学を学問分野として設立するには、専門家集団が情報交換し共同研究できる場が必須であることを痛感していたのだ。

ミルンが「地震学者」へ完全に移行したのは1880年、マグニチュード五・五の横浜地震直後のことである。「激しい揺れのために部屋の中を歩くこともできなかった」と後にミルンが話しているように大地震だったが、部屋に実験的に設置していた2つの「水平振子の計測器」が、大まかな震度や発生方角等を測定していたのだ。より広範囲の地震のデータをとり、それを分析すれば、地震のメカニズムを解明できるとミルンは確信した。

最初の全国調査は人海戦術だった。各地の役所に、その地域で年間平均何度地震が起こるか、これまで起こった地震についての詳細な記述を用意するように依頼した。各地から多数の回答があり、日本では平均1日に3~4回の揺れがあることがわかった。さらに、ミルンは葉書調査を考案。東京周辺の町や村に依頼し、週単位で揺れの記録を葉書に書き留め返信してもらったのだ。この結果、揺れのほとんどが東または北東海岸線から派生しており、西または南西海岸線からのものがほぼないことが判明。この葉書調査はその後、東京から約700キロ北部の地域まで拡張して続けられた。

振子地震計の誕生

ミルン(右)とジェームズ・ユーイング。1900~13年頃撮影。
© Carisbrooke Castle Museum

実験や葉書調査と並行して、専門家集団の形成も進められた。ミルン、ユーイング、グレイが中心になって「日本地震学会」を設立。1880年には地震学会第1回大会が開催され、ミルンは地震学の現段階での功績と今後の課題を論じている。そして、開発した「振子地震計」15個を武蔵野平原の電報局内に置いて観測を行うことも発表した。

このグレイとミルンが共同開発した地震計は「グレイ・ミルン式地震計」と呼ばれた。当時の地震計がどのように機能したかというと、地球が震動を起こす度に精密なガラスの針が作動し、回転ドラムに巻かれた、黒煙で色付けされた感度の高い紙に線を描いていく。これが震動を表し、波動が極端であればあるほど、大きな地震ということになった。グレイ・ミルン式地震計は解像度と正確性を高めるために何度も改善が施される。1883年に地震測定に有効な三成分の地震波の同時記録に成功したことから、地震学会が東京気象台での公式地震計として採用した。学会でのミルンの最後の論文によると、グレイ・ミルン式地震計により、1885~93年までの間に8331の地震が記録されている。

地震学会が1892年に解散するまでの12年間に、ミルンは日本の地震学の土台を築いた。ちなみに「地震」という言葉も、この頃に初めて使われるようになっている。こうして3年契約の雇われ外国人として来日したはずのミルンは、気が付けば9回目の春を東京で迎えていた。

週刊ジャーニー No.1178(2021年3月4日)掲載