最後の冒険(1776~1780)
今回は、アジアへの最短航路と考えられていた「北西航路」の発見を目的としていた。これは欧州から北西に向かい、北米の北側をまわってアジアに至るルートで、未だに仮説に留まっており、これまで多くの探検家が挑んで来た。つまり北極海をまわって大西洋と太平洋のつなぎ目を見つけようというのである。1745年に英国はこの航路の発見者に賞金を出す法律を成立させ、1775年の法案延長時に、賞金が2万ポンドにまで跳ね上がっていた。この賞金を得ようと考えた英国海軍は、クックに白羽の矢を立てたのだった。
クックらはオマイをタヒチに返した後に、北へと進路を取り、1778年1月にはハワイ諸島を訪れた最初のヨーロッパ人になる。クック一行はカウアイ島(Kauai)南西部に上陸し、時の海軍大臣でクックの探検航海の重要な擁護者でもあったサンドウィッチ伯の名前をとり、ハワイを「サンドウィッチ諸島」と命名した。
ハワイはこの時ちょうど農耕神のロノ(Lono)を讃えるマカヒキ祭(Makahiki)の最中だった。古来からロノ神は海から現れるという言い伝えがあり、白い帆を掲げた巨大な船は、彼らにとってはまさにロノ神の乗り物に見えたのだった。こうしてクックらは恭しく現地の人々から迎えられた。特に艦長であるクックの姿は神として認知され、人々はクックの足下に跪いたという。
また、後のカメハメハ一世として知られるハワイのカリスマ王は、クックの訪問時はまだ25歳の若者だった。198センチの身長を持つ威風堂々としたカメハメハの姿に感銘を受けたクックは、「若くて荒々しい戦士」と日誌にその印象を残している。
![]() ロンドンの グリニッジにある クックの銅像 |
![]() イングランド北部の 港町ウィトビーでは、 10代のクックが見習い船員として 働いていた船主の住宅が 「キャプテン・クック博物館」=写真= として公開されている。 |
結局、ハワイを拠点にしながら行った北西航路の探索は、ベーリング海峡の氷山と流水に行く手を阻まれ、どうしてもその先に進むのは不可能で、これはクックを落胆させた。だが、実はこのエリアは氷圧に耐えられる船の出現する20世紀まで、誰も突破できない場所であり、クックには何の落ち度もない。
一方で、この北洋航海でクックはカリフォルニアからベーリング海峡までの海図を製作し、今ではクック湾として知られているアラスカのエリアを発見。西方からロシア人が、南方からスペイン人が行っていた太平洋の北限探査の空隙を、クックはたった1回の調査でさっさと埋めてしまった。 1779年に北西航路の探索からハワイに戻ったクック一行は、ケアラケクア湾(Kealakekua)で船を整備し、英国へ向かおうとする。クックを神とあがめた住人たちや、常に協力的だった王も見送りに現れ、感動的な別れが繰り広げられた。ところが出発したばかりのレゾルーション号のマストが、おりからの強風で半分に折れてしまう事件が起こる。そればかりか古傷である船底の穴も開き、航海不能の事態に陥る。やむなくケアラケクア湾に戻った一行だが、そこでは意外な変化が起こっていた。
事故で戻ったクックは、神ではないのではないか。神は事故になど遭遇するわけがない、というのが住人たちの考えであった。クックが王の詰問に答えている最中、一発の銃声が鳴り響く。それは僚船「ディスカバリー号」からで、船長クラークの銃だった。彼は大勢でやって来た住民たちが、船の備品に手を付けたことに気を揉み、威嚇の積もりで空砲を撃ったのだった。しかし、これまで友好的だった船員による威嚇は、住民たちを怒らせるに十分だった。クック一行はあっという間に住民たちと敵対関係に陥る。
緊張の高まる2月14日、船から盗まれた大工道具のカッターが原因で、浜辺に集まった群衆と小ぜり合いが起きてしまう。船の修理に必要な道具類は何としても失うわけにはいかなかった。塵一つに至るまですべて返還しろ、というクックの態度に住民たちは怒り、また、住人の一人がクックらの捜索隊に殺されたという噂に動揺した結果、ヤリと投石でクックらを攻撃し始める。クックらも住民に向けて発砲するが、騒ぎの中、退却を余儀なくされた。しかし背中を向けゆっくり歩き始めたクックは追って来た住民に後ろから石で頭を殴られ、岩上での大格闘になる。やがて彼は後から追いついた住民たちに次々に組み付かれ、波打ち際に転倒したところを刺し殺された。
この戦いでクックとほかの4人の船員、17人の住民が死亡した。奇妙なことに、クックの遺体は住民たちに持ち去られてしまう。
次の日、クックに代わり指揮をとり、船の修理を急ぐクラークのもとに、一人の住民が現れた。手にしていたのは解体されたクックの体の一部だった。きれいな布に包まれていたという。彼は3晩にわたりやって来ては、クックの頭蓋骨、腰の骨、塩漬けにされた右手などを残していった。彼らは宗教の儀式に則って、クックの遺体を食べたのだった。神とされ崇拝されたクックの肉を体内に採り入れることで、自分たちもその力を得ることができる、というのが彼らの考えだったようだ。
2月22日、クラークたちはクックの骨を正式な海軍の作法で水葬にし、クックの死の知らせは、半年掛かって英国に届けられた。やがて1780年10月4日、レゾルーション号の一行は英国に帰還する。
クックの死を目撃した船員たちは、クックがなぜ最後の瞬間に逃げずに、また振り向きもせずにゆっくり歩いていたのか気にかかっていた。それはあたかも、戦う気持ちを全くもたない人のようだったという。これは様々な憶測を呼んだ。更に、クックの体調がひどく悪化していたとされる事実も浮上した。前回の旅の後半からクックはひどい腹痛に悩まされ、時には立っていることすら不可能な状態になったという。また彼が時折見せる別人のような姿、やる気や記憶力の減退、激しい気分の上下など、これは今ではすべて腸下部に起きる感染症の症状であることがわかっている。長年にわたり腸の壁がゆっくり浸食される病気だが、もしもクックの体調を知っていたら、サンドウィッチ伯は彼に最後の冒険を依頼しなかっただろう。クックは出発した時、自分がもう英国には戻れないのではないかと考えていたと思われる。
一度はグリニッジ海軍病院の院長の役職を引き受けたクック。だが「こんな小さな世界で生きていけるものなのか、ちょっと心配です」と知人に手紙を書いている。
「誰よりも遠くへ行きたい」という少年時代からの願いが叶ってしまったあと、自分には「さらにもっとその先へ」という道しか残されていないことに、クックは気づいたのであろう。だとすれば、クックの最期はまさに彼の望んだ、限界を定めぬ冒険家として理想的なものだったとはいえないだろうか。氷山から南国まで、誰よりも多く、驚くような地球の姿に触れたジェームズ・クック。なんと幸運な一生だったことだろう。
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クックの通った3航路 赤は第1回航海(1768 - 1771年) |
参考資料 "Captain James Cook" by Richard Hough, Coronet Books "The Voyage of Captain Cook" by Anthony Cornish, Conway |