ある時、ジェームズは雑貨店で客の支払った代金の中に、サウス・シー・シリングといわれるジョージ1世のシリング硬貨を見つける。これは新大陸のスペイン領との貿易を目的に設立された、英国の南海会社(サウス・シー・カンパニー)の記念硬貨で、表面にSSCと記されていた。光り輝くその硬貨に魅せられたジェームズは、こっそりレジからサウス・シー・シリングを抜き取ると、代わりに自分のポケットから普通の1シリング硬貨を入れておく。だが彼は、店主に呼ばれ、泥棒の疑いを掛けられてしまう。慌ててことの経緯を説明したおかげで疑いは晴れたものの、ジェームズはこれを機会に店を辞めようと決意。雑貨店に奉公に来て1年半が経過していた。「それで、これからどうするつもりだね?」と店主に聞かれたジェームズは、迷わず「海に出たいのです」と答えていた。

 

海への第一歩

 親切な雑貨店の店主は早速彼を近隣の港町ウィトビー(Whitby)の船主ウォーカー(Walker)に紹介する。ウォーカー家は当地の有力な船主で、商家でもあった。こうしてジェームズは晴れて「海の男」としての第一歩を踏み出す。18歳の時のことである。
 彼は雇い主のウォーカー宅に寝起きしながら、測量法や天文学、数学や航海術などの船乗りになるために必要な事柄を教える地元の学校へ通った。ウォーカー家の年老いた女中は熱心なジェームズをかわいがり、彼が夜遅くまで勉強できるよう、椅子と机、キャンドルなどを率先して用意したという逸話も残っている。
 1747年2月、ジェームズはキャット(Cat)と呼ばれる小型船の見習い(apprentice)として、初めての1ヵ月半に渡る船上暮らしを体験する。ロンドンへ石炭を運ぶこの船には10人の見習いが乗船していたが、ジェームズは中でも最も未経験な1人だった。更に翌年は大型の石炭貿易船である「スリー・ブラザーズ号」で1年半海上の人となる。ミドルズバラ、ダブリン、リヴァプール、そしてフランダース(現在のベルギー)などを訪れたが、この体験は最初の本格的な航海として、ジェームズに深い印象を残したという。

 


1923年にオーストラリアの航海長、
フランシス・ジョセフ・ベイルドンFrancis Joseph Bayldonによって
描かれたエンデバー号

 

 1750年、3年間の見習い期間を終了した彼は、晴れて「水兵」(seaman)と認められ、2本のマストを持ち、バルト海を中心に活動する貿易船「フレンドシップ号」で働き始める。ジェームズはこの後1752年に「航海士」(mate)となるための昇進テストを受け、優秀な成績で合格。「フレンドシップ号」の航海士として3年を過ごす。ジェームズは27歳に達し、そろそろ自分がベテランの域に達しつつあると感じ始めていた。仕事の合間に読むオランダ人やポルトガル人の書いた海洋旅行記などから、まだ見ぬ東洋や米国への憧れも芽生えていたが、彼は地中海にすら行ったことがないのだった。
 そんな時期に、雇い主のウォーカーが、ジェームズにフレンドシップ号を与えようと持ちかける。これは航海士にとっては独立のチャンスであり、大きな幸運だといえる。ジェームズがいかに雇い主の信頼を受けていたかがわかるだろう。
 ところが、ウォーカーはひどく落胆させられることになる。ジェームズはその申し出を断り、「海軍に入隊して、世界を見たいと思います」と答えたのである。もし海軍に入れば、船長どころかせっかく獲得した航海士のランクですらない、水兵からやり直しだというのに。ウォーカーは驚きあきれつつも、入隊のための紹介状を書いてやったのだった。 
 ジェームズにとって、フレンドシップ号がバルト海との往復である限り、その立場が船長だろうと航海士だろうと、大きな違いはなかったのだ。世界を見るためなら海軍でも海賊でも構わなかったのではないかとさえ言えよう。ともあれ、ジェームズには幸いなことに、当時の英国海軍は7年戦争に備え軍備を強化中であり、大々的に志願兵を募集していた。彼は両親のもとを訪れ暇乞いをすると、ロンドンのワッピングを目指す。そこには英国海軍のHMSイーグル号が停泊していた。1755年6月17日、ジェームズ(以下クック)は「熟練水兵」(able seaman)として入隊する。