最初の南太平洋冒険(1768~1771)

 王立協会は、クックを「金星の日面通過」の観測を目的に南太平洋へ派遣することにした。金星の日面通過とは、金星が地球と太陽のちょうど間に入る天文現象で、19世紀まではこれが太陽系の大きさを測定するためのほぼ唯一の手段だった。そのため国際的なプロジェクトとして欧州各国で観測隊が結成された。クックは18世紀に起きた2回目の日面通過にあたる、1769年の現象観測のため、英国からタヒチに送り込まれたわけである。ちなみに、20世紀は0回、21世紀は2004年が通過の年にあたり、次回はその8年後、すなわち来年2012年である。
 1768年、38歳のクックは、公式の指揮権を有する正規の海軍士官である海尉(Commanding Lieutenant)に任じられ、HMSエンデバー号(HMS Endeavour)の指揮官となった。もともと、エンデバー号はウィトビーで建造された石炭運搬船で、小型ではあるが暗礁の多い海洋や多島海を長期間航海するにはうってつけの性能を備えていた。
 エンデバー号には、様々な人物が調査員として乗り込んだ。熱帯の珍しい植物の採集のために、貴族で植物学者のジョセフ・バンクス(Joseph Banks)、カメラのない時代であったことから、詳細な記録を素描する画家にシドニー・パーキンソン(Sydney Parkinson)、金星の観測のため、天文学者のチャールズ・グリーン(Charles Green)などが選ばれた。さらに、黒人の召使いやペットの犬までが持ち込まれた。
 8月初旬に乗員94人で英国を出帆したエンデバー号は、南米大陸南端のホーン岬を東から西に周航し、太平洋を横断して西へ進み、天体観測の目的地であるタヒチには翌年4月13日に到着した。クックはタヒチに到着する前に、現地の住民と友好的にすること、彼らの生活習慣を尊重し人間的に扱うこと、そして勝手に船内の機材を物々交換に使用しないことなどを船員たちに言い渡した。これは命令であり、背いた場合は罰則が科せられた。異文化や人権尊重の立場からというより、自分たちの命を守るためであったと思われる。食料の調達や日面通過の観測を安全に行うには、現地のタヒチ人の協力が不可欠だからだ。彼らとのやり取りはほとんど身振り手振りで行われた。双方がおっかなびっくりの状態で、小競り合いなどはあったものの、タヒチ人は総じて好意的に接してくれたようだ。
 6月3日の金星の日面通過はクックを含む3人が同時に観測したが、それぞれ別に行った観測は誤差の範囲を越えていた。観測器具の解像度が未だ足りなかったのである。
 天体観測が終了するとすぐに、クックは航海の後半についての英海軍からの秘密指令を開封した。それは、南半球にあるという、北半球の大陸と同サイズの土地、伝説の南方大陸テラ・アウストラリス(Terra Australis) を探索せよ、という指令であった。金星観測を理由にすれば、英国にとってこの航海は、ライバルの欧州諸国を出し抜いて南方大陸を発見し、伝説の富を手に入れる絶好の機会となる、と王立協会は考えたのである。

 


ジェームズ・クックによるニューファンドランド島地図。1775年。
現代の測量技術によって描かれたものとほぼ同じで精度が高い。

 

 南太平洋の地理に詳しいタヒチの青年、トゥパイア(Tupia)の助力を得て、1769年10月6日、クックはヨーロッパ人として史上2番目にニュージーランドに到達。海岸線のほぼ完全な地図を作製し、ニュージーランドが南方大陸の一部ではないことを確認する。また、ニュージーランドの北島と南島を分ける海峡も発見し、これは現在クック海峡と呼ばれている。一行はこの後さらに北西へ向かい、オーストラリアの東海岸に西洋人として初めてたどり着いた。だが海岸線を北上し西にまわったことで、オーストラリアはニューギニアと繋がっていないことが判明、「巨大な南方大陸」も存在しないように思われた。ただし、この航海はジョセフ・バンクスを筆頭にした3人の博物学者たちにとっては、ほかで類を見ない貴重な動植物を採集する素晴らしい機会でもあった。
 調査も終盤に掛かった頃、エンデバー号の船底が浅瀬で珊瑚礁に衝突するという事故が起こる。おりしも大暴風雨の最中で、船には大量の海水が流れ込んだ。上下左右にキリキリ舞いする船内で、クックとチームは50トン近い積荷を海中に投出し、藁や布を使って応急処置を施す。誰もが「もうダメかもしれない」と感じた数日だったが、幸い嵐が治まり、エンデバー号は危機を絶え抜いたのだった。
 また、長い船旅につきもののビタミン不足から来る壊血病は、当時は死に至る病として恐れられていた。クックの知恵によって一人の船員もこの病にかかることなく航海の前半を終え、これは当時としては画期的な快挙であった(11頁のコラム参照)。だが、帰国途中に船の修繕のために寄ったジャカルタで、船員たちがマラリアと赤痢に感染。多くの死者がでてしまう。その中にはタヒチ人のトゥパイア、バンクスの助手を務めたスペーリング、植物画家のシドニー・パーキンソンなどがいた。出発からここまでの27ヵ月の航海ではわずか8名だった死者は、ジャカルタ滞在中の10週間で31名に達してしまったのだった。クックはひどく心を痛め、彼らに対し船長としての責任を果たせなかったことを悔やんだ。
 それでも一行は1771年6月12日イングランドの南部のダウンズ(Downs)に帰着。3年に渡る大冒険は終了する。帰国すると直ぐ航海日誌が出版されクックは科学界で時の人となった。だがバンクスの発表した動植物の調査報告はよりセンセーショナルな驚きをもって迎えられた。彼はほとんど自分一人で航海したように振る舞い、幾つかの土地の発見も自分のものだと吹聴。また、オーストラリアが英国の植民地に適していると発言し、このアイデアはすぐに政府に受け入れられることとなる。これにショックを受けたクックは、ロンドンの喧噪を離れ、妻と故郷ヨークシャーへ向かう。父親や親戚一同に妻を初めて紹介するほか、自分を育てたウィトビーの船主、ウォーカーの元も訪れしばし旧交を温めたという。クックはロンドンの社交界に馴染むことは出来そうになかった。