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海軍での活躍と新たな才能

 イーグル号の艦長ジョセフ・ハマー(Joseph Hamar)は憂鬱な気分だった。前回の対フランス戦で多くの乗組員を失ったばかりで、満足に人員を集められないまま再び出動命令を受けていたのだ。「人数不足なだけではない。ブリストルから来た25人は水兵ですらない。こんな状態で出航する船は他にないだろう」と嘆く手紙が残っている。そんな中で経験も情熱も備えたジェームズ・クックがどんなに光って見えたことか。彼は乗船後1ヵ月もしないうちに、一等航海士(master mate)の地位に就く。
 イーグル号の任務は英仏海峡周辺の警備だったが、クックは2度の大きな対仏戦に遭遇している。2度目の戦いでは多くの味方を失い、「マストはボロボロ」という厳しい状態だったが、フランス船を拿捕し、チームは御賞金を受け取る活躍をみせた。この戦いはクックにとっては昇進のためのテストでもあったが、彼の勇気と能力が十分に発揮され、最高レベルの成績で士官待遇の航海長(master)へと昇進。1759年には29歳で大型船「HMSペンブローク」号(HMS Pembroke)を任されるに至る。ちなみに航海長とは「複雑極まる帆船の操船、海図の管理の責任を持ち、艦長らの正規海軍士官を戦闘に専念させるための職」であった。正規の指揮権は有さないものの、艦内での待遇や俸給は海尉と同等であり、航海長の方が艦長より年長で、海上勤務年数が長いことが珍しくなかったという。
 ペンブローク号は彼がウィトビーで見習いだった頃、まさに夢見ていたような大型船でもあった。クックはこの船で念願だった大西洋横断を果たし、カナダへと向かう。
 この間、クックは同乗の測量家サミュエル・ホランド(Samuel Holland)から本格的な測量を学ぶチャンスを得る。もともと数学を得意とした彼は、すっかり測量の魅力にはまってしまい、ホランドの助手として測量に同行するほか、艦長の許しを得て自分だけでケベックのセントローレンス(St Lawrence)川河口、ガスペ(Gaspe)湾の綿密な測量も行い、優れた海図を制作した。戦時中の敵地での測量である。昼間でなく夜半にフランス軍の警備の目をぬって行う、命がけの仕事であった。
 一方この頃、時の英首相ウィリアム・ピット(William Pitt)はフランスが北部新大陸(現カナダ)をあきらめるよう、様々な形で重圧をかけていた。1759年、ケベックをめぐる戦いには著名な英将軍ジェームズ・ウルフ(James Wolfe)が参加。クックの作成した先の海図を利用したウルフは、川対岸の岬に築いた砲台から徹底的なケベック市街砲撃を行い、フランス軍を驚愕させた。クックの作成した綿密な海図が、ウルフ将軍のケベック奇襲上陸作戦を成功に導いたのだった。ケベックでの勝利は翌年、英軍のモントリオール上陸をもたらし、北米に置けるフランスの支配は実質的に終わりを告げる。その点から見ても、この勝利は英軍にとっての歴史的な出来事であった。
 今回の測量による貢献でクックは一躍、英国海軍本部と、王立協会(Royal Society)から注目を受けることとなる。
 引き続き1762年まで北米で任務を続け、英国帰還の機会が訪れた時、クックは33歳になっていた。英国へ戻った彼は、まず結婚相手を探し始める。ハンサムで有能な航海長だけに相手探しに困った形跡がない。彼はポーツマス港からロンドンに到着したおり、水兵の町として知られるシャドウェル(Shadwell)で、当時20歳のエリザベスと出会う。1年のほとんどを海上で暮らすクックに、どれ程ロマンティックな恋愛の観念があったのかは分からないが、2人は同年12月21日に出会いから約1ヵ月というスピードで結婚。そして東ロンドンのマイル・エンド(Mile End)に所帯を持つが、その3ヵ月後には早くもクックに測量士としての出発命令が下る。彼はそれからの5年をカナダ東部の島、ニューファンドランド(Newfoundland)島海域の測量に費やしたのだった。
 クックのこの測量によって、ニューファンドランド島海域の正確な海図が初めて作成された。彼は従来の船乗りとは異なり、最新の科学的測量を実行したと言われている。従来はコンパスで方位を確かめながら沿岸を進み目測していただけだったのが、クックは四分儀と経緯儀、測鎖を使って、三角測量と天体観測を行ったのだ。船で移動しながらボートで上陸を繰り返し、船を頂点の1つに利用して三角鎖を作り測量するという根気のいる仕事を繰り返した結果、クックの作成した海図は、現代のこの地域の海図と比べても、ほとんど遜色のない見事な出来だという。こうした科学的業績が評価され、彼は王立協会の会員にも選ばれた。
 ニューファンドランド島海域測量の奮闘を終えた時、「これまでの誰よりも遠くへ、それどころか、人間が行ける果てまで私は行きたい」とクックは記した。そしてその願いに応えるかのように、次の大きな冒険が待ち受けていたのである。

 

クックの海上健康管理法

1793年以前に描かれたとされるクックの肖像画。アラスカやハワイの風景を描いた作品で知られる英画家ジョン・ウェバー作。
 長期の船旅では新鮮な野菜や果物が不足することから、船員の間に壊血病(かいけつびょう)が蔓延した。これは皮膚や歯肉からの出血、骨折や骨の変形などに始まって、肺に水が溜まり、最後は高熱を伴い死に至る病とされる。16世紀から18世紀の大航海時代は、この病気の原因が分からなかったため、船員の間では海賊よりも恐れられたという。
 当時の壊血病予防法はガーリックやマスタード、トナカイの血や生魚など、ほとんど呪術的といってもよい様相を示していた。そんな中、英海軍の傷病委員会は食事環境が比較的良好な高級船員の発症者が少ないことに着目し、新鮮な野菜や果物を摂ることによってこの病気の予防が出来ることを突き止めた。その先例として、クックは航海中出来るだけ新鮮な柑橘類をとるよう命令を受ける。それが功を奏し、第1回南洋航海では、ただ1人の船員も壊血病で死者が出なかった。これは当時の航海では奇跡的な成果であった。
 航海中は新鮮な柑橘類の入手が困難なことから、海軍は抗壊血病の薬にと、麦汁やポータブルのスープ、濃縮オレンジジュース、ザワークラウト(酢漬けのキャベツ)などをクックに支給した。クックはこれらを食べるように部下に促したが、当時の船員は新しい習慣に頑強に抵抗し、最初は誰もザワークラウトを食べなかったという。そこでクックは、ザワークラウトは自分と士官に供させ、残りは希望者だけに分けることにした。そして上官らがザワークラウトを有り難そうに食する姿を見せると、1週間も経たない間に、自分たちにも食べさせろという声が船内に高まったという。これだけに限らず、クックは食事を残す者に対して厳しい処罰を与えた。
 しかしながら長期航海における壊血病の根絶はその後もなかなか進まず、ビタミンCと壊血病の関係がはっきり明らかになったのは、1932年のことであった。