■1922年、世界中の専門家が実在を否定していたツタンカーメンの墓が、未盗掘で発見された。 その偉業を成し遂げたのは、無名の英国人考古学者、ハワード・カーター。
現在開催中の展覧会にあわせ、世紀の大発見に隠された男の苦難と悲哀をたどる。

● Great Britons ● 取材・執筆/本誌編集部

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少年王の死

時をさかのぼること、約3300年前。

紀元前14世紀、エジプトの首都テーベ(現ルクソール)の町は、深い悲しみに包まれていた。まだ19歳であった国王、ツタンカーメンの早過ぎる死。先王が強行した宗教改革や遷都などによって国政が混乱していたこともあり、その突然ともいえる「不可解な死」は、事故死説、病死説、そして暗殺説など、様々な憶測もまた呼んでいた。

人々が寝静まった頃、松明の光を受けて輝く少年王の棺のそばには、王妃としての威厳を保つべく、今にも目から溢れ出そうになる涙を必死にこらえているアンケセナーメンの姿があった。豪奢な黄金の人型棺には緻密な装飾が施されており、アンケセナーメンはそれをゆっくりと目で追っていく。やがて、王の生前の面差しを写した頭部にたどりつくと、とうとう彼女の視界はぼやけ、大粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちていった。

2人は幼馴染で、異母姉弟であった(当時のエジプトでは近親婚は許されていた)。父王の死にともない、弱冠9歳でツタンカーメンが王に即位するのと同時に結婚。政略結婚であったが、複数の妾妃を持つのが当然であったこの時代に、ツタンカーメンはアンケセナーメン以外の女性をそばに置くことはなかった。権力闘争の渦巻く王宮にあって、年若き王が唯一心を許せた存在が、7歳上のこの王妃だったのである。

アンケセナーメンは、亡き夫のもとへとさらに一歩足を進め、手にしていた花をそっと捧げた。

「花はいつか枯れてしまうけれど、私の心は永遠に貴方のそばに…」

20年に満たない短い生涯を終え、永遠の眠りについたツタンカーメンへ向けて、彼女はそう静かに語りかけた。

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絵の才能を買われた青年

©MykReeve
ツタンカーメンのミイラの頭部に被せられていた、王の面影を刻んだ黄金のマスク。

時は流れ、1891年。エジプトのベニ・ハッサン。

ナイル河中流域にある岩窟墳墓の中で、一心不乱に壁画の模写をしていた少年は、一息つこうとスケッチブックを小脇に挟み、薄暗い墳墓から抜け出した。目の前に広がるのは、一面の砂漠と透き通るような青い空、照りつける太陽。そこに佇むかつての繁栄の面影を伝える壮大な遺跡の数々は、何度見ても少年の心を強く揺さぶる。この少年が、のちにツタンカーメンの墓を発見するハワード・カーターである。

カーターは、1874年にロンドンのサウス・ケンジントンで、9人兄姉の末っ子として生まれた。体が丈夫でなかったカーターは学校に通えなかったが、絵を描くことは得意であった。動物画家である父親から手ほどきを受け、次第に父親の助手として、わずかながらも収入を得るまでになっていく。

父親の顧客からの紹介で、エジプト考古学の第一人者フリンダーズ・ピートリー率いる発掘隊がエジプトから持ち帰った、出土品などの模写画を整理していたカーターのもとに、ある日運命の話が舞い込む。目に映るものを精密に描くことのできる才能を高く評価され、エジプト調査基金(現在の英国エジプト学会)の調査隊のスケッチ担当として、「エジプトに同行しないか」と誘われたのである。このときカーターは17歳、エジプトでの長い発掘生活の幕開けであった。

カーターは、この調査が終わっても英国へ戻らなかった。ピートリーや他の遺跡発掘隊に引き続き助手として参加し、やがて発掘作業にも加わるようになる。朝は誰よりも早く起きて現場に向かい、昼間は発掘の一からを実地で教わり、夜は古代エジプト史やヒエログリフ(象形文字)を独学で学ぶ日々を送った。

1899年、25歳になったカーターは、これまでの現場経験やピートリーらの推挙もあり、エジプト考古局のルクソール支部・首席査察官に就任。この若さでの首席査察官採用はきわめて例外的だったはずであり、カーターの優秀さがうかがえよう。

古代エジプト時代に「テーベ」と呼ばれていた古都ルクソールは、ナイル河で分断されており、その一帯には多くの遺跡が残されている。日が昇る方向であるナイル河東岸にはカルナック神殿やルクソール神殿など『生』を象徴する建造物が建ち並び、日が沈む方向である西岸には『死』を象徴する「王家の谷」などの墓所が広がる。カーターは査察業務の傍ら、米国の富豪セオドア・デイヴィスが発掘中の王家の谷で、遺跡発掘の現場監督としても采配をふるっていた。発掘への情熱をいかんなく注ぎ込むことのできる職を得て、カーターはやりがいと充実感を味わっていたに違いない。

ところが1903年、首都カイロ近郊のサッカラ支部へ異動が決まったことにより、順調に進んでいた人生は急変する。サッカラの遺跡入口にいた警備員と、入場料を払わずに入ろうしたフランス人観光客の間で起きた小競り合いに巻き込まれたのだ。カーターは仲裁に入るが、観光客たちは酔っ払っており、警備員と殴り合いに発展。事件を知ったフランス総領事は責任者であるカーターを非難し、公式な謝罪を要求した。しかし、彼は謝罪を拒んだため、考古局を解雇されてしまう。

失業したカーターはルクソールに戻り、観光ガイドをしたり、自身で描いた水彩画を観光客に売ったりしながら凌ぎ、発掘に携わるチャンスが巡ってくるのを待った。

執念と財力、運命の出会い

1907年、遺跡発掘に投資している一人の英国人紳士が、カイロのエジプト考古局にやって来た。考古局長は「またか」とひっそりため息をついた。当時、発掘の真似事をしたがるヨーロッパの上流階級出身者は珍しくなかった。だが、そう簡単に遺跡が見つかるはずはなく、また作業中は発掘現場に立ち会わなくてはならないため、1~2年ほどで音をあげる。その結果、中途半端に放置される場所が増え、考古局長は頭を悩ませていた。ところが、「発掘放棄の話だろう」と覚悟を決めて会った紳士の態度は、これまでの投資者とは少し異なっていた。

王墓発掘に莫大な資産をつぎ込んだ、第5代カナーヴォン伯爵ジョージ・ハーバート。

11世紀にさかのぼる家柄を誇るカナーヴォン伯爵家の第5代当主、ジョージ・ハーバートは子どもの頃から好奇心旺盛で、冒険にあふれた生活に憧れていた。乗馬やヨットを好み、爵位を継いでからは自動車に熱中。自らハンドルを握ってヨーロッパ中を旅した。しかし、数年前にドイツで起こした自動車事故により、毎年冬は英国を離れて療養するようになる。ギリシャやスペイン、南イタリアでの生活に飽きたカナーヴォン卿は、医者に勧められてエジプトで過ごすうちに、神秘的な遺跡群に魅了されて発掘投資を決めたのであった。

発掘開始から数ヵ月が経ち、ほとんど成果が出なかったにもかかわらず、カナーヴォン卿に諦める気配はなかった。どうすれば墓が見つかるのか真剣に相談を持ちかける、その並々ならぬ熱意は「ある男」を彷彿とさせた――。考古局長は、発掘には知識のあるプロの考古学者が必要であることを説き、無職であるものの、情熱だけは人一倍熱いカーターを推薦したのである。

事故? それとも暗殺?ツタンカーメン 死の真相

即位後まもなくに着手し、長い時間をかけて造営する王墓。ツタンカーメンの墓は、あまりに小規模だったことから、王の死が「予想外の急逝」であったことがうかがえる。
2010年、エジプト考古学研究グループがツタンカーメンのミイラの検証を行った結果、ツタンカーメンは近親婚で生まれたことによる「先天的な疾患」を患っていたことが判明。背骨の変形、足指の欠損、臓器疾患の跡が確認された。ただ、こうした疾患による病死ではなく、おそらく死因は「大腿骨骨折による敗血症とマラリアの合併症」という。
かつては、後頭部に強い打撃を受けて命を落としたという暗殺・事故死説が有力視されていたが、X線写真に写っていた頭蓋骨内の骨片は、ミイラ作りの際に脳をかきだすために開けられた穴から落ちたものと、現在では結論づけられている。
大腿骨には縦にひびが入っており、太い大腿骨を縦に割るにはかなり強い力を要することから、疾走する2輪戦車等から落下したのではないかと考えられているが、それが不幸な事故であったのか、何者かによる暗殺未遂であったのかは、今や知る術はない。

忘れ去られた王

カーターとカナーヴォン卿は、すぐに意気投合したわけではなかった。カナーヴォン卿は名のある考古学者と組みたがり、考古局から解雇されたというカーターの履歴は不安材料でしかなかった。だが、自分を上回るほどの情熱と忍耐力に感服し、何より同じ目標を持っていたことが発掘を任せる決定打となった――2人は「王家の谷」での発掘を狙っていたのである。

古代エジプトにおいて、ミイラとして墓に埋葬されたのは、王族や貴族などの身分の高い者や裕福な者に限られていた。数々の豪華な副葬品が納められた墓は、常に墓泥棒による盗掘の危険に曝されており、新王国時代・第18王朝の王トトメス1世は、「自分の墓が暴かれないように」と険しい岩壁がそびえたつ地に岩窟墓の造営を考え出した。以後500年の間、歴代の王がそれにならって岩窟墓や地下墓を造ったため、その地は「王家の谷(Valley of the Kings)」と呼ばれるようになったのである。カナーヴォン卿は未盗掘の王墓を発見できる可能性があるとすれば、王家の谷しかないと考えていた。

しかし、カーターにはもっと具体的な目標があった。それはツタンカーメン王墓の発見である。ツタンカーメンは謎に包まれた「考古学者泣かせ」の王で、「歴代の王名リスト」にその名はないにもかかわらず、ツタンカーメン王の印章が刻まれた指輪などが、時々単独で見つかったりする。実在した王かすら確かではなく、実在したとしても在位の短い、歴史上あまり重要ではない王だと推測できた。それでも「忘れ去られた王」の墓を見つけることは、考古学者なら一度は夢見るロマンだ。多くが夢半ばで諦めていった中、カーターはツタンカーメン王墓は実在すると考え、それを発見するのは自分だと強く信じていた。そして、そのターゲットを王家の谷に絞っていたのだ。

王家の谷の発掘権は、引き続きセオドア・デイヴィスが握っていた。彼もツタンカーメンの墓を探し求める一人で、王家の谷から離れる様子はない。カーターたちは他の候補地を発掘しながら、時期をうかがっていた。

1914年、ついにデイヴィスが10年以上保持した王家の谷の発掘権を放棄。知らせを聞いたカーターは、英国にいるカナーヴォン卿に電報を打ち、発掘権を至急手に入れるよう訴えた。とはいえ、やはり好事魔多し。いよいよ念願の作業開始という時に第一次世界大戦が勃発し、発掘は一時中断となってしまった。

進まぬ発掘と許されぬ恋

第一次世界大戦が終結し、王家の谷で発掘作業が再開されてから3年が過ぎた1920年、何も発見できないことにカーターは焦りを感じていた。カナーヴォン卿もしびれを切らしはじめ、カーターは調査方法を一新する。考古局の資料と照らし合わせて、過去数十年にわたって王家の谷で発掘された全箇所を記した測量図を作成し、未着手の場所を徹底的に掘る作戦だ。ところが結局成果は上がらず、失望したカナーヴォン卿は翌年の発掘権を手放し、投資からも手を引くことを示唆してきた。慌てたカーターは再度測量図を作成し直し、今度は発掘の際に積み上げられた土砂で覆われ、作業が困難なために避けてきた箇所をしらみつぶしに調べる方法を提案して説得を試みるものの、カナーヴォン卿は難色を示した。土砂を取り除きながらの作業は、2倍の手間と時間がかかるからだ。しかし、最後にはカーターの勢いと必死さに折れ、翌年も発掘続行を許可した。

自分だけの指揮で結果を出さなければならない状況と、周囲から遮断された岩山の狭間での長期間にわたる仕事は、強靱な意志と忍耐力、強い信念がなければ続けられない。そんなカーターを支えたのは、ツタンカーメンに寄せる執念ともいえる思いと、ある女性――カナーヴォン卿の娘、イヴリンの存在だった。

©Francisco Anzola
険しい岩壁が続く「王家の谷」。盗掘されないよう、ひそかに造られた岩窟墓や地下墓に王族は埋葬された。
ツタンカーメン王墓の入り口に立つ(左から)カナーヴォン卿、娘のイヴリン、カーター。

カーターがイヴリンと初めて出会ったのは、王家の谷であった。第一次世界大戦の終戦により情勢が落ち着くと、カナーヴォン卿はエジプトに娘を伴って来たのである。父からずっと話に聞いていたエジプトを訪れるのは、イヴリンにとって長年の夢であった。イヴリンは上流階級の女性にありがちな気取ったところのない控えめな人柄で、考古学の造詣も深かったといわれており、カーターの発掘への思いを理解してくれる唯一の女性であったのかもしれない。当時40代半ばを迎えていたカーターと17歳のイヴリンは、親子ほどに年齢が離れていたが、瞬く間に心を通わせるようになったと伝えられている。イヴリンが英国に戻ってからも2人の手紙のやり取りは続き、毎冬の発掘シーズンには父に付き添ってエジプトに滞在するようになっていた。

最後のチャンス

©RBETZ
王家の谷の発掘作業時にカーターが生活していた、ルクソールの高台にある「カーター・ハウス」。2010年に修復を終え、博物館として一般公開されている。

1921年、勝負の年が始まった。山のように堆積した土砂を取り除きながらの発掘は、通常通りに行っていたのではすぐに時間切れになってしまう。カーターは作業員の数を増やし、人海戦術で広範囲にわたってひたすら掘り進めていくことにする。膨大な量の土砂を休まずに動かし続けたが、実りのないままその年も終わってしまった。

翌1922年の夏、カナーヴォン卿はついに探索打ち切りを決め、王家の谷の発掘権を放棄する旨をカーターに手紙で伝えた。大戦により一時中断を余儀なくされたとはいえ、王家の谷を発掘し始めてから8年。遺跡発掘への投資を始めてからだと15年以上が経過している。カナーヴォン卿が「そろそろ潮時だ」と判断したとしても不思議ではない。たとえ盗掘されていたとしても、埋もれた遺跡の発見は学術的には大きな意義があるが、投資する者にとっては多大な犠牲を払うことになる。大戦前とは違って英国も物価が上がり、道楽というには発掘は強大な負担になっていた。

カーターは手紙を読み、部屋で呆然と立ち尽くした。本当に王家の谷は掘り尽くされてしまったのか。それともツタンカーメンの墓を探し当てるなど、自分には大それた夢だったのか。あるいはツタンカーメンは実在しなかったのか…? ぼんやりと測量図を眺めていると、ふとある場所に目がとまった。

「そうだ! ここはまだ手を付けていなかった!」

ラムセス6世の墓の壁画は保存状態が良いため、人気観光スポットの一つとなっている。その隣には墓を造る際に建てられた、作業員小屋の跡とされる遺構が残っており、王墓の上に作業小屋を建てるなどありえないとして、これまで見逃されてきた場所であった。しかしよく考えると、第18王朝の王とされるツタンカーメンと第20王朝のラムセス6世の治世は、少なくとも200年ほど離れている。埋葬場所がわからないように地中に造られた墓だ。200年の間に所在が忘れられ、その上に小屋を建ててしまった可能性もあるはず…。カーターの心に、一筋の希望の光が駆け抜けた。

カーターはすぐに英国に渡り、カナーヴォン卿のもとを訪れた。自分の蓄えをすべて放出しても構わない。もし何か発見できた場合は、自分はその遺跡に関するすべての権利を放棄し、カナーヴォン卿に一任する――。話し合いは三日三晩続き、カナーヴォン卿はその熱意に負け、「今回が最後」という条件で発掘権の延長を決断した。

封印された扉

「ダウントン・アビー」のロケ地として知られる、ハイクレア城。現在もカナーヴォン伯爵一家が暮らしており、夏の一般公開時には地下階に再現されたツタンカーメン墓内部を探索できる。

11月5日、英南部ハンプシャーのハイクレア城。

私室でのんびりと新聞を読んでいたカナーヴォン卿のもとに、エジプトから一通の電報が届く。

「ついに谷で見事な発見。無傷の封印を持つすばらしい墓。元通りに封鎖して貴殿の到着を待つ。おめでとう」

カナーヴォン卿は、この短い電報の意味を把握するまでにしばらく時間がかかった。そして理解した途端、ソファから勢いよく立ち上がり、家族が集っている談話室へと駆け込んだ。「カーターがとうとうやったぞ!」。カナーヴォン卿は、イヴリンとともに急いでエジプトへ向かった。

最後の発掘権延長を申請した後、カーターはラムセス6世の墓の隣にある作業小屋の土台除去に着手した。土台をすべて取り除くと、そこから南に向かって掘り返し始める。そして「その日」は突然やってきた。

発掘開始から4日目の11月4日朝、カーターが現場に到着すると、作業員が誰も仕事をしていなかった。異常なほどの緊張感と静けさに包まれており、作業員の一人がカーターの姿を見るなり何か叫びながら駆け寄ってくる。

「見つかりました! 階段です!」

カーターはすぐに掘り進めるよう指示を出した。一段、また一段と下降階段が現れるたび、隠しきれない興奮で身体が震える。やがて12段目に辿り着いた時、盗掘された気配のない、封印されたままの漆喰扉の上部が姿を見せたのである。

11月24日、駆けつけたカナーヴォン卿とイヴリンが見守る中、調査を続けたカーターは、封じられた扉の下部にツタンカーメンのカルトゥーシュ(王の印章)が押されているのを発見した。これこそがツタンカーメンの墓だ…! カーターとカナーヴォン卿は思わず固く抱き合った。イヴリンは感激のあまり涙をこぼし、作業員たちは一斉に歓声を上げた。

2日後、扉を崩して墓室へと続く通路の瓦礫を片付けたカーターらは、封鎖された第2の扉につきあたった。中の様子を探るため、扉の一部に穴を開けて顔を寄せると、カビくさい臭いとともに熱気が流れ出てくる。3000年以上密閉されていた古代の空気だ。カーターは、はやる気持ちを抑え、ろうそくを持った右手をその穴に差し込み、内部を覗いた。

「最初は何も見えなかった。しかし目が慣れていくにつれ、室内の細部がゆっくりと浮かび上がってきた。数々の奇妙な動物、彫像、黄金。どこもかしこも黄金だった」

ツタンカーメンの王墓発見のニュースは瞬く間に広まり、世界中を驚愕させた。まだ発掘途中で見学ができないと知りつつも、世界各地から人々が王家の谷に押し寄せた。忘れられた王は、一夜にしてエジプト史上もっとも有名な王となったのである。

漆喰の壁で封鎖されたツタンカーメンが眠る玄室の入り口は、王自身の姿に似せた、等身大の一対の番人像が守っていた(左)/玄室内の色鮮やかな壁画の様子。今年2月に、9年におよぶ修復作業が終了した(右)。

少年王の呪い

世紀の大発見から5ヵ月後、突如悲劇の幕が上がる。

第3・第4の扉も開け、黄金の玉座やベッドといった贅を尽くした副葬品の整理を終えた後、いよいよ王の棺が納められた巨大な黄金厨子の解体作業に取り組もうとするカーターのもとに、青天の霹靂ともいえる知らせが届く。それはカイロのホテルに滞在しているイヴリンからのもので、カナーヴォン卿が危篤だと告げていた。カーターは翌朝一番の船でカイロに向かうが、カナーヴォン卿と再び言葉を交わすことはできなかった。

1923年4月6日午前1時50分、カナーヴォン卿が56歳で死去。黄金のマスクやツタンカーメンのミイラと対面することなく、その遺体は英国へと帰っていった。死因はひげを剃っている際に、蚊に刺された箇所を誤ってカミソリで傷つけてしまったことにより菌血症を患い、肺炎を併発したためといわれている。

ところが、これが一連の不思議な事件の始まりとなった。カナーヴォン卿の急死後、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げていったのである。カナーヴォン卿の弟と専任看護婦、カーターの秘書と助手、調査に協力した考古学者やエジプト学者…その数は20人以上。ほとんどが病死と診断されたが、当時のマスメディアはこの異常事態を「ツタンカーメンの呪い」と大きく報道した。

やがてカーターも受難に見舞われる。最初にそれをもたらしたのは、父の跡を継いで第6代カナーヴォン伯爵となった息子ヘンリーであった。ヘンリーは考古学に興味がなく、発掘投資は「浪費の極致」だと考えていたため、王家の谷の発掘権を今期限りで手放すと宣言したのである。発掘権が他者に移ると、ツタンカーメンの墓の調査権もその相手に渡ってしまう。カーターはヘンリーに連絡をとるが、話し合いの場さえ持つ気はないようだった。

行き詰ったカーターに、さらなる衝撃が訪れる。イヴリンが敏腕の実業家でもある準男爵と婚約したのだ。カーターとイヴリンの恋は、当然周囲に反対されていた。カーター自身もその身分差、年齢差を理解していたと思うが、ツタンカーメンの調査権を失おうとしている今、イヴリンまでもが奪われてしまうという残酷な事実に、どれだけ悲嘆に暮れたであろうか。その衝撃は計り知れないものがある。

しかし、状況はさらに一転する。イヴリンが慌ただしく結婚した後、ヘンリーが発掘権放棄を撤回したのだ。一体何がヘンリーの気持ちを変えさせたのか?――そこにはイヴリンの犠牲があった。ヘンリーは、イヴリンが身分に相応しい相手と結婚し、カーターと二度と会わないならば、発掘権を延長してもいいとイヴリンに持ちかけ、彼女はそれを了承したというのである。カーターがこの話を知っていたかどうかは、今となっては知ることはかなわない。

黄金よりも美しいもの

1924年2月12日。4重の黄金厨子の解体がようやく終了し、カーターが設計した滑車によって、石棺の重い蓋がゆっくりと持ち上げられていくのを、カーターと調査に協力している学者らは固唾を呑んで見守っていた。王はどのようにして姿を現すのだろうか? 一秒が一分に、一分が一時間にも感じられる。石棺の中に少しずつ光が注がれていくと、古びた布で覆われているのがわかった。カーターはそれを慎重に巻き取っていき、最後の布が取り除かれたとき、驚きのあまり呼吸をするのを忘れてしまうほどに眩い光景を目にした。若い王の姿をした、光り輝く黄金の人型棺が横たわっていたのである。

ツタンカーメンの棺が納められた4重の黄金厨子の扉を開封し、内部をのぞきこむカーター(中央奥)と助手たち。

「死後も存在する崇高な雰囲気を感じた。深い畏敬の念に満ちた静寂が墓内を支配し、時が止まったように思われた」

静まり返る玄室内で黄金の棺を見つめるカーターの心を最初に占めたのは、おそらくカナーヴォン卿への思いだったのではないだろうか。意見が合わず、対立することも多々あったが、ともに歩んだ15年間を思い出し、この歴史的瞬間に彼が立ち会えなかったことが残念でならなかったに違いない。

白いアラレ石と黒曜石で飾られた人型棺の王の両眼はまっすぐに天井を見つめ、胸の前で交差された両手は王を表す王笏と殻竿をにぎっており、その若々しくも力強い王の威厳をまとった姿に、学者たちから感嘆の声がもれた。しかし、カーターは別のものに目を奪われていた。それは棺の上に置かれている「花」である。

「最も感動的だったのは、横たわった少年王の顔のあたりに、小さな花が置かれていたことだ。私はこの花を、夫に先立たれた少女の王妃が、夫に向けて捧げた最後の贈り物と考えたい。墓はいたるところが黄金で包まれていたが、どの輝きよりも、そのささやかな花ほど美しいものはなかった」

奇跡的にもほのかに色を留めていた花は、石棺の開封によって外気に触れた途端、ゆっくりと形を崩し始めた。思わずカーターが手を伸ばすと、まるで空気中に溶け込むかのようにパラパラと崩れ去っていった。3300年の間、孤独を癒すかのように王に寄り添い続けた花は、カーターの目の前で最後の輝きを放ち、過去へと帰っていったのだろう。カーターは、時代に翻弄されながらも強く生きようとした、若い夫婦の苦闘と悲哀、そして愛情をそこに見て、胸が熱くなったのだと思われる。墓には、死産だったと思われる2体の女児のミイラも丁寧に葬られていた。

© Heritage Image Partnership Ltd / Alamy Stock Photo
ツタンカーメン夫妻の仲睦まじい様子が描かれた「黄金の小厨子」(下コラム参照)を運ぶ、現地作業員らとカーター(左端)。

永遠の眠りへ

1939年3月、ロンドン。

冷たい雨が降りしきる中、ロンドン南部パットニーの墓地では、カーターの葬儀が行われていた。かつての国民的英雄は人々の記憶のかなたに消え、最後の別れの挨拶をするために集まった人は、ほんの一握りだった。その中に、地面に横たわる質素な棺を見つめる準男爵夫人イヴリンの姿があった。牧師の祈りが終わると、イヴリンは棺の上にそっと花を置いた。イヴリンは結婚後、エジプトを一度も訪れていない。カーターとも会っていないが、手紙のやり取りだけは続けていた――王墓発見の瞬間を共有した同志として。

パットニーベール墓地にある、カーターの墓。

花が添えられた棺が土の中へと納められていくのを見つめながら、イヴリンはカーターから届いた一通の手紙を思い出していた。そこにはカーターが黄金の棺を目にした時の思いが綴られていたが、なかでも印象的だったのが、その人型棺に添えられていたという枯れた花の話だった。カーターの魂がこの地に留まることはきっとないだろう。すでに飛び立ち、遥か海を越え、王家の谷へと辿り着いているかもしれない…。

40年にわたるエジプト生活に終止符を打ち、1932年にカーターは英国に帰国するが、その後の人生は寂しいものであった。ツタンカーメン発掘という偉業を成し遂げながらも、高等教育を受けていなかったため、考古学者として高く評価されることはなかった。独身を通し、自宅で黙々と「ツタンカーメンの学術報告書」をまとめ上げる毎日を送り、結局その報告書の完成をみないまま、1939年3月2日、64歳で息を引き取った。

ツタンカーメン王墓の発見は、20世紀におけるエジプト考古学史上最大の発見である。墓内にあった遺物のほとんどは、カイロ考古学博物館で見ることができるが、訪れた人はその質量に驚くことだろう。出土品はミイラも含め、研究と保存のために博物館へ移されるが、カーターはツタンカーメンのミイラを移動することだけは断固拒否した。そして、カーターの願い通りにツタンカーメンは今も王家の谷で静かに眠っており、本来の王墓に納められている唯一の王だという。

学者たちの唱える「常識」に屈せず、ツタンカーメン王墓の存在を確信し、鋭い感性と緻密な観察力、情熱と忍耐を持って、エジプトの大地を掘り続けたカーター。ひたすら追い求めた夢が現実となった時、彼の心をもっとも大きく揺り動かしたのが、黄金でもミイラでもなく、枯れた花であったとは予想だにしていなかったに違いない。全調査を終えるまでツタンカーメンと2人きりで過ごした10年が、カーターにとって一番幸せな時間だったのかもしれない。

発掘からもうすぐ100年
ロンドンでツタンカーメン展 開催中!

ツタンカーメン王墓の発見から、2022年でちょうど100年。遺品の大半が収められているエジプト・カイロ考古学博物館が現在、100周年にあわせて移転工事中のため、貴重な収蔵品の数々が世界を巡回している。初めてエジプト国外へ出たものも多く、3000年以上前の少年王の生活を身近に感じられる貴重な機会だ。
カーターらが墓から運び出している姿が写真に残されている「黄金の小厨子」(下写真・左)や、玄室を守っていた番人像のうちの一体(上見取り図の写真・左)などを、実際に目にすることができる。本展は日本へも巡回する予定。

©Laboratoriorosso, Viterbo, Italy
Tutankhamun: Treasures of the Golden Pharaoh

2020年5月3日(日)まで
Saatchi Gallery
チケット: £24.50~
www.saatchigallery.com
www.tutankhamun-london.com

週刊ジャーニー No.1113(2019年11月21日)掲載