宗教対立や権力闘争が激化する激動の時代に、3度の結婚と死別を繰り返し、長い幽閉生活の末に断頭台で命を散らせた美貌のスコットランド女王、メアリー・ステュアート。今号では、フランス、スコットランド、イングランドの「3つの王冠」に翻弄された、メアリーの波乱の生涯をたどってみたい。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

1568年5月13日、スコットランド南端。
土埃をあげながら、一心不乱に馬で駆け抜ける一群がいた。その数、およそ20騎。多少遠回りになろうとも人目につくような町を避け、身体を休める時間も惜しんで、ひたすら駆け続けている。彼らが目指す先は、隣国イングランド。スコットランドとイングランドの間に広がるソルウェー湾まで行き、そこから小舟に乗って対岸のイングランドへ渡るという筋書きだ。
この命がけでスコットランド脱出を図る騎馬集団の中に、男性たちに引けを取らない見事な手綱さばきを見せる、一人の若い女性の姿があった。灰暗色の飾り気のないローブが身をすっぽりと覆っているものの、凛とした気品は隠せておらず、フードの陰から整った容貌が時折のぞく。彼女の名前はメアリー・ステュアート。自由と権力を取り戻すために、一縷の望みをかけて従姉エリザベス1世が治めるイングランドへと向かう、25歳の「元」スコットランド女王だった――。

生後6日で女王に即位

フランスの王太子フランソワ(左、14歳)とメアリー(15歳)の結婚生活は、2年半で終わった。

メアリーは1542年12月8日、スコットランド王ジェームズ5世の長女として、リンリスゴー宮殿で誕生。しかしながら、父王は国境沿いで起きたイングランドとの戦いで命を落とし、メアリーは出生から6日後の12月14日、スコットランド王位を継承した。
当時のスコットランドとイングランドは、宗教や領土をめぐり対立していた。英国国教(以降、プロテスタントと記載)を創設したイングランド王ヘンリー8世は、息子(のちのエドワード6世)とメアリーの婚約を一方的に押しつけ、スコットランドを手に入れようと画策する。ところが幸いにも、ヘンリー8世が間を置かずに死去したことから、スコットランド側は「婚約無効」を宣言。メアリーはスコットランドと同様にカトリックを信仰するフランスの王太子の元へ嫁ぐことが決まり、5歳で海を渡っていった。
フランス宮廷で大切に養育されたメアリーは1558年、15歳のときに1歳下の王太子フランソワと結婚。卵型の顔、透き通るような白い肌、大きな目と艶やかな髪を持つ、輝くばかりに美しい王太子妃の誕生に、フランス国民は熱狂した。幼馴染として共に学び育った2人は、とても仲の良い夫婦だった。
しかし翌年、国王アンリ2世が馬上槍試合で負った傷により急逝。若干15歳の王太子が、フランソワ2世として即位することになってしまう。メアリー自身、これほど早く「フランス王妃」になるとは想像していなかったはずだ。スコットランドとフランスの2つの冠を戴いたこの時が、おそらく人生の絶頂期だったのではないだろうか。以降、坂道を転がり落ちるように、彼女の人生は転落の一途をたどっていくことになる。

強行した「スピード再婚」

義父、夫、母親と肉親の死が相次ぎ、喪服をまとうフランス時代のメアリー(左)。帰国したスコットランドで、眉目秀麗なダーンリー卿(右)と出会い、瞬く間に恋に落ちた。

1560年6月、メアリーの代わりにスコットランドで執政を行っていた母親が死去したとの報が、メアリーの元へ届く。さらに半年後、元来病弱だった夫のフランソワも病死。結婚生活は2年半という短いものだった。18歳で未亡人になってしまったメアリーは、スコットランドへ帰されることになった。
13年ぶりに足を踏み入れた故国に対してメアリーが抱いた印象は、「何だか暗くて田舎くさい」。ウィットに富んだ会話が繰り広げられていた華やかなフランス宮廷が恋しく、公の場以外では侍女たちとフランス語で話した。また、宗教問題にも悩まされた。スコットランドでは宗教改革が進み、イングランドの影響を受けてプロテスタント教徒が急増。敬虔なカトリック教徒である女王の帰国は、国民に困惑をもたらしたのである。そして、最大の頭痛の種が跡継ぎ問題。直系の王族はメアリーしかおらず、「早く女王に夫を!」という側近たちの声は日に日に高まっていった。
そんな「孤高の若き女王」に運命の出会いが訪れる。彼女の心を動かした人物は、イングランド貴族のダーンリー卿ヘンリー・ステュアート。メアリーと同様、ヘンリー8世の姉を祖母に持つ従兄であった。金髪碧眼で優美な顔立ち、女性としてはかなり長身(180センチあったとされる)の自分に負けない高長身、すらりとした体型、ロンドン宮廷仕込みの優雅な物腰…メアリーの胸はときめいた。男性顔負けの馬術を誇るメアリーにとって、狩猟や乗馬、ゴルフなどスポーツが得意なダーンリー卿とは趣味も合った。一気に燃え上がった恋の炎は誰にも止めることができず、ついにダーンリー卿との結婚を断行。出会ってから5ヵ月という「スピード婚」を周囲は反対したものの、メアリーは「私は女王。女王の夫は自分で選びます!」の一点張りだった。
このときメアリーは22歳、ダーンリー卿は19歳。強引な再婚劇は、彼女が断頭台への道を歩む「ひとつめの分かれ道」となった。

夫の裏切り、寵臣の虐殺

メアリーの祖父、スコットランド王ジェームズ4世が建造した、エディンバラのホリルードハウス宮殿。メアリーの寝室は向かって左の塔の3階部分、夫のダーンリー卿の部屋はその下の2階だった。

早計すぎた結婚は、破綻も早かった。
メアリーが懐妊すると同時に、夫の「化けの皮」が剥がれはじめる。見栄っ張りで短気、傲慢で野心家だったダーンリー卿は、「女王の夫」という立場が我慢ならず「国王」としての実権を要求、次第に泥酔して暴力を振るうようになり、メアリーの愛情は急激に冷めていった。そうした中でメアリーを支えたのは、有能で細やかな気遣いができるイタリア出身の音楽家デイビッド・リッツィオ。メアリーは自身の相談役としてリッツィオを秘書官に任命し、常に彼を側に置くようになった。

一方、ダーンリー卿は「メアリーの態度が冷たくなったのは、リッツィオと浮気しているからに違いない」と、2人の関係を邪推するようになっていた。そして1566年3月9日夜、事件は起きた。
エディンバラのホリルードハウス宮殿。女王の寝室に隣接する小さな晩餐室で、メアリーがリッツィオと食事を楽しんでいると、リッツィオの権勢に反感を抱いていた貴族らがダーンリー卿と手を組み、武器を携えて乗り込んできた。ダーンリー卿はメアリーの寝室の下階に部屋を構えており、警備兵に見つからずに寝室間を行き来できるよう「隠し階段」があるのを知っていた。一団はその階段をのぼって、メアリーの部屋を秘密裏に襲撃したのだ。「助けてくれ!神よ!」。武装した男たちに晩餐室から引きずり出されそうになったリッツィオは、メアリーのドレスの裾にしがみついて必死に抵抗。メアリーも彼を助けようとするが、背後からダーンリー卿に羽交い絞めにされ、身動きが取れない。大声を上げて警備兵を呼ぼうとしたメアリーの腹部に、ダーンリー卿がナイフを押し当てた。
「子どもを無事に生みたいだろう?」
メアリーの負けだった。リッツィオはメアリーの目の前で身体中を何度も刺された。その回数は、なんと56回。彼らの憎しみの程がうかがえる。
事件の3ヵ月後、メアリーは流産の危機を乗り越え、エディンバラ城で息子ジェームズを出産。しかし、生まれた子どもはメアリーの手元からすぐに引き離され、プロテスタント派貴族のもとで育てられることになった。

メアリーの目の前で、寵臣のリッツィオが刺殺される場面。助けようとするメアリーを、夫のダーンリー卿が後ろから羽交い絞めにして止めている。

強要された「電撃再々婚」

3番目の夫となった、7歳上のボスウェル伯。

世継ぎの王子を産んだことで自身も暗殺の危機を感じはじめたメアリーは、側近の一人、ボスウェル伯爵ジェームズ・ヘプバーンを重用するようになる。ボスウェル伯はイングランドとの国境地帯の軍事指揮権を持ち、イングランド兵を幾度も退けてきた軍人で、判断力と決断力に優れていた。親密さを増していく2人に、「主従以上の関係があるのでは?」「リッツィオの二の舞にならなければいいが…」とあちこちで囁かれるようになっていく。
そして1567年2月10日深夜、再び事件は起きた。ただし、今度の被害者はダーンリー卿だった。天然痘を患うダーンリー卿が療養していたエディンバラ郊外にある旧司祭館カーク・オ・フィールド教会が爆破され、彼の遺体が庭で発見されたのである。
女王の夫暗殺事件の報は瞬く間に広がり、疑いの目はボスウェル伯とメアリーに向けられた。とくに、ボスウェル伯は事件後に妻と離婚しており、メアリーと結婚するために邪魔なダーンリー卿を殺した可能性は否定できなかった。さらに事件から数日後、メアリーがボスウェル伯とともに消息を絶ってしまったことも疑惑を深める一因になった。メアリーは一体どこへ消えたのか――。実はこの時、彼女はボスウェル伯に誘拐され、監禁されていた。
メアリーにとってボスウェル伯はあくまでも信頼する臣下であり、結婚相手として考えたことはなかった。当然ながら、夫の急死以降も2人の距離は変わらなかったのである。これに痺れを切らしたのが、ボスウェル伯だった。野心家の彼は「女王の夫」の座を得るために、実力行使に出ることを決意。既成事実をつくり、結婚せざるをえない状況に追い込もうとしたのだ。
ボスウェル伯は入念に計画を立て、メアリーがスターリング城にいる息子を訪ねた帰路を狙って待ち伏せ、自身の城へ強引に連れ去った。やがて監禁から1ヵ月が過ぎた5月15日、メアリーはボスウェル伯と3度目の挙式を行う。2人の間でどのようなやりとりがあったかは想像するしかないが、メアリーにとって苦渋の決断だったに違いない。また一歩、断頭台への道が近づいた。

イングランドへの逃亡

前夫の謎の死から3ヵ月での電撃婚、しかも相手が殺害容疑をかけられている人物だったことから、今回の結婚は大スキャンダルとして批難が集中した。国民もあきれ返り、メアリーは反ボスウェル伯派の貴族らによって、エディンバラから30キロほど北上した湖上に建つロッホ・リーヴン城に幽閉されてしまう。さらに不幸は続き、幽閉中にボスウェル伯との子どもを流産。双子だったという。気力も体力も使い果たしたメアリーは、追い討ちをかけるように「サインか死か」と迫る彼らにとうとう屈し、女王退位と1歳の息子への譲位を認める書類に署名した。
ちなみに、多額の懸賞金をかけられ逃亡していたボスウェル伯は、デンマークで捕まり、監獄で狂死している。
7年間で3人の夫と2人の子どもを次々と亡くし、地位も奪われた元女王。でもメアリーは、自分の人生を、女王に再び返り咲くことを諦めなかった。
幽閉されてから約1年後の1568年5月2日、城主の弟の篭絡に成功したメアリーは、彼の協力で侍女に扮し、夜の闇にまぎれてロッホ・リーヴン城から脱走する。復位を目指して挙兵し、同13日、メアリーの軍勢はグラスゴー近郊のラングサイドにて反乱鎮圧軍と相対した。メアリー側の兵士は約6000人、鎮圧側の兵士は約4000人と、人数ではメアリーの方が優勢だったものの、実践経験の少ない若い指揮官を中心に形成された軍であったため、開戦から45分であっけなく敗走。メアリー軍の死者は100人以上に及んだのに対し、なんと鎮圧軍の死者は1人だけという完敗ぶりだった。

「反逆者」になったメアリーに残された道は、2つしかなかった。縁故のあるフランスへ亡命するか、エリザベス1世の治めるイングランドへ保護を求めて逃げ込むか…。メアリーが選んだのは、後者だった。カトリック派の貴族を頼り、無事にフランスへ亡命できていれば、まったく違った人生を送れただろう。だが、彼女はイングランドへ向かうという「致命的」な選択ミスを犯し、自ら希望の芽を摘んでしまったのである。およそ20騎の仲間を伴い、メアリーはスコットランドとイングランドの間に広がるソルウェー湾へ向けて一路南下していった。

長引く幽閉、進む陰謀

メアリーより9歳上だった、イングランド女王のエリザベス1世。

ヘンリー8世の「庶子」であるエリザベス1世にとって、イングランド王女を祖母に持ち、正統な王位継承権を持つ「嫡子」のメアリーは危険きわまりない存在だった。ようやく「プロテスタント国家」として落ち着いてきた矢先のカトリック教徒メアリーのイングランドへの亡命は、宗教問題はもちろん、スコットランド問題、王位継承権問題など、トラブルの種となるのは目に見えていた。かといって、従妹にあたる王族のメアリーをスコットランドへ送り返し、みすみす処刑されるのを見逃すわけにもいかない。苦肉の策として表向きは囚人のように扱いながらも、実質は「高貴な客人」として丁重にもてなすことに決めた。
ただし、居場所を特定されてカトリック派に担ぎ出されないよう、また城主と親しくなりすぎないよう、イングランド各地の城を転々とさせる点だけは譲れなかった。それを除けば、幽閉生活といっても侍女も召使もおり、比較的自由で静かな生活を送ることができた。
しかしながら、メアリーは不満を隠せなかった。スコットランド貴族たちを説得し、自分が再び女王に復位する助力を請う手紙を、エリザベスへ何度も書き送るものの、さっぱり音沙汰がない。一体いつまで待てばいいのか…。いつまでも諦めないメアリーに脅威を抱いたエリザベスの側近、ウィリアム・セシルは、メアリーを排除すべく罠をしかけることにする。侍女や召使の人数を減らし、監視を強化し、薄暗く状態のよくない城へとメアリーを移送。メアリーの精神状態は、徐々に追い詰められていった。
そして1584年、決定的な出来事が起きる。18歳になったメアリーの息子が、スコットランド王ジェームズ6世として直接統治を開始。プロテスタント派のもとで母親の悪評を聞かされて育ったジェームズは、生まれて初めてメアリーに親書を送ってきたのである。喜びと期待とともに開封した彼女の目に飛び込んできたのは、「貴女は王太后(国王の母)にはなれるが、もはや女王になることはない。スコットランドの君主は私だ」という文面だった。せめて王位だけでも取り戻したいという夢も、いつか息子が助け出してくれるのではないかという希望も、すべて消え失せた。でも、このままでは終われない。スコットランドの王冠が無理ならば、次なる王冠は…。メアリーは命をかけた最後の「賭け」に出る。
メアリーはイングランドに潜伏する自身の支持者たちと、密かに連絡を取りはじめる。小さなビール樽に暗号を用いた手紙を隠し、エリザベスの暗殺計画を練った。ところが、動向はウィリアム・セシルに逐一報告され、解読された暗号文が決定的な証拠となって、メアリーは反逆罪で逮捕、処刑が言い渡された。幽閉されてから19年近い歳月が過ぎ、メアリーは44歳になろうとしていた。

断頭台での壮絶な最期

真っ直ぐに正面を見据え、フォザリンゲイ城のグレートホールに設置された断頭台にのぼるメアリー。黒いローブの裾から赤いドレスの一部が見える。
ノーサンプトンシャーの東端にあったフォザリンゲイ城。

1587年2月8日、ノーサンプトンシャーにあるフォザリンゲイ城。
グレートホール内は、黒い服を身につけた聖職者、死刑執行人や見届け人らであふれかえっていた。中央に設置された断頭台が、異様な存在感を放っている。人々のざわめきが石造りの壁に反響し、少々騒々しいくらいだったが、扉が開く音が聴こえた途端、水を打ったように静まり返った。メアリーの死装束は美しかった。漆黒のベルベットのローブをまとい、手には愛用の祈祷書、胸元に下げられたロザリオは金色の光を放っている。
毅然とした態度で断頭台への階段をのぼり終え、侍女に祈祷書とロザリオを渡す。そしてローブが肩から滑り落とされると、人々は思わず大きく息をのんだ。漆黒の下から現れたのは、まるで血のような深紅のドレス。赤はカトリック教徒にとって殉教の色でもある。メアリーは満足そうにその反応を見渡した後、ドレスの裾を整えながら床に膝をつき、細い首をゆっくりと断頭台に横たえた。
「主よ、御身元に近づかん。汝の御手の中へ」
死刑執行人により斧が大きく持ち上げられ、うなり声を上げながら勢いよく刃が落下した。

メアリーの処刑以降、フォザリンゲイ城は誰も住むことなく廃墟となった。現在は建物の一部だった石や砦跡の丘のみ残る。

本来なら、ここでメアリーの物語は幕を降ろすはずであった。ところが、刃は首ではなく後頭部を直撃。メアリーはすすり泣くようなうめき声を上げ、「おぉ、神よ」とつぶやいたという。ようやく首を切り落とせたのは3度目だった。そして処刑人が落ちた首を見物人へ掲げようと髪に手をかけた瞬間、首はゴトリと床に転がり落ちてしまった。長い幽閉生活で身体は衰弱し、髪も抜け落ちていたため、美しく結い上げられた豊かな髪はかつらだったのだ。

メアリーが最初に埋葬された、ピーターバラ大聖堂内の墓跡。「FOREVER BURIAL PLACE OF MARY QUEEN OF SCOTS」の文字が見える。

メアリーは自身の遺体はフランスへ運ぶよう遺言を遺したが、エリザベスはその願いを無視し、心臓はフォザリンゲイ城の敷地内、身体は同城から程近い地にあるピーターバラ大聖堂に埋葬された。しかし、エリザベスが跡継ぎを持たないまま1603年に死去し、メアリーの息子ジェームズがイングランド王としても即位すると、母親の棺を歴代君主が眠るウェストミンスター寺院へ移送。エリザベスより少し高い位置につくられた墓所で、メアリーはやっと安らかな眠りについている。

映像で見られる!映画が絶賛上映中「Mary Queen of Scots」(ふたりの女王 メアリーとエリザベス)

互いに複雑な感情を抱く2人の女王、メアリー・ステュアートとエリザベス1世の波乱に満ちた人生を描いた映画「Mary Queen of Scots」が、現在上映中。
黒いローブに身を包み、背筋をすっと伸ばしたメアリーが、コツコツコツ…と靴音を響かせながらフォザリンゲイ城の通路を歩いていく場面からスタート。そして時間は巻き戻り、18歳で未亡人となったメアリーが、故国・スコットランドへ帰国するところから物語が動き出す。その「知らせ」を聞き、ハッと表情をこわばらせるエリザベス。ひとつの島を分け合い、それぞれの国に君臨する若き女王同士の「因縁の対決」の火蓋が切って落とされる。

結婚・出産(しかもイングランド王家が恵まれなかった男児)と自分の感情に素直に生きるメアリーに対し、嫉妬にかられて泣き崩れるイングランドに生涯を捧げた「処女王」エリザベスの姿は切なさを呼ぶ。
メアリー役をアイルランドの女優シアーシャ・ローナン(24)、エリザベス役をオーストラリア出身の女優マーゴット・ロビー(28)が熱演。日本では、3月15日から公開予定。

週刊ジャーニー No.1071(2019年1月31日)掲載