英国を守り抜いた、隻腕隻眼の英雄ホレイショ・ネルソン
「トラファルガー海戦で英国を勝利に導いた提督」として、英海軍史上もっとも賞賛された男、ホレイショ・ネルソン(Horatio Nelson)。12歳で海軍へ入隊してから人生の大半を海上で過ごし、生涯を通して120もの戦いに参加。一方、歴戦の陰では妻帯者でありながら公然と不倫を続けるなど、スキャンダルにも事欠かなかった。激戦の末に片目と片腕を失いながらも、退くことなく戦い、海で散っていった「英雄」の波乱の人生を追う。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

近づく勝利、遠ざかる意識

1843年に完成した、トラファルガー広場のネルソン記念柱。柱の上に立つネルソンは、スペイン・トラファルガー方面を見つめている。
時計の針を巻き戻すこと、200年以上前の1805年10月21日。
スペイン南端のトラファルガー沖で、当時「強国」といわれた英国とフランスそれぞれの命運を担った両海軍が、ついに直接対決を迎えていた。この「世紀の一戦」を勝利に導いた英国側の総司令官が、ロンドン・トラファルガー広場にある記念柱の頂上に立つ人物、ホレイショ・ネルソン提督だ。
海戦の火蓋が切って落とされてから約半日が経過したころ、ネルソンが編み出した独自の接近戦(通称ネルソン・タッチ)で、先頭をきって敵艦隊に突撃する旗艦「ヴィクトリー号」は、砲弾の嵐の中にあった。ネルソンは何度も部下から身を隠すよう進言を受けたが、それを聞き入れずにデッキに立ち、司令官自らが率先して身を危険にさらすことによって兵士を鼓舞した。そして午後1時半、ついに隣接するフランス軍艦の狙撃兵による銃弾がネルソンを襲う。ネルソンは肩から銃弾を浴びてデッキに倒れ込み、医務室に担ぎ込まれた。銃弾は脊柱を貫通しており、痛みに喘ぎ苦しみながらも、艦長から伝えられる戦況を受け「攻撃せよ!」と大声で命令を出し続けた。

トラファルガー海戦における「ネルソン・タッチ」の図。前方で弧を描いて待ち受ける敵艦隊(青)に向かって、英艦隊(赤)は直角に2列縦隊を組んで突進するという斬新な戦法。
しかしながら、爆音であるはずの砲声が、彼の耳にはだんだんと遠く小さくなっていくように感じられた。左目に映る風景も色褪せて薄暗く、ぼんやりとしていて輪郭がつかめない。体温も急激に奪われていく…。
負傷からおよそ3時間後、「完璧な勝利です。ただ各艦がはっきりとは見えないので、何隻の敵船を捕獲したのかは不明です」と告げる艦長の勝利報告に安堵したのであろう。ネルソンは「神に感謝する。我が義務を果たした(Thank God, I have done my duty.)」とつぶやきながら、静かに息を引き取った。午後4時30分、享年47。大量の体内出血による最期だった。

信念を貫いた少年時代

緑の森と青く澄んだ小川、遠くまで起伏の続く麦畑の丘に囲まれた美しい田園の村、ノーフォークのバーナムソープ(Burnham Thorpe)。ネルソンはこの村で、牧師夫妻の息子として1758年9月29日に誕生。ノーフォーク内の寄宿学校に通った後、母方の叔父であるモリス・サクリング艦長を頼り、ケントにある英海軍に入隊した。9歳で母親を亡くし、男手ひとつで子供たちを育てていた父親も病気を患い、家計を按じていたこと、さらには厳格な学校教育を通じて愛国心が芽生えていたことからの入隊志願だった。やがて12歳で叔父が指揮する戦列艦に士官候補生として乗り込み、海軍兵のキャリアをスタートさせた。
少年時代のネルソンは体格には恵まれず頑丈とは言いがたかったものの、負けん気が強く、強情な一面を持っていた。それは時として頑固で融通の利かない性格として表れることもあった。そうした彼の性格を物語るエピソードとして、次のような話が伝えられている。
ネルソン少年は小学校時代、生徒に体罰を科することで有名だった教師たちに普段から目を付けられていた。ある日、鳥の巣を教室に持ち込んだネルソンを教頭が厳しく注意すると、彼は「ごめんなさい、先生。でもこの卵、僕が抱いてやらないと上手くかえらないんです」と詫びながらも、自分の正当性を主張。ネルソンは同級生の前で上半身を裸にされ、教頭から背中に何度も鞭を打たれたが、背を真っ赤に腫らしながらも自分の意見を最後まで覆さず、決して「二度と鳥の巣を持ち込みません」とは言わなかったという。「己が正しいと信じることは何が何でも貫き通す」――これはネルソンの生涯に通ずる信念であり、その礎は幼少期にすでに築かれていたと言えるだろう。

世界各地で恋する色男

数々の浮名を流した恋多き男、ネルソンの23歳のときの肖像画(左)。同い年の妻フランシスとは赴任先の西インド諸島で出会った(右)。
今日残っているネルソンの肖像画を見てもわかる通り、若いころのネルソンは整った要望の持ち主であったことは容易にうかがえる。「行く港ごとに恋人がいる」という通説で知られた当時の海軍人の例に漏れず、ネルソンも赴任地が変わるたびに新たな恋人をつくり、様々な浮名を流した。
まずは1782年、英植民地だったカナダのケベックで町娘と恋に落ち、結婚を考えるも、友人たちの反対にあって断念。続く翌83年、フランスでの休暇中に英国人の裕福な牧師の娘に恋をし、またしても結婚を考えるが、経済格差を理由に相手に断られてしまう。さらに翌84年、カリブ海の密貿易監視任務で赴いたアンティグア島では、弁務官の若妻に熱を上げるも親密な仲にはなれずに終わっている。
そして翌85年、西インド諸島ウインドワード島で、生涯の伴侶となるフランシス・ニズベットに出会う。上級裁判官の娘で、未亡人となり、先夫との間に息子がいた彼女は、ネルソンの恋心を「海軍人の一時の気の迷い」と捉え、相手にしなかった。それでもネルソンは諦めずにラブレターをしたため続け、「――わが胸はあなたを恋焦がれ、あなたと共にあります。私の頭の中にはあなたしかいません。あなたから離れると私には何の喜びもありません――」と歯の浮くような口説き文句で、彼女の心を揺さ振っていった。筆まめのネルソンのアプローチが功を奏したのか、出会いから2年後の1787年、ネルソンは29歳でフランシスと結婚した。

名誉のためなら目も腕も

ネルソンの魅力を倍増させているのは、その整った容姿とは不釣合いの「隻腕隻眼」という身体的『特徴』ではないだろうか。冒頭のトラファルガー海戦にいたるまでの歴戦で、ネルソンは右目、右腕を失っている。常人ならば退役を考えそうなものだが、現役でいることを彼が選んだのは、軍人としての強い出世欲と名誉欲があったことは否定できないだろう。
ネルソンの肩書きをさかのぼってみると、20歳で「勅任艦長(post captain/現在の階級では大佐に相当)」となるまで順調に出世していた。上官たちに将来を見込まれていたこともあるが、叔父の縁故も大きく作用したと言われている。だが、結婚した年の人事異動で英国に戻ったものの、フランスなどとの外交関係が改善されたことから、昇進できるような海戦もなく給与は半分ほどに減額。ノーフォークの実家暮らしに甘んじることになってしまった。
不遇な日々を送っていたネルソンを救ったのは、1793年の英仏戦争だった。89年に勃発したフランス革命が英国に飛び火しないよう、英政府がフランス革命軍に宣戦布告したのだ。ネルソンには地中海艦隊任務の一環として、臨時提督の資格が与えられた。5年近くも任務から遠ざけられた後の現役復帰。それにかけた思いは相当のものだったに違いない。 1794年のカルビー湾攻略の戦いでは、敵の砲弾で飛び散った砂利が右目に突き刺さり、視力を失いながらも引き下がらずに英国軍を勝利に導いた。この功績により「艦隊司令官(commodore)」、そして97年には「海軍少将(rear admiral of the Blue)」へと昇進していく。しかし同年、カナリア諸島での戦いを指揮した際、敵の狙い撃ちが右腕を襲い、切断せざるを得なくなったばかりか、戦いにも敗れてしまう。切断部分は重度の炎症をおこし、中毒症状も出たが、驚異的な回復力で翌年には戦いに復帰している。
隻腕隻眼の身となったネルソンは、ナイルの海戦(アブキール湾の戦い)の前夜、士官たちと食事をしながら「明日のこの時間までには、私は貴族の称号を手に入れているか、ウェストミンスター寺院(英国で国葬が行われる場所)に行くかのいずれかだ」と話したと伝えられている。この戦いでネルソンは前頭部に重傷を負い、大量の流血に耐えながらもフランス軍に大勝。宣言に違わず貴族の地位を与えられ、「ナイル及びバーナムソープ男爵」となったのだった。

恥も外聞も捨てたダブル不倫

長年の愛人エマ・ハミルトン。ネルソンの戦死後、ギャンブルや浪費による借金地獄に陥り、逃亡先のフランスで死去した。
実は、ネルソンはヴィクトリー号での死の間際、最愛の女性エマ・ハミルトンと娘ホレイシアをくれぐれも見捨てないようにと、艦長らに念を押して世を去っている。ネルソンとエマ――両者にとっては純愛であったようだが、世間的には「ダブル不倫」であったため、2人の関係はタブロイド紙で格好のネタにされた。
そもそもエマとの最初の出会いは、ネルソンが不遇の時代を終えた1793年にさかのぼる。地中海艦隊の守備領域内であったナポリ王国に、援軍要請のために赴いた時のことである。この時のネルソンはまだ五体満足であり、エマも駐ナポリ英国大使夫人として上流階級の華やかな暮らしを謳歌していたので、心惹かれつつもお互いに「淡い想い」を胸に隠して過ごす程度であった。2人の恋が本格的に動いたのは、ネルソンがナイルの海戦を終えて艦の修理と補給のためにナポリに立ち寄り、5年ぶりの再会を果たした時だった。
エマはもともと下層階級の出身で、幼い頃は貧しい生活を強いられていたが、美貌と舞踏の表現力を武器に権力者の妾になるなどして生活していた。美術品収集家としても知られていたナポリ在住の英国大使ウイリアム・ハミルトンとは、エマが26歳の時に結婚。34歳差の「年の差夫婦」となった。これにより、エマは上流階級の貴婦人の仲間入りを果たしたのであった。
ナイルの海戦で勝利を手にしたものの、隻腕隻眼という変わり果てた姿で再び現れたネルソンにエマはショックを受けるが、彼女の中で同情が愛情へと変わるまでに時間はかからなかった。再会以降、エマはネルソンのもとを片時も離れようとせず、次第にあちらこちらで噂が立てられはじめる。ナポリでの滞在を伸ばし、軍務よりもエマとの日々を優先するネルソンの行動は、やがて英国民の知るところとなり、連日醜聞がタブロイド紙をにぎわせた。英国でネルソンの帰還を待つ妻フランシスは、世間からの好奇の目に耐えなければならなかった。

歓喜と醜聞の中での帰国

1799年、10年間に及ぶフランス革命がナポレオンの独裁政治の開始とともに終焉し、ネルソンとハミルトン夫妻も英国への帰路についた。ウィーン、プラハなどを充分過ぎるほどの時間をかけて周り、1800年11月に帰国。市民は戦功を立てたネルソンの帰国を素直に歓迎したものの、上流階級の人々の間には愛人と享楽にふけり、のんびりと帰ってきたことに嫌悪を表す者も多かった。
ネルソンは妻と再会したが、不倫騒動によってできた深い溝は埋まることなく、翌年1月には別居。当時の法律では、夫の暴力行為がある場合しか離婚が認められなかったことから、2人は最後まで書類上夫婦でいなければならなかったのである。これ以降、ネルソンがフランシスと会うことは二度となかった。皮肉にも別居の直後、エマがネルソンの子どもを出産。生まれた子は女の子で、唯一の実子となった。
このような慌しい私生活の中、ネルソンは「海軍中将(vice-admiral of the Blue)」に昇進し、艦隊次席司令官としてコペンハーゲンの海戦に出陣、またしても「伝説」をつくる。戦闘不利と判断した司令長官が「撤退せよ」という信号旗を揚げるも、視力のない右目で望遠鏡をのぞきながら「本当に何も見えん」と言い、命令を無視して交戦を続行したのだ。自分の信念のためなら上官の命令すら断固として退ける、強引で一本槍な性格の表れと言えよう。結局、海戦は見事勝利を収め、ネルソンはこの功績により子爵位を受爵している。戦勝歴を更新し、出世も名誉も思いのまま、子宝にも恵まれてまさに人生の絶頂期を迎えていた。

英雄、戦場で散る

ポーツマスのヒストリック・ドックヤードには、ネルソンがトラファルガー海戦で乗船したヴィクトリー号が、現在も係留している。船体の黄色と黒の横縞は「ネルソンチェッカー 」と呼ばれ、1800年の導入以降、英戦列艦の標準色となった。
1803年になると、再び英仏関係が悪化。英政府はフランスに対し、二度目となる宣戦布告を行う。エマや娘とつかの間の隠遁生活を楽しんでいたネルソンは、再び地中海艦隊に召集され、ついに「司令官(Commander in Chief, Mediterranean Fleet)」に任命された。ネルソンは旗艦のヴィクトリー号に乗船し、艦隊を率いて出航。これは同時に、約2年半後に火蓋が切られる「世紀の一戦」に向けての出発となった。
宣戦布告から2年半近く経た後での直接対決は、陸上戦ならば考えられないほど時間が経過している。実は、これは陸上戦を得意とするナポレオンの立てた作戦が、生粋の海軍人であるネルソンにとって突飛なものだったからである。ネルソンはフランス艦隊の動きをなかなか掴むことができず、地中海上を迷走することになってしまったのだ。
そして、いよいよ1805年10月21日がやって来る。
トラファルガー沖でフランス軍と相対したネルソンは、有名な信号旗「英国は各員がその義務を果たすことを期待する(England expects that every man will do his duty.)」を掲げ、艦隊の士気を高めた。英艦隊は戦艦27、小型艦5の計32艦。対するフランス・スペイン連合艦隊は戦艦33、偵察用小型艦7の計40艦。しかも連合艦隊の戦艦は英国のものより大型で、数でも大きさでも英国が不利なはずだった。
その敵艦を抑えての英国の勝利は、様々な要素が絡み合っていたと分析されている。まずフランス・スペインは政治的なつながりのみの連合艦隊で士気が低かったこと。次に「ネルソン・タッチ」という想定外の戦法に、連合艦隊が大混乱に陥ったこと。英艦隊の艦載砲が最新式で連射能力に長けていたこと。さらには、連合艦隊の提督が無能の烙印を押された人物であったことなどが挙げられよう。
しかし何よりも英軍が勝ったのは、兵士たちを鼓舞することに長けたネルソンの手腕だ。「勇将の下に弱卒なし」の言葉通り、彼の覇気と闘志は周囲に伝染し、司令を受ける海軍兵の団結力と勇敢さは群を抜くものだった。
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週刊ジャーニー編集部では、ポーツマス歴史ドックヤードにある戦艦ヴィクトリーを題材にショートフィルムを制作しました。下の動画をご覧ください。

海を制した男

トラファルガー海戦から2ヵ月半が過ぎた1806年1月9日、君主以外の人物として歴史上初となる大規模な国葬がセント・ポール大聖堂で執り行われ、ネルソンの遺体は大聖堂の地下に埋葬された。
200年以上経った今もネルソンにまつわる多くの逸話が残されているのは、彼の勝利への強い執念、戦いの場における粘り強さ、自分の判断で突き進む信念や類まれなる軍才に、英国民が敬愛の念を寄せ続けているからであろう。提督として自ら進んで銃弾飛び交う最前線で指揮を執り続け、ナポレオンの攻勢から英国を守り切ったネルソン。勝利を手にするとともに戦場で命を散らすというドラマチック性も相まって、海を制した「英雄」は現在も根強い人気と憧れをもって語り継がれている。トラファルガーは、まさに彼の「人生」を集約した墓場として、それ以上を望むべくもないほどの舞台だったに違いない。

セント・ポール大聖堂の地下墓地にある、ネルソンの墓。© mhx
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週刊ジャーニー編集部では、セント・ポール大聖堂を題材にショートフィルムを制作しました。下の動画をご覧ください。

ネルソンの「血」の行方

この時代、遠征先で命を落とした海軍兵は、遺体を海に投げ込まれて水葬されるのが一般的だった。しかし、ネルソンはトラファルガー海戦の総指令官という特別な階級にあり、ナポレオンの英国上陸を妨げた「英雄」でもあったことから、遺体は本国へ送還すべきであると考えられた。
もちろん当時、冷蔵設備などは船に備えつけられておらず、船員たちは遺体の腐敗防止のため、船内に貯蔵していた大人がひとり入るほどの大きさの酒樽に遺体を保存し、英国まで運ぼうとした。1805年10月21日、満タンのラム酒に浸されたネルソンの遺体とともにトラファルガー岬を出航したヴィクトリー号は、同28日、ジブラルタル海峡までたどり着く。しかし、その時に遺体とともに樽にたっぷり入っていたはずのラム酒が半分に減っていることに気づき、蒸留ワインをさらに補充したという。
ラム酒が減っていたのは、アルコール好きの船員たちがネルソンの功績にあやかろうと、「樽に小さな穴を開けてそこからストローで飲んでしまったから」と伝えられている。この出来事から、英海軍仕様の隠語「Tapping the Admiral(提督の栓を抜く=お酒を盗み飲む)」が生まれ、海軍で飲まれるラム酒を「Nelson's Blood(ネルソン提督の血)」と呼ぶようになった(写真上はPusser's社のラム酒)。
なお、この逸話には諸説あり、遺体を浸していたのはラム酒でなくブランデーだったという説(ヴィクトリー号が係留しているポーツマスのヒストリック・ドックヤードでは「ブランデー」と解説されている)や、ジブラルタル海峡の時点でアルコールが半分に減っていたのは船上で蒸発し、さらに遺体がアルコールを大量に吸収してしまったからというものもある。いずれにせよ、「ネルソン提督の血」は200年以上経った今も、ラム酒として英海軍兵たちに愛飲されている。

フランス狙撃兵の銃弾により、ヴィクトリー号のデッキの上に倒れ込むネルソン(中央)。

週刊ジャーニー No.1061(2018年11月15日)掲載