●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部
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までのあらすじ〉兄王の右腕となるべく尽くしてきたリチャードだったが、亡き王の遺言を無視し、自身を排除しようとする王妃の裏切りに激怒。甥にあたる少年王を廃して、短期間のうちに力技で玉座に就いたものの、その強引な手法は大きな反発を呼び…。今号では「冷酷非情な暴君」とされたリチャード3世の凄惨な最期と、その遺骨発掘をめぐる運命的な物語を追う。不安定な王位と相次ぐ死
わずか12歳のエドワード5世を「庶子」と公表して王位継承権を抹消させ、かわりに国王となったリチャード3世が最初に取り組んだことは、要職に就いている前王妃一族の一掃だった。
しかし、根回しのない突然の強引な即位や人事の一新に対し、「王位簒奪」「絶対君主」と捉える者も少なくなく、リチャードが王位を継ぐことに異を唱えていた反リチャード派はもとより、支持者のなかにも密約を交わして寝返る者が出てきてしまう。当時のイングランドの勢力は、主に3ヵ所に分散されていた。第1の地は政治の中心であり、国王のいるロンドン。第2の地は皇太子のいるウェールズ。第3の地は国境を守り、軍事の要であるヨーク。第3の地を引き継ぎ、名実ともに勇将として認められていたリチャードが、政権と軍事権の両方を手中に収めたことに、有力貴族たちは脅威を感じはじめたのだ。反乱の噂が絶えず、常に政情は不安定であった。
その機を逃さず、リチャード打倒に立ち上がった人物がいた。傍系ながらランカスター家の血を引くヘンリー・テューダー(のちのヘンリー7世)である。ヘンリーの母はエドワード3世の血筋の出身であったが、庶子の家系であったため、王位継承権を認められていなかった。それゆえに、エドワード4世が復位したときにも粛清の対象にならず、ヘンリーはフランスで亡命生活を送っていたのである。
さらに負は連鎖していく。1484年、生まれながらに病弱であったリチャードの息子が10歳で早逝。息子の後を追うかのように、妻も結核で死去してしまった。立ち込める暗雲を吹き飛ばすべく、リチャードは決意する。
「ヨーク家とランカスター家の因縁の戦いに、決着をつけよう」
家族の死が相次ぐ中、イングランドへの上陸を目論んで幾度も攻撃をしかけてくるヘンリーに、リチャードは苛立ちを隠せなくなっていたのだ。
1485年6月、リチャードはノッティンガムに滞在し、軍装備の拡充・製造に取りかかる。これまでヘンリーの上陸を阻んできたが、あえて降着を許し、戦場で壊滅しようと考えたのである。
鬼神の壮絶な最期
運命の8月がやってくる。
ヘンリーがウェールズに降り立ったことが伝えられると、リチャードは北部から援軍を呼び寄せ、南部からの援軍はレスターで合流するよう指示する。20日の夕方、リチャード軍はレスターに集結。翌21日の朝、ヘンリーがアザーストーンに到達したとの報を受け、決戦の地へと進軍を開始する。22日朝、ついに両軍はレスターから西へ20キロほど離れたボスワース平原で向き合った。掲げられた無数の軍旗が大きくたなびき、甲冑の触れ合う音と馬のいななき以外、物音はしない。恐ろしいほどの緊張感が辺りを包んでいた。
バン! バーン!
リチャードの軍から敵陣に放たれた銃声を合図に、戦いの火ぶたは切って落とされた。
リチャードは勝利を確信していた。戦闘準備は万全であったし、兵力も圧倒的に有利(リチャード軍1万人、ヘンリー軍5000人)であるうえ、歴戦を戦い抜いてきた経験と自信があったからだ。一方、ヘンリーには軍事経験がなかった。軍の全権を握っていたのはオックスフォード伯で、彼さえ仕留めれば戦いはすぐに終結するように思われた。
リチャードは中央に本軍、右翼にノーフォーク公軍、左翼にノーサンバランド伯軍という布陣を敷いていた。オックスフォード伯はまず右翼に狙いを定め、ノーフォーク公を討ち取る。リチャードはすぐさま左翼に指令を飛ばすが、ノーサンバランド伯は軍隊をその場にとどめたまま動かない。
「裏切りだ!」
リチャードは叫んだ。この背信によって本軍は中央に取り残され、オックスフォード伯軍に囲まれてしまう。絶体絶命の危機に陥ったリチャードの目に、前方からスタンリー卿の援軍(6000人)が到着するのが映った。
「よし! これで挟み撃ちにできる!」
ところが希望を抱いたのもつかの間、なんとスタンリー卿も行進をやめて止まってしまう。
「裏切りだ! おまえもか!」
リチャードは怒りで目の前が真っ赤になった。打開策はないかと周囲に目を走らせると、主戦場から離れた場所で少人数の騎士たちに守られているヘンリーの姿を捉える。「奴を討つしか方法はない」。リチャードは側近に合図を出すと、愛馬の脇腹を力いっぱい蹴り上げて一気に駆け出した。
「ついてこれる者は来い!」
リチャードを先頭にした少数隊は敵兵を凪ぎ倒しながら、一直線にヘンリーへと向かっていく。みるみるうちに距離を詰めていく様は、鬼神さながらだった。しかし、あと一歩というところで邪魔が入る。中立を保っていたスタンリー卿の軍が、リチャードを包囲したのである。リチャードは馬から引きずり下ろされ、襲いかかる数多の剣や斧の前に倒れた。享年32、在位期間はわずか2年だった。
遺体は丸裸にされた後、両手首を縛られた状態で馬にのせられてレスターに運ばれ、衆目にさらされた。ヘンリーがロンドンへ凱旋すると、葬儀はもちろんのこと、身体を清められることさえもなく、グレイフライヤーズ修道院の内陣に簡易的に掘られた穴に放り込まれる。こうして約30年におよぶ薔薇戦争は幕を閉じた。
創作された「極悪人」
「歴史は勝者によって書かれる」という言葉があるように、リチャードの評判が悪いほどヘンリーにとって都合がよかったため、「テューダー朝の敵」としてリチャードは「悪役」に仕立て上げられた。そうして生み出されたのが、腕は萎え、足を引きずり、背中に大きなコブを背負った「醜悪な姿」を持ち、ヘンリー6世や2人の実兄、幼い甥たち、側近などを次々と殺害して王位を奪った「極悪人」である。とくにシェイクスピアによって、その人物像は後世に広く伝わった。
リチャードが見直されはじめたのは、18世紀以降のこと。彼の名誉回復を目指す「リカーディアン(Ricardian)」と呼ばれる歴史家や歴史愛好家たちが登場。そのうちの一人が、リチャードの遺骨発掘プロジェクトを立ち上げた女性、フィリッパ・ラングリーである。
リチャードの墓の探索はこれまでも試みられてきたものの、手がかりを掴めたことはなかった。ラングリー氏は当時の地理を徹底的に検証し、現在は駐車場となっている旧小学校の裏地が、リチャードが埋葬されたというグレイフライヤーズ修道院の跡地ではないかと推測。レスター大学考古学部の協力を得て、発掘作業がスタートした。2012年8月25日、リチャードが埋葬された日から、ちょうど527年を迎えた日であった。
この遺骨発見には、運命的なエピソードがある。ラングリー氏が駐車場を初めて訪れたときのこと。ふと地面にペンキで書かれた「R」の文字が目に飛び込んできた。その瞬間、まるで天啓を得たかのように「リチャード3世はこの下に眠っている!」と確信したという。彼女の強い申し出で「R」のあった付近から掘り起こされ、見事に遺骨を探し当てた。ちなみに、この「R」は「Reserved Parking(専用駐車区間)」を意味するものだが、それにしては書かれた位置がおかしく、かつて専用駐車区間を設けていた記録もないという。
発見された遺骨は、リチャードの姉の家系の子孫とのDNA鑑定が行われた結果、リチャードと断定され、「せむし」とされた体形は誇張ではなかったことが証明された(手や足は健康だった)。ただ当時の上着は生地が厚くボリュームがあったため、背骨の湾曲はそれほど目立たなかったとされている。
また彼の頭がい骨に残された戦傷は、逃げることを拒み、「栄光か死か」の二者択一の突撃をかけた壮絶な最期をうかがわせるものだった。頭部には少なくとも8ヵ所の大きな損傷がみられ、長剣で数回にわたり切りつけられた後、左頬から突き刺された長槍が頭がい骨を貫通、後頭部に矛槍が直撃し、これが致命傷になった。さらに、地に伏したリチャードの頭頂部に短剣が突き立てられ、甲冑を剥ぎ取られた後に背と腰を長剣で刺されている。怨恨深かったように思われるが、中世の戦場ではこうした虐殺は珍しくなかったようだ。
よみがえったリチャードは、グレイフレイヤーズ修道院の向かいに建つ、レスター大聖堂にあらためて埋葬された。その石棺には、生前にリチャードが使っていた銘が古ラテン語で刻まれている。「Loyaulte Me Lie(ロワイヨテ・ム・リ)」、その意味は「忠誠がわれを縛る」。兄への忠心と周囲の裏切りに翻弄された生涯であった。
週刊ジャーニー No.1177(2021年2月25日)掲載