●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部
■ シェイクスピアの戯曲「リチャード3世」の中で、醜い姿をした狡猾で冷酷な人物として登場するリチャード3世。近親者を次々と手にかけて王位を簒奪(さんだつ)した「惨忍な暴君」というイメージが定着しているが、一方で軍事的才能に恵まれた「勇敢な王」だったとも言われている。今号では、戦いに明けくれた彼の激動の生涯と、その遺骨発掘をめぐる運命的な物語を追う。
眠りから覚めた「暴君」
2012年9月5日、イングランド中部の都市レスター。
立ち入り禁止となった市営駐車場の土壌を、作業員や考古学者らが細心の注意を払いながら黙々と掘り返していた。この駐車場は、13~16世紀にかけて修道院「グレイフライヤーズ」が建っていたとみられている場所だ。
この修道院は『稀代の暴君』として知られるリチャード3世とのつながりを、古くから指摘されてきた。遺骨はそこに埋葬され、かの王はそのまま地中に眠っているとも、ヘンリー8世の時代に修道院が閉鎖・破壊された際に掘り起こされ、川に投げ捨てられたとも言われていたが、5世紀以上にわたり、真相をつきとめた者はいなかった。
そして長年にわたる調査の結果、「修道院跡地でいまだに眠り続けているに違いない」と強く信じる、ある女性歴史家の働きかけによって、2009年、ついにリチャード3世の遺骨を探すための一大発掘プロジェクト「Looking for Richard(LFR)」が動き出したのだった。この日は、発掘作業がスタートしてから12日目。すでに建物の土台や床に敷き詰められていたタイル、数体の遺骨を見つけていた。
作業をはじめて数時間ほど経ったころのこと。修道院内でもっとも神聖な場所であり、祭壇や聖歌隊席が並ぶ内陣跡を手作業で掘り進めていた作業員が、人骨らしきものを発見。現れたのは、戦闘で受けたと思われる傷だらけの頭がい骨だった。修道院などに埋葬される場合、遺体は布に包まれるか、棺に納められるのが一般的であるにもかかわらず、布や棺があった形跡がない。そして何よりも埋葬地が内陣ということは、この遺骨がかなり高貴な身分の人物であることを示している。
「これはもしかして!?」
現場は騒然となった。現場責任者や発掘プロジェクトの担当者らを大急ぎで呼び寄せ、関係者が固唾をのんで見守る中、全身を覆った土を慎重に取り除いていく。やがて姿を現したのは、両手を縛られ、背骨がS字型に大きく曲がった人物の遺骨。リチャード3世の身体的特徴と合致するものだった。
いわくつきの王のものと思われる遺骨発見のニュースは瞬く間に広がり、世界を驚愕させた。在位はわずか2年であったにもかかわらず、シェイクスピアの戯曲によって、残忍冷酷、醜悪不遜、奸智陰険など、最大級の汚名を被せて語られてきたリチャード3世。戦場で命を散らせた最後の王でもある彼は、果たしてそれほどまでに極悪人だったのであろうか?
兄への強い忠誠
リチャード3世ことリチャード・プランタジネットは、エドワード3世の曾孫であるヨーク公夫妻の8男として、1452年にノーサンプトンシャーのフォザリンゲイ城で産声をあげた。夫妻は13人の子どもに恵まれたものの、うち6人は早逝。リチャードはその12番目で、実質上の末っ子だった。逆子でかなりの難産であったため、出産の際にリチャードは脊椎に強い後湾症(側湾症の一種)を患うことになった。
リチャードが誕生した時世は、曾祖父エドワード3世がフランスに反旗を翻したことによってはじまった英仏百年戦争の終盤であった。イングランド軍の劣勢が続き、1453年についに敗退。イングランド国内では、当時の国王ヘンリー6世への不満が噴出し、リチャードの父ヨーク公が立ち上がった。ヨーク家が白薔薇を、ランカスター家(ヘンリー6世)が赤薔薇の記章をつけていたことから「薔薇戦争」と呼ばれ、王位をめぐる壮絶な権力争いが繰り広げられることとなる。リチャードの父と次兄は戦死するが、長兄エドワードと母方の従兄弟ウォリック伯爵が勝利をおさめ、1461年、長兄はエドワード4世として即位。リチャードには、弱冠8歳でありながらグロスター公爵位が授与された。
19歳で王となったエドワード4世にとって、年齢の離れた末弟は唯一ともいえる「気を許せる存在」だったのだろう。常にリチャードを気にかけ、11歳になるころには軍事会議に参加させるようになる。リチャードは兄に忠誠を誓い、めきめきと頭角を現していった。
エドワード4世の王位は安泰なものではなかった。ランカスター派の残党に目を光らせなくてはならず、また政治の実権はウォリック伯が握っていた。その鬱憤を晴らすかのように多くの女性と浮名を流し、やがて遠征先で出会った年上の未亡人と秘密裏に結婚してしまう。あろうことか、敵対するランカスター一族の女性だった。
当然ながら、ウォリック伯はこれに激怒した。フランス王女との婚姻話を進めていた彼は面目を失い、さらに王妃の一族が次々と要職に就き、宮廷内の勢力図が塗り替えられようとしていたのである。1469年、ウォリック伯は自身の娘とエドワード4世のもう一人の弟にあたるジョージを結婚させ、彼と手を組んで反乱軍として決起。エドワード4世を王位から追い落とし、ヘンリー6世を復位させた。
ただウォリック伯はこのとき、大きなミスをひとつ犯した。リチャードを己の陣営に引き込むことができなかったのである。目覚しい能力で軍司令官として国王軍の一端を任されていた16歳のリチャードは、長兄と反撃の準備を整える。そして1471年、エドワード4世は王位に返り咲き、ウォリック伯は戦死。幽閉されたヘンリー6世も、ロンドン塔内で殺害された。
裏切りには裏切りを
エドワード4世の治世が長く続いていたら、歴史は変わっていたかもしれない。だが、まわりはじめた運命の輪を止める術はなかった。
1483年、ヨークシャーのミドラム城で妻子と過ごしていたリチャードのもとに、エドワード4世の急死の報が届く。まさに「寝耳に水」の出来事であった。リチャードはエドワード4世が復位した翌年に、ウォリック伯の末娘アン(リチャードの兄であるジョージの妻の妹。ジョージは処刑、妻は病死している)と結婚し、息子を授かっていた。終始忠実であったリチャードの信用は厚く、ウォリック伯が残した広大なイングランド北部の領地を相続。強大な権力を手にしたが、スコットランドとの国境線をしっかりと護り、領地を公平に治め、領民の評判もよかった。
40歳という若さでの王の死は肺炎が直接の死因だったものの、実は長年にわたる不摂生な生活でかなりの肥満体になっており、派手な女性関係によって多数の病も患っていた。王位は12歳になるエドワード4世の長男(エドワード5世)が継ぐことになったが、それに際し、同王は遺言を残していた。その内容とは「息子が戴冠するまでの国王代理、ならびに成人するまでの後見人(護国卿)としてリチャードを指名する」というもの。エドワード4世の弟に対する深い信頼がうかがえる。ところが、これを不服としたのが実権を握っていた王妃の親族である。一族から後見人をたてたうえで、王の死がリチャードに伝わる前に葬儀を終わらせ、エドワード5世の戴冠式を行おうとしたのだ。
しかしながら、その計画はリチャードの知るところとなった。
「これまで必死に尽くしてきた私を裏切るのか!」
激しい怒りで手を震わせながら手紙を握りしめたリチャードは、ひとつの大きな決断を下す。王を支える右腕になろうと研鑽を積み、奪われた王位を取り戻そうと共に戦った日々――兄の遺志を無にすることは気がとがめるが、これ以上、王妃の一族に好き勝手させるわけにはいかない。
「私が王になる…!!」
リチャードの行動は早かった。
まずは王妃を油断させるために、エドワード5世に忠誠を誓う旨を記した文書を送った。そして兄王の追悼ミサをヨークで行い、喪に服すふりをしながらじっと機を待つ。やがてエドワード5世が滞在中のウェールズからロンドンへ向かったことを知ると、リチャードもヨークを発った。ノーサンプトンでの合流に成功したリチャードは、同行していたエドワード5世の側近たちを捕縛した後、エドワードの護衛として堂々とロンドンに進み、10歳の次男ともどもロンドン塔に幽閉した。身の危険を感じた王妃は、中立を保っていたウェストミンスター寺院へ逃げ込んでいる。
議会承認のもと、リチャードはエドワード4世が「重婚」していたことを明かし(事実関係は解明されていない)、王妃との婚姻無効を宣言、子どもたちはエドワード4世の庶子であるとして王位継承権の剥奪と自身の即位を表明した。新国王「リチャード3世」の誕生である。30歳の初夏のことだった。
しかし、少年王を廃して短期間のうちに力技で就いた玉座が、平穏無事であろうはずがない。壮絶な最期を遂げるまでのカウントダウンが、始まった瞬間でもあった。
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週刊ジャーニー No.1176(2021年2月18日)掲載