■ 涙なくしては見られないテレビアニメと言えば「フランダースの犬」。少年ネロと愛犬パトラッシュが悲しい最期を迎えるこの物語は、ベルギーの港湾都市アントワープが舞台だが、実は原作にあたる小説を書いたのは、19世紀に人気を博した英国人作家ウィーダ。今号ではロンドンの窮屈な社会から逃れ、フィレンツェで奔放に暮らした彼女の生涯と、「フランダースの犬」誕生の舞台裏を追う。
●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部
1908(明治41)年、春。
「ニューヨークから小包が届いています」。少年向け児童雑誌の発行人で、内外出版協会を立ち上げた山縣悌三郎(やまがた・ていざぶろう)は、耳に入った秘書の声に書き物をしていた手を止めた。小包の差出人は「本田増次郎」。本田は外交官でありながら文筆家としても活躍しており、「女の一生」「路傍の石」で知られる作家、山本有三の義父でもある。当時はニューヨークで結核の療養中であった。
小包の封を開けると、手紙とニューヨーク・タイムズ紙の切り抜き、そして一冊の洋書が出てきた。手紙には、こう綴られていた。
「ウィーダという作家が、貧困の中、イタリアで死去しました。英国政府から給付された年金の大部分を、犬猫の食料に費やしていたとのこと。同封した本は、彼女の傑作のひとつです。ぜひ日本の若者に紹介してほしい」
ウィーダの死亡告知が載せられた新聞の切り抜きを一読した山縣は、早速同封された本を手に取った。そして同年秋、その翻訳本が店頭に並ぶ。この本こそが、ウィーダが1872年に発表した「フランダースの犬(A Dog of Flanders)」である。
贅沢三昧のロンドン生活
ウィーダは1839年、イングランド東部サフォークの小さな町バリー・セント・エドマンズで、フランス人の父と英国人の母のもとに生まれた。本名はマリア・ルイーズ・ド・ラ・ラメー。幼い頃に「ルイーズ」と上手く発音できず、「ウィーダ」と名乗っていたのが、後にペンネームになっている。読書好きで幼少時から多くの本に囲まれて生活し、とくに父親が語る陰謀うずまく冒険譚や宮廷を舞台にした恋愛物語を聞くのが、何よりの楽しみだった。そんな夢見がちなウィーダの唯一の友達は「犬」。彼女を守るかのように、いつも一匹の犬が傍らに侍っていた。
24歳で文壇デビューを飾ったウィーダは、貴族社会の恋愛模様を情熱的にえがく「新進のロマンス小説家」として一躍人気者となる。1867年にはロンドンの高級ホテル「ランガム・ホテル」に移り住み、これまでの寂しい田舎暮らしを払拭するかのように、夜ごと華やかなパーティーをわたり歩いた。執筆作業はホテルの部屋のカーテンを閉めてキャンドルを灯し、バラに囲まれたベッドの中で行うなど、自分が生み出す世界そのままの優雅な生活を堪能した。
しかし、強い光が当たれば必ず影もできる。大げさな感情表現や、ときにシニカルともいえる社会批判を含ませた文章を酷評する評論家も多く、「陰気な顔」「ナイフのようにキーキーと尖った声」といった辛辣な言葉で揶揄(やゆ)されることもあった。
想い人を追ってイタリアへ
30代に入り、ウィーダは遅まきながら熱烈な恋に落ちる。相手はロンドンで知り合ったイタリア人オペラ歌手。母が止めるのも聞かず、帰国した彼を追って単身でイタリアへ渡航。毎日のようにラブレターを送ったり、オペラ公演のステージ上に花を投げ込んだりと必死にアピールするものの、結局この恋は実らずに終わってしまった。
情熱に身を任せて追いかけてきたウィーダにとって、失恋はかなり堪えた。胸にあいた風穴を埋めるかのごとく、生活はより派手になっていく。ロンドンには戻らずフィレンツェに居を定め、大きな邸宅を手に入れて数々の美術品を収集。華美に着飾っては自邸でパーティーを開いた。また、愛犬家であったウィーダは、ロンドンを離れる際にも数匹の犬を伴ってきていた。常に彼らを連れて歩き、与える食事もビーフ・ステーキやフォアグラ、ケーキなど、高級なものばかり。その常軌を逸した溺愛ぶりは誰もが知るところだった。
酷使される犬たち
1871年、イタリアを舞台にした恋愛小説を次々と発表し、作家として確固たる地位を築く一方で、ウィーダは作風に悩み始めていた。
「そろそろ新しい分野に挑戦したい」
だが、これといって良い案が浮かばない。そこで気分転換を兼ねて、ベルギー旅行を計画する。当時のベルギーはフランスとプロイセンによる普仏戦争が終結し、ようやく落ち着きを取り戻したところであった。そして、この決断は彼女に転機をもたらした。
ちょうどアントワープを訪れたときだった。ウィーダの目に、信じられない光景が飛び込んできた。息を切らしながら、ぬかるんだ道で荷車を引かされている犬の姿だ。荷車に犬を繋ぎとめている皮紐はその身体に食い込んでおり、歩みが遅くなれば鞭打たれる。道の端では、痩せ衰えた犬がピクリとも動かず倒れ伏していた。
ベルギーは中立国として普仏戦争に参戦していなかったが、隣国同士が争っていれば被害を受けるのは必然。当時のアントワープも例にもれず、とくに郊外では市民は苦しい生活を強いられていた。馬を所持する余裕があるはずもなく、人々は「貧乏人の馬」と呼ばれる犬に荷車を引かせていたのである。犬を家族同然に愛し、イタリア動物愛護協会の設立に尽力するほどの動物愛護家であるウィーダにとって、あまりにも胸が痛む情景だった。
「この現状を世界に知らせなければ!」
ホテルに戻ったウィーダは、すぐに机に向かった。今回のアントワープ訪問は、憧れていた画家ルーベンスの祭壇画を見ることが目的だった。しかし、酷使される犬や貧しい村の様子を見て、一気に物語が頭の中を駆け巡った。恋愛小説が多い彼女の作品の中では異色の「フランダースの犬」が刊行されるのは、その翌年のことである。
「誰も信じられない」
40歳を目前に控えたウィーダは、再び激しい恋に身を焦がした。ところが、その恋も長くは続かない。恋人であった男性は、なんとウィーダの友人とも恋愛関係にあったことが発覚したのだ。ウィーダには、心の底から信頼しあえる友人がほとんどいなかった。人気作家として敬われ、豊潤な資産を手にしていたが、それゆえに周囲は多くの欺瞞(ぎまん)や不実に満ちており、贅を尽くした生活を見せつけることで己を守ってもいた。そうした中で、唯一ともいえる親友の裏切りは、ウィーダを絶望の谷に突き落とした。
「もう誰も信じられない…」。満たされない愛情は、人間を裏切らない犬へとますます注がれていく。多いときには、30匹近くの犬や猫に囲まれて暮らすこともあった。
50代に入ると、浪費や動物救済のための裁判費用によって、財産が底をつき始める。元来金銭に無頓着な性格であったが、執筆作業が滞って収入が激減したことも一因だった。だが、どんなに困窮しようとも犬に高級な食事を与え続けた。服飾品や家財を売り払うのはもちろん、英国政府から支給される年金も彼らの食費にあてた。やがて家賃滞納で屋敷を追い出され、長きにわたる放浪生活を余儀なくされる。
ネロのような最期
1907年冬、1人のやせ細った老婆が、イタリア・トスカーナ地方の海辺にある町ヴィアレッジョの安アパートに運び込まれた。駅前の馬車の中で寝泊まりするホームレス女性であったが、厳しい寒さで肺炎を患い、さらに栄養失調で左目を失明。少しでも暖をとろうと、犬たちと寄り添って眠る姿を見かねた人々が、善意で家を提供したのである。しかし病状は回復せず、翌年1月25日、老婆ことウィーダは69年の生涯を閉じた。彼女の側には数匹の犬たちが付き添い、まるで「フランダースの犬」の最後の場面を重ね合わせたかのようだった。
ウィーダ死去のニュースは、その数奇な生涯とともに英国や米国で大々的に取り上げられた。ニューヨーク・タイムズ紙の記事を読んだ本田増次郎は、すぐに「フランダースの犬」を購入し、懇意にしていた日本の出版社へ送ったのである。爆発的なベストセラーとはならなかったが、その後、他の出版社も翻訳本を発行。そして1975年、欧米の児童文学を紹介するアニメシリーズ「世界名作劇場」で放映されたことにより、その名は日本中に広まった。ウィーダが紡いだ物語は、今も日本人の心の中で生き続けている。
涙があふれてとまらない「フランダースの犬」あらすじ
19世紀、アントワープ近郊の小さな村ホーボーケン。両親を亡くし祖父とともに暮らす10歳の少年ネロは、重い荷車を引く労働犬として酷使されたあげく、土手に捨てられていた犬パトラッシュを助けた。祖父とネロは村の農家から預かったミルクを毎朝アントワープへ運んで売る仕事で細々と生計を立てており、パトラッシュは自ら進んでミルク缶がのせられた荷車を引き始める。
絵を描くことが好きなネロは画家ルーベンスに憧れ、いつかアントワープの聖母大聖堂にあるルーベンスの絵を見たいと切望する。当時、その祭壇画はカーテンで隠されており、お金を払わないと見ることができなかった。
やがて祖父が亡くなり、ネロは村の風車に放火した疑いで仕事をなくしてしまう。住まいも失い、最後の望みをかけた絵のコンクールにも落選。絶望し吹きすさぶ雪の中を茫然と歩き続け、クリスマスのミサが終わった大聖堂に入って行く。そこで目にしたのは、カーテンが開けられたルーベンスの絵であった。
「とうとう僕は見たんだ…。マリア様、ありがとうございます。これだけで僕はもう何もいりません」
必死に後を追いかけてきたパトラッシュがネロのもとへ駆け寄り、ともに崩れるように身体を横たえる。ネロはパトラッシュを抱きしめた後、そっとささやいた。「パトラッシュ、疲れたろう。僕も疲れたんだ。何だかとっても眠いんだ、パトラッシュ…」。翌朝、絵の前で凍死している彼らが発見されたのであった。
週刊ジャーニー No.1168(2020年12月17日)掲載