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一青年の重過ぎる生涯 エレファントマン 【前編】

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部 手島 功

「さあさあ、お集まりの皆さん、次はいよいよ本日のメインイベントだ。お客さんたちはラッキーだ。これほどの掘り出し物は滅多に見られるもんじゃない。象に祟(たた)られた母親が産んだのは、半分人間、半分象の姿をした恐ろしい赤ん坊だった。さあさあ、心の準備はよろしいですかな? 卒倒しないよう、気をしっかり持ってご覧になってくださいよ」。

興行主の口上が終わると薄暗い会場はたちまち水を打ったように静まり返った。誰もがカーテンが開く瞬間を、固唾を飲んで見守った。スルスルと上げられていくカーテン。ステージの暗闇に何やら潜む黒い塊。やがてその塊はゆっくりと立ち上がったかのようだった。次の瞬間、一条のライトが当てられ、塊の正体が人々の前にはっきりと浮かび上がった。

「キャアアアッ」

「おおおぉぉっ!」

甲高い悲鳴や唸るような低い声が反響し、その後も得体の知れないざわめきが会場を覆った。恐怖に手で顔を覆ったまま会場を後にする女性もいた。

「一体、これは何だ。人間なのか?」

およそ人が目にしたことのない生命体がそこに立っていた。

興行主はしたり顔で続けた。

「半分人間、半分象。人呼んでエレファントマンにございます」

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不幸は束になって

1862年8月5日、イングランド中部の街レスターに暮らすメリック夫妻のもとに1人の男児が誕生した。ジョゼフ(Joseph Carey Merrick)と名づけられた。父は綿織物工場付き乗り合い馬車の御者をするかたわら小間物を扱う副業をしていた。母親は日曜学校で教師を務めていた。

3歳になる頃、それまで普通の子として育っていたジョゼフの身体に小さな異変が生じた。唇が大きく膨れ上がり、前頭部に硬いしこりが出来た。それは日ごとに大きくなっていった。皮膚は象のようにザラザラになり、緩んで深い皺を刻んだ。ほどなくして右手と両脚の肥大化が始まり、後頭部も腫れあがった。日ごとに人間の姿から遠ざかっていく我が子を前に両親は「あの時の祟りに違いない」と考えるようになった。

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ジョゼフを妊娠中、母はレスターにやってきた移動動物園のパレード見物に出かけた。珍しい動物を一目見ようと通りには大勢の人が集まっていた。やがて興奮した群衆が押し合い、人々が将棋倒しとなった。たまたま一番前で見物していた母は押された勢いで路上に転がり出た。運悪く一頭の巨象が目の前を通過中であり、母は興奮した象の下敷きになりそうになった。象使いが慌てて制したことで九死に一生を得たが、その時味わった恐怖はトラウマとなってその後も母を苦しめた。その当時、妊娠中に体験した恐怖は、お腹の子に何らかの悪影響を与えるといった迷信があった。

「象が憑りついているのだ」。

それでも母は象のような姿に変貌していく息子を精一杯可愛がった。不幸は重ねてやって来る。ジョゼフは小学生の時に転倒し左臀部を強打した。その後関節炎を併発して脊柱が湾曲した。歩行困難となり生涯杖が手放せなくなった。さらに11歳の時、優しかった母が気管支肺炎のため36歳の若さで死んだ。父親はジョゼフと妹を連れて転居した。翌年、入居したアパートの大家だった子持ちの未亡人と再婚した。

絶望の救貧院へ

12歳で学校を卒業したジョゼフの日々は暗澹たるものとなった。父親はジョゼフの妹だけを可愛がり、継母は連れ子にのみ愛情を注いだ。居場所がないジョゼフは何度か家出を試みたが、その都度父親に連れ戻された。ジョゼフは工場で葉巻を巻く仕事を得た。その間も腫物は肥大化を続けた。3年後、遂に繊細な仕事をすることが困難となり離職を余儀なくされた。収入がなくなったジョゼフを継母は毎日口汚く罵り、冷笑した。ジョゼフは次第に継母を避けるようになり、一人、レスターの街を彷徨うようになった。

父親はジョゼフのために行商人の免許を取得し、小間物の行商をさせた。しかしその容姿に街の人は戦慄した。。怯えた主婦らが玄関の扉を開けることはなかった。腫物で大きく変形したジョゼフの口から発せられる言葉が相手に伝わることもなかった。ある日、売り上げがないまま帰宅したジョゼフを父親は激しく殴りつけた。耐えきれずジョゼフは家を飛び出した。その後、二度と家に戻ることはなかった。

ジョゼフはレスター市内で路上生活を始めた。甥の窮状を見かねた理容師の叔父チャールズ・メリックがジョゼフを自宅に連れて帰り、一緒に生活した。叔父の家から行商の仕事を続けたが、街頭に立つジョゼフの姿に人々はパニックとなった。行商の免許は更新されなかった。17歳の時だった。

貧しい叔父も経済的に追い込まれ、ジョゼフはレスター救貧院に収容された。救貧院には1000人を超える生活困窮者や社会生活不適合者が収容されていた。1年後、ジョゼフは救貧院を自主的に出て仕事を探したがうまくいかず、再び救貧院に戻った。そして4年の歳月が流れた。その間にも身体の変異は進み、口の腫物が巨大化。話すことも食べることも困難になっていた。そこで救貧院は手術を施し、腫物の大部分を切除した。しかし、病状の悪化を食い止めることはできなかった。

悲しき選択

ジョゼフはもはや普通の仕事に就くことは不可能と悟った。であればいっそのこと、この特異な身体を武器に金を稼ぐことはできないか。救貧院では粗末ながら衣食住は保証されていた。「貧困者の監獄」とまで言われた救貧院ではその容姿のため周囲から壮絶な仕打ちを受けた。出るも地獄、残るも地獄。それでもジョゼフはここを出ると決めた。後年、ジョゼフが救貧院での体験を人に話すことはなかった。

ジョゼフはレスターで見世物小屋を経営していたコメディアンのサム・トーに手紙を書いた。早速救貧院を訪れたトーはジョゼフと面会するなり「これは金になる」と踏んだ。すぐに仲間と見世物ツアーの計画を立てた。1884年8月、ジョゼフは救貧院から連れ出された。22歳になっていた。

興行師のジョージ・ヒッチコックはジョゼフから母親が妊娠期間中に体験した出来事を聞き、ジョゼフをエレファントマンと名付けた。「半分人間、半分象」の宣伝文句と共にレスターやノッティンガムなど、ミッドランド地方を巡業した。興行は成功とは程遠いものだった。ヒッチコックは東ロンドンのホワイトチャペルで結合双生児や小人症など、異形の人々を集めた、当時ロンドン最大の見世物小屋だった「ペニー・ガフ(The penny gaff)」を営むトム・ノーマンに手紙を書いた。その年の冬、ジョゼフはヒッチコックに連れられてロンドンに行き、身柄をノーマンに預けられた。

ジョゼフと面会したノーマンはその容姿に衝撃を受けた。あまりに恐ろしい姿のため客が嫌悪し、興行は失敗するのではないかとさえ思った。そこでジョゼフを小屋の裏にあるスペースに置いて知り合いに試験公開した。その結果に満足したノーマンはエレファントマンの一般公開を決め、宣伝を始めた。ジョゼフの生い立ちが大袈裟に書かれたパンフレットも印刷した。ノーマンは店の外に出て呼び込みを始めた。そして会場が一杯になると「さあさあ、お集まりの皆さん、次はいよいよ本日のメインイベントだ」と冒頭のように口上を述べてからジョゼフを公開した。

エレファントマンの興行はそこそこの成績を収めた。パンフレットも売れた。ジョゼフは給料を受け取った。そして夢見た。

「いつの日か、お金を貯めて自分だけの家を買うんだ」

運命の出会い

見世物小屋の真向かいにロンドン病院(現ロイヤル・ロンドン病院)があった。見世物小屋にはそこで勤務する医療関係者なども訪れていた。その中に1人の若い研修医、レジナルド・タケットがいた。タケットはエレファントマンのことを外科医、フレデリック・トリーヴス(Frederick Treves)に耳打ちした。トリーヴスは医者として興味を示した。後日、興行主に金を渡し、ショーが始まる前にジョゼフと会わせてくれるよう依頼した。面会当日、真向かいのロンドン病院を出たトリーヴスはホワイトチャペルロードを横切り、「ペニー・ガフ」を訪れ、薄暗い裏庭へと案内された。

ジョゼフの運命が大転換する出会いがすぐそこに迫っていた。

 
エレファントマンが公開されていた「ペニー・ガフ」は座席数1000を超えるロンドン最大の見世物小屋だった。現在はサリーを売る店舗になっている。(写真中央)
©Japan Journals

週刊ジャーニー No.1165(2020年11月26日)掲載