Japan Journals Leaderboard
Japan Journals Leaderboard


強要された「電撃再々婚」

3番目の夫となった、7歳上のボスウェル伯。

世継ぎの王子を産んだことで自身も暗殺の危機を感じはじめたメアリーは、側近の一人、ボスウェル伯爵ジェームズ・ヘプバーンを重用するようになる。ボスウェル伯はイングランドとの国境地帯の軍事指揮権を持ち、イングランド兵を幾度も退けてきた軍人で、判断力と決断力に優れていた。親密さを増していく2人に、「主従以上の関係があるのでは?」「リッツィオの二の舞にならなければいいが…」とあちこちで囁かれるようになっていく。
そして1567年2月10日深夜、再び事件は起きた。ただし、今度の被害者はダーンリー卿だった。天然痘を患うダーンリー卿が療養していたエディンバラ郊外にある旧司祭館カーク・オ・フィールド教会が爆破され、彼の遺体が庭で発見されたのである。
女王の夫暗殺事件の報は瞬く間に広がり、疑いの目はボスウェル伯とメアリーに向けられた。とくに、ボスウェル伯は事件後に妻と離婚しており、メアリーと結婚するために邪魔なダーンリー卿を殺した可能性は否定できなかった。さらに事件から数日後、メアリーがボスウェル伯とともに消息を絶ってしまったことも疑惑を深める一因になった。メアリーは一体どこへ消えたのか――。実はこの時、彼女はボスウェル伯に誘拐され、監禁されていた。
メアリーにとってボスウェル伯はあくまでも信頼する臣下であり、結婚相手として考えたことはなかった。当然ながら、夫の急死以降も2人の距離は変わらなかったのである。これに痺れを切らしたのが、ボスウェル伯だった。野心家の彼は「女王の夫」の座を得るために、実力行使に出ることを決意。既成事実をつくり、結婚せざるをえない状況に追い込もうとしたのだ。
ボスウェル伯は入念に計画を立て、メアリーがスターリング城にいる息子を訪ねた帰路を狙って待ち伏せ、自身の城へ強引に連れ去った。やがて監禁から1ヵ月が過ぎた5月15日、メアリーはボスウェル伯と3度目の挙式を行う。2人の間でどのようなやりとりがあったかは想像するしかないが、メアリーにとって苦渋の決断だったに違いない。また一歩、断頭台への道が近づいた。

イングランドへの逃亡

前夫の謎の死から3ヵ月での電撃婚、しかも相手が殺害容疑をかけられている人物だったことから、今回の結婚は大スキャンダルとして批難が集中した。国民もあきれ返り、メアリーは反ボスウェル伯派の貴族らによって、エディンバラから30キロほど北上した湖上に建つロッホ・リーヴン城に幽閉されてしまう。さらに不幸は続き、幽閉中にボスウェル伯との子どもを流産。双子だったという。気力も体力も使い果たしたメアリーは、追い討ちをかけるように「サインか死か」と迫る彼らにとうとう屈し、女王退位と1歳の息子への譲位を認める書類に署名した。
ちなみに、多額の懸賞金をかけられ逃亡していたボスウェル伯は、デンマークで捕まり、監獄で狂死している。
7年間で3人の夫と2人の子どもを次々と亡くし、地位も奪われた元女王。でもメアリーは、自分の人生を、女王に再び返り咲くことを諦めなかった。
幽閉されてから約1年後の1568年5月2日、城主の弟の篭絡に成功したメアリーは、彼の協力で侍女に扮し、夜の闇にまぎれてロッホ・リーヴン城から脱走する。復位を目指して挙兵し、同13日、メアリーの軍勢はグラスゴー近郊のラングサイドにて反乱鎮圧軍と相対した。メアリー側の兵士は約6000人、鎮圧側の兵士は約4000人と、人数ではメアリーの方が優勢だったものの、実践経験の少ない若い指揮官を中心に形成された軍であったため、開戦から45分であっけなく敗走。メアリー軍の死者は100人以上に及んだのに対し、なんと鎮圧軍の死者は1人だけという完敗ぶりだった。

「反逆者」になったメアリーに残された道は、2つしかなかった。縁故のあるフランスへ亡命するか、エリザベス1世の治めるイングランドへ保護を求めて逃げ込むか…。メアリーが選んだのは、後者だった。カトリック派の貴族を頼り、無事にフランスへ亡命できていれば、まったく違った人生を送れただろう。だが、彼女はイングランドへ向かうという「致命的」な選択ミスを犯し、自ら希望の芽を摘んでしまったのである。およそ20騎の仲間を伴い、メアリーはスコットランドとイングランドの間に広がるソルウェー湾へ向けて一路南下していった。