一青年の重過ぎる生涯 エレファントマン 【後編】

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/手島 功

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トリーヴス医師にとってエレファントマン(ジョゼフ・メリックJoseph Merrick)との出会いは衝撃的なものだった。外科医としてこれまで事故や火災、刃傷沙汰で傷ついた患者や遺体とさんざん向き合ってきた。しかし目の前にいる生き物は、トリーヴスの知識ではおよそ説明できるものではなかった。わずか15分ほどの面会を終え、ロンドン病院に戻った。

後日、診察をしたいので一度、ジョゼフを病院に連れて来るよう見世物小屋のノーマンに伝えた。数日後、ジョゼフは顔をスッポリと覆うフードが着いた特殊な帽子を被り、ブカブカの黒いコートを着てやってきた。トリーヴスは出来る限り冷静にジョゼフに話しかけた。しかし突然慣れない場所に引き出されたジョゼフは狼狽し、すっかり怯えてトリーヴスの質問に答えることはなかった。そのためジョゼフが言葉を理解しないのではと思い込んだトリーヴスは、知的障害もあるようだと思うようになった。

トリーヴスはジョゼフの全身をくまなく観察した。皮膚には随所で乳頭状の腫瘍が現れ、頭部、そして胴体部分では皮下組織が増大した上に弛緩して垂れ下がっていた。頭部の周囲は92センチに及んだ。右手が極端に肥大化する一方、左手や性器には異常が認められなかった。一方でトリーヴスはジョゼフが全身から発する強烈な悪臭に悩まされた。臭いのもとは露出した皮下組織にあるようだった。このような診察が何度か繰り返される中、トリーヴスはジョゼフの全身を撮影した。別れ際、トリーヴスは診察券を1枚、ジョゼフのコートのポケットに忍ばせた。

さらに後日、トリーヴスはこの奇病に関する情報が得られるかもしれないと思い、ジョゼフを病理学界に連れて行き、大勢の医師の前で公開した。しかし医師たちの好奇の視線がジョゼフに突き刺さるだけだった。次に診察の誘いがあった時、ジョゼフは興行主のノーマンに「市場の牛のように裸にされて舐めるように見られるのはもう嫌だ」と抵抗した。ノーマンはそれ以降、無理強いすることはなかった。

棄てられて

外科医フレデリック・トリーヴス(Frederick Treves 1853~1923)。1902年、当時は危険と言われた虫垂炎手術を戴冠直前のエドワード7世に施し成功させたことで準男爵の称号が与えられた。

数日後、見世物小屋「ペニー・ガフ」は突然、警察によって閉鎖された。当時英国では見世物小屋は公序良俗に反するものとして問題視され始めていた。稼ぎの場を失ったジョゼフはレスター時代の興行主サム・ロジャーの元に戻り、再び地方巡業の旅に出た。しかし、見世物小屋を有害視する風潮は地方にも及び、国内での興行は困難になった。ロジャーらは大陸に目をつけ、ベルギーに渡った。しかしここでも同様の機運が高まっており、興行はさほどうまくいかなかった。

そんな中、ブリュッセル滞在中にマネージャーの男がジョゼフの全財産を持って失踪した。身寄りのない異国の街にジョゼフはたった一人、無一文で棄てられた。わずかな所持品を質入れして資金を得、鉄道でオステンドに向かった。そこからフェリーでドーバーに渡ろうと試みたが船会社から乗船を拒否された。仕方なくアントワープからフェリーに乗り、エセックスのハリッジに到着。そこから汽車に乗ってリバプールストリート駅に辿り着いた。頭からすっぽりとフードを被り、強烈な異臭を放つジョゼフはいやが上にも人目を引いた。心ない者がフードをはぎ取り、ジョゼフの顔が露わとなった。駅構内に悲鳴が響き渡り、辺りは騒然となった。騒ぎを聞きつけて警官が駆けつけた。

ジョゼフは救貧院時代にいじめにあった時のように身体を丸め、カタカタと小刻みに震えるだけで何も話さなかった。しびれを切らした警官の一人がジョゼフのコートのポケットをまさぐった。小さな紙片が出てきた。トリーヴスが忍ばせた診察券だった。警官はトリーヴスに連絡をした。すぐに馬車が差し向けられ、ジョゼフはロンドン病院へと運ばれた。到着するとそこにはトリーヴスが待っていた。ジョゼフの目から安堵の涙がとめどなくこぼれ落ちた。

トリーヴスはロンドン病院内にあった屋根裏部屋にジョゼフを収容した。しばらくは内緒で面倒を見ることにした。改めて診察すると初めて会った2年前よりジョゼフの腫物は遥かに悪化していた。さらに心臓も弱っていることが分かった。トリーヴスの懸命な介護が始まった。

やがてジョゼフの存在が病院内で知られるようになり、医師たちの間で問題視されるようになった。他の医師たちはジョゼフが治癒可能な患者か否かをトリーヴスに問い質した。トリーヴスは正直に病名の特定すらできず、治療法もないことを告げた。同時にジョゼフの病状は悪化を続けているため、何とか病院にとどめて治療にあたりたいと主張した。医師たちの反応は冷ややかだった。ベッドの数は限られている。治癒が見込めない上に治療費の支払い能力がない患者を留めることは病院にとって大きな負担となる。他の患者が動揺するため大部屋を使うこともできず、ジョゼフのための個室と専属の看護師が必要となる。医師たちの言い分には一理も二理もあった。ジョゼフ追放の機運が高まった。

突破口

ジョゼフが使用していたフード付きの帽子。The Royal London Hospital Museum所蔵。

医師たちから厳しい追及を受けたトリーヴスだったが、医師会会長のフランシス・カー・ゴムがジョゼフに同情的だったことが幸いした。カー・ゴムは他の病院や施設でジョゼフを受け入れられないか、ほうぼう手を尽くして聞いたが全て拒絶された。そこでカー・ゴムはジョゼフの生い立ちから病気のこと、救貧院や見世物小屋でのこと、そしてジョゼフをこれ以上院内に留めることが困難であることをしたため、タイムズ紙に寄稿した。医学専門誌「英メディカル・ジャーナル」もジョゼフの特集を組んでこれを後押しした。効果は絶大だった。中にはジョゼフを地方の灯台に収容しろ、といった心無い投書もあったが、富裕層から寄付が続々と届き始めた。たちまちジョゼフを生涯、面倒みられるだけの資金が集まった。反対派の医師たちも沈黙した。トリーヴスはロンドン病院地下にあった2部屋をつないでジョゼフの部屋とした。家具類も搬入され、ジョゼフの「安住の地」が完成した。鏡だけは持ち込まれることはなかった。

トリーヴスは頻繁にジョゼフの部屋を訪れて会話をするようになった。トリーヴスへの警戒心を完全に解いたわけではなかったが、一人の人間として扱われている安心感を覚えた。生まれて初めて長い言葉のキャッチボールを楽しんだ。ある日、トリーヴスはジョゼフが聖書の中の一節をそらんじているのを耳にした。知的障害があると思い込んでいただけに驚きだった。さらにジョゼフが非常に繊細で、豊かな感性の持ち主であることを知った。トリーヴスとジョゼフの間には友情にも似た信頼関係が芽生え始めていた。

トリーヴスはジョゼフが眠る際、横になると頭部の重みで窒息するため、膝を抱えるようにして座り、その膝の上に頭をちょこんと載せて眠っていることを知った。ジョゼフはいつも「普通の人のように、ベッドに横になって眠ってみたい」と言って笑った。

突然の別れ

ジョゼフは一日のほとんどを読書や聖堂などの模型作りをして過ごした。トリーヴスはジョゼフが少しずつ「普通の生活」に触れられるよう気を配った。ある日、自宅にジョゼフを招待し、妻を紹介した。妻と握手を交わしたジョゼフは母親の手のぬくもりを思い出し、その場に泣き崩れた。

その年のクリスマス、トリーヴスはジョゼフを観劇に連れ出した。コベントガーデンにあるドゥルリーレーン劇場でパントマイム劇を堪能した。さらには鉄道に乗り、ノーサンプトンのコテージで数日を過ごすなど、ジョゼフはトリーヴスの計らいでこれまで経験したことのない人間らしい豊かな時を過ごした。それはまるでこれまでの人生があまりにも過酷だったため、神様が大急ぎで帳尻を合わせているかのようだった。

1890年4月11日午後3時、ジョゼフは自室で冷たくなっているところを発見された。普通の人のように、ベッドに横になって眠るように死んでいた。検視の結果、頸椎の脱臼による窒息死と診断された。27歳。ジョゼフの過酷な人生は唐突に幕を閉じた。

ジョゼフを苦しめた疾患は当時、神経線維腫症の一種であるレックリングハウゼン病が疑われた。しかし最近の研究では遺伝的疾患の一つ、プロテウス症候群とする説が有力となっている。

ジョゼフは自分の身体のことを気に病む一方で、正常だった左手を何よりも誇っていた。彼がしたためた手紙にはいつも最後に19世紀初めに活動した牧師で賛美歌作者だったアイザック・ウォッツの詩が引用されていたという。

「私の身体は他人と違う。それに不満を言うことは神を責めること。ただ、もう一度私を創ることが叶うなら、その時は誰もが喜ぶ身体になりたい」。

■本紙編集部が制作した動画『エレファントマン  その壮絶過ぎる生涯』も併せてご覧ください。

週刊ジャーニー No.1165(2020年12月3日)掲載