2回目の航海(1772~1755)
先の航海で多大な功績を残したクックは、海尉から海尉艦長(Commander)へと昇進。帰国の1年後に再び海上の人となる。今回の船は「レゾルーション号」(HMS Resolution)、使命は南方大陸の発見と、正確な緯度や経度を測定できるという新しいマリン・クロノメーターの試用だった。王立協会は前回の捜査結果にもかかわらず、オーストラリアの先に南方大陸があるのではないかと、しつこく考えていたのだ。だが、この想像はまったく間違ってもいなかった。
クックはオーストラリアのさらに南を行き、1773年1月17日に西洋人として初めて南極圏に突入。あと1歩で南極大陸を発見するところだった。だが帆船での南極圏航行は困難を極めた。船内の食用家畜が次々に死亡し、その結果として船員たちの間に壊血病が流行り始めた。クックはこれ以上の南下は不可能とみて、引き返すことにする。「南方大陸は人類が居住可能な緯度には存在しない」というのが結論であった。クックはレゾルーション号のほかにアドベンチャー号を従えていたが、この船はたびたびレゾルーション号とはぐれたうえ、ニュージーランドのマオリ族に捕らえられて、10人の船員が殺害・解体されマオリ族に食されてしまったという。クックは後に、遺体の残骸が入ったバスケットを見ることになる。
ドイツの新古典主義画家、ヨーハン・ゾファニJohann Zoffanyによって
描かれた「ジェームズ・クックの死」。1795年。未完成。
また、ニュージーランドに関して、クックは航海日誌にこんなことも記している。「この国の女性は他の南海の小島の女性たちより貞淑だった。だが、西洋人との接触のせいで彼らは堕落してしまった。男性たちは貿易のために率先して自分の妻や娘を差し出すのだ。この国に西洋人は何をもたらしたのか。文化ではなく、梅毒や低級なモラルではないか」。フロンティアの開拓者として悩む、クックの真摯な人柄が垣間みられる言葉だろう。
帰路にタヒチで水や食料を補給したレゾルーション号とアドベンチャー号は、ここでオマイ(Omai)というタヒチ人の青年をガイドに雇い、1774年にトンガ、イースター島、ニューカレドニア、バヌアツに上陸した後、南米大陸南端を回り南ジョージア島と南サンドウィッチ諸島を発見した。オマイはこの後アドベンチャー号に残り、船員とともに英国へ渡り、ロンドンの社交界でセレブリティ扱いを受けることになる。
クックは帰国後に直ちに勅任艦長(Post Captain)に昇進。同時に海軍を休職して、グリニッジの海軍病院の院長に任命された。壊血病の予防に貢献したとして、王立協会からメダルを受け取り、特別会員に推挙もされた。だがクックはまだ48歳。海から離れた暮らしも、メダルをぶらさげてグリニッジに落ち着く自分も想像できないのだった。そんなおり、サンドウィッチ伯から、3回目の航海を勧める知らせを受け取る。出発は思ったよりも早く、前回の旅から1年も経っていない。実はクックは疲れ果てており、常に海水に脚をさらす生活でリューマチも発症していた。
だが、この機会を逃すともう2度と冒険に出られないのではないかという恐れから、航海記を書き上げた直後に、彼の最後の航海となる第3回航海に出る。船の整備時、背の高いクックがドックランズを歩く姿は地元ではお馴染みの光景だったが、今回は港に行く時間もなかった。前回の旅の記録を記し終えていなかった上、次の航路を決めるため毎日地図と格闘していたのだ。クックのチェックなしで整備されたレゾルーション号は、後にひどい結果となる。だが、1776年6月25日、準備不足のまま、何かに追い立てられるようにしてクックは再びレゾルーション号で出発した。僚船は「ディスカバリー号」、チャールズ・クラーク(Charles Clark)の指揮である。
妻エリザベスの生涯 |
海洋探検家を夫に持ったエリザベス・クックは、ほとんどいつも地球の裏側にいる夫の留守を守りながら、どんな思いで暮らしていたのだろうか。現代ならインターネットや携帯電話などで連絡が取れようが、キャプテン・クックの活躍した18世紀には、手紙という手段さえままならなかったはずである。20歳で結婚し、クックがハワイで落命した時エリザベスは38歳。彼女が実際にクックと一緒に過ごした時間は、すべて合わせても4年に満たなかった。 彼女は3人の息子を女手一つで育て上げる(6人の子を出産するが、3人は生まれてすぐ死去)。彼らはクックの血を受け継いだ優秀な人物に育ちつつあった。だが、海軍に入隊した次男のナサニエルは、クックの死のわずか9ヵ月後にジャマイカで遭難。16歳だった。海軍の海尉艦長(Commander)となった長男のジェームズは、1794年に31歳で海上事故により死去。そしてその数ヵ月前にはケンブリッジ大学の学生だった三男のヒューも猩紅熱で病死している。 愛する夫ばかりか、その忘れ形見である大事な息子たちも次々と亡くしたエリザベスの悲しみは計り知れない。エリザベスは、彼らの命日には終日聖書を読んで過ごした。彼女を知る人によると「常に黒いサテンのドレスを着て、指にはクックの遺髪の入った指輪をして」いたという。 エリザベス・クックはその後、英国に鉄道が敷かれ、蒸気汽船が英米の大西洋間を行き来する産業革命期も体験し、やがてヴィクトリア女王の戴冠式を目前に、南ロンドン・クラパムの自宅で息を引き取る。93歳だった。夫のクックと死別してから56年、常に彼との思い出と共に生きたという。 |