出版200年フランケンシュタインを生んだ女メアリー・シェリー波乱の生涯
怪奇小説『フランケンシュタイン』の作者として知られる英作家、メアリー・シェリー。 『フランケンシュタイン』は、単なる怪物ホラー・ストーリーと捉えられがちだが、 実は誰からも愛されず孤独に苦しむ「クリーチャー(Creature)」の姿を描いた哀しい物語である。 今回は、20歳という若さで後世まで語り継がれる怪物を生み出したメアリーの波乱の人生と、 出版から200周年を迎えた名作誕生の背景を追う。

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

JFC
TK Trading
Centre People
ロンドン東京プロパティ
Dr Ito Clinic
早稲田アカデミー
サカイ引越センター
JOBAロンドン校
Koyanagi

継母との確執と孤独

メアリーの父ウィリアム・ゴドウィンと、母メアリー・ウルストンクラフト。
1797年8月30日、無政府主義を唱える思想家ウィリアム・ゴドウィンを父に、同じく思想家であり「フェミニズム」の先駆者であるメアリー・ウルストンクラフトを母として、メアリーはロンドンで生まれた。
しかしメアリーを産んだ10日後、母親は産褥熱により死去。彼女には、ウィリアムとの結婚前に米国人実業家との間にできた娘ファニーがおり、メアリーよりも3歳年上だった。2人の娘を抱えるウィリアムは「母親が必要」と考え、メアリーが4歳になる年に再婚。継母にはチャールズ(当時5歳)とジェーン(同3歳)という2人の連れ子がおり、メアリーは母親とさらなる兄妹を得たのであるが、残念ながらこの再婚はメアリーに「温かい家庭」をもたらしてはくれなかった。メアリーは継母になつかず、継母もまたメアリーの大人びた態度に手を焼き、2人の関係はまるで水と油であった。
父の教えに従い、メアリーは父の書斎にある書物を端から読んでは様々なことを学び、幼少の頃からその賢さは際立っていたという。そんなメアリーをウィリアムは可愛がり、友人たちと科学や哲学の話をする場にもメアリーを同伴した。メアリーは父たちの議論を興味深く聞き、また肖像画でしか見たことのない実母が、男女同権や女性への教育の機会の必要性を提唱するなど、いかに聡明で素晴らしい人物だったかという話も聞かされながら成長していった。
賢く自立心の強い少女に育ったメアリーだが、生来身体が弱く、14歳の時に療養のために海辺の町ラムズゲートで半年ほど過ごしたものの、さほど改善されなかった。しかし、ロンドンの家に戻れば継母との確執によるストレスが体調に悪影響を与えることを案じた父は、メアリーをスコットランドの海辺の町ダンディーに住む知人の所へ預けることを決める。こうして彼女は1812年から約2年間を主にダンディーで過ごし、初めて「家庭の温かさ」を味わった。
JEMCA
Kyo Service
J Moriyama
ジャパンサービス
らいすワインショップ
Atelier Theory
奈美デンタルクリニック
Sakura Dental

奔放な詩人との出会い

メアリーの夫、27歳の頃のパーシー・シェリー。
英国を代表するロマン派詩人の一人として知られているパーシー・ビッシュ・シェリーは、1792年8月4日、サセックスの裕福な貴族の家に生まれた。名門校イートンを卒業し、オックスフォード大学に入学。ところが啓蒙思想に目覚め、大学在学中の1811年に発行した『無神論の必要性(The Necessity of Atheism)』が引き金となって退学処分となってしまう。その後間もなく、妹の友人で16歳になったばかりの少女ハリエット・ウェストブルックとスコットランドに駆け落ちし、周囲を驚かせた。一説によると、この駆け落ちはつまらない学校生活を嘆くハリエットにパーシーが同情した結果とも言われている。
突飛な行動を繰り返す「問題児」のパーシーと、地元の名士であった父親との仲は思わしくなかった。父親との確執が進むにつれ、パーシーはウィリアム・ゴドウィンの思想に傾倒。著作を読み込み、ついに直に教えを請う手紙を送った。その手紙には、財政面でのサポートを申し出る内容も含まれていたという。おそらく、父親と同年代のウィリアムに、思想家への憧れだけでなく「理想的な父親像」を重ね合わせていたのではないだろうか。
ウィリアムは、自らの本を出版するかたわらロンドンで書店を経営していたが、財政事情は厳しかった。そんな時に送られてきたパーシーからの手紙。もしその内容が本当なら、ウィリアムにとってはまたとない機会である。パーシーの真意を確かめるべく、手紙でのやりとりが重ねられた。実はこの2人のやりとりをもっとも楽しんでいたのは、ゴドウィン家の娘たち――ファニーとジェーン(メアリーはダンディーに滞在中)だった。手紙を熱心によこすパーシーのことを「一体どんな人物なのだろう?」と少女らしく思いを巡らせていたのである。
1812年10月、ついにパーシーと妻ハリエットがゴドウィン家にやってくる。しかしながらメアリーはまだダンディーにおり、彼女がロンドンに戻ってきたのは翌11月。ただ、帰宅した翌日にパーシー夫妻は再びゴドウィン家を訪れているため、一般的にはこの日に初めてパーシーとメアリーが出会ったと考えられているが、定かではない。確実に2人が対面した記録が残っているのは、1814年5月5日。メアリーが父の書店で働いていたところにパーシーがやってきた日である。彼はメアリーの美しさに目を奪われただけでなく、時代を代表する思想家を父母に持ち、知性を備えたメアリーへの興味を膨らませた。やがて2人は、メアリーの母が眠るセント・パンクラス教会へ散歩に出かけるなど、次第に距離を縮めていった。当時パーシーが友人に宛てた手紙は、メアリーがいかに賢明な女性であるかを称える言葉で埋め尽くされている。
一方で、パーシーと妻ハリエットの仲は冷めはじめていた。ハリエットはこの時、2人目の子を妊娠していたのだが、パーシーは本当に自分の子であるかどうか疑っていたという。

略奪愛と駆け落ち

パーシーとメアリーが書店で顔を合わせてから1ヵ月後、2人はお互いに愛し合っていることを周囲に告白するが、当然祝福されるわけもなく、パーシーはゴドウィン家への出入りを禁止されてしまった。やがてパーシーは服毒自殺を図ったものの一命を取り留めるという騒動を起こす。2人はメアリーの義妹ジェーンを連れてフランスへの駆け落ちを決行。メアリーは16歳、パーシーは22歳だった。ところが一方で、パーシーは夫の逃避行に落胆するハリエットに「君もフランスに来て『心の友』として一緒に暮らさないか?」と手紙を出すなど、周囲を混乱させ続けた。
翌年、パーシーとメアリーの間に第一子が生まれるが、生後間もなく逝去。メアリーはひどく落ち込み、「赤ちゃんの冷たくなった身体を、暖炉の前でさすったら生き返ったという夢を見た」という日記を残している。
資金繰りが苦しくなった3人は、同年秋にロンドンへ戻った。メアリーは実家を訪ねるも、ウィリアムは面会を拒否。結婚制度に対して懐疑的で「自由愛」を提唱する父が、なぜ自分の行動を受け入れないのか、彼女は理解できなかった。さらにはパーシーの友人に言い寄られ、それをパーシーに相談したところ、「どうせなら関係を持ってみてはどうか」と逆に勧められてしまい、人間関係に悩む日々を送った。

嵐の夜に生まれた大作

1816年の春、パーシーとメアリー、誕生したばかりの第二子、そしてジェーンは再び英国を後にする。行き先はスイスのジュネーヴにあるレマン湖。彼らの借家は美しい湖畔に建っており、詩人ジョージ・ゴードン・バイロンとその主治医ジョン・ポリドリが滞在する別荘「ディオダディ荘」の近くであった。

バイロンが滞在していた、レマン湖のそばに建つ「ディオダディ荘(Villa Diodati)」。
1788年にロンドンで生まれ、急逝した大伯父の男爵位を10歳で継いだバイロンは、ケンブリッジ大学を卒業した後、スペイン、アルバニア、ギリシャなどを巡り、詩集『チャイルド・ハロルドの巡礼』が好評を博して一躍時代の寵児となった。しかし、かなりのプレイボーイとしても有名であり(相手が女性とは限らなかった)、そのあまりにも乱れた生活に世間から非難が集中、英国を離れていたのである。
案の定、バイロンとパーシーは意気投合し、2人は哲学や文学について毎日のように語り合った。医者のポリドリは、クレア(メアリーの義妹ジェーンのこと。彼女は名前をクララやクレアと改名。バイロンの愛人だった)がバイロンの愛人であったことをすぐに見抜いた。そして、メアリーにほのかに想いを寄せるようになったが、当の本人に「兄のように思っている」と言われしまい、落ち込んだという。
6月に入ると、ジュネーヴは悪天候に見舞われ、一行はディオダディ荘内に閉じ込められる日が続いた。風雨が叩き付け、雷が轟く17日の夜、暖炉の前で当時流行していた幽霊物語をみんなで読んでいると、バイロンが「各自、怖い話を作ってみないか」と提案。翌日、バイロンは後に出版される『マゼッパ(Mazeppa)』のくだりを、パーシーは幼少の頃に体験した話を、ポリドリは鍵穴から覗き見してひどい罰を受けた骸骨女の話をしたのである。しかし、メアリーはいいアイディアが思いつかず、話を披露することはできなかった。その後も、バイロンに「何か思いついたかい?」と聞かれる度に「まだできていない」と答え続けた。
7月22日、パーシーとメアリー、クレアらはアルプスに向けて旅立つ。そして、アルプスの氷河を見たメアリーは、ダンディーで過ごした時に聞いた捕鯨船の話を思い出した。当時、英国では鯨油が手ごろな燃料として使われ、ダンディーは英国捕鯨漁の中心地として栄えていた。話とは、氷山に行く手を阻まれた船が7週間立ち往生してしまい、その時に船員たちが経験した飢えや寒さ、死への不安との戦いなどについてである。

執筆中のメアリー・シェリー。
また、パーシーとバイロンがディオダディ荘で披露していた話も、ふと思い浮かんだ。科学者エラズマス・ダーウィン(『進化論』を唱えたチャールズ・ダーウィンの祖父)が行った「電気を通してパスタを動かす」実験について聞いた時に「電気を通せば死体を生き返らせることができるかもしれない」と思ったこと、奴隷売買の話をしていた際に「人の価値が知性や人間性でなく、肌の色や見た目で判断されること」に強い印象を受けたこと――。前者は人造人間創造の方法、後者は見た目の醜さゆえに迫害される人造人間、という小説『フランケンシュタイン』の設定に直結している。このように、アイディアをひとつずつ紡いでいき、メアリーは物語をつくり上げていった。
8月後半に再び英国に戻った一行を待っていたのは、メアリーの異父姉ファニーの服毒自殺、続いてパーシーの妻ハリエットによるハイドパークのサーペンタイン湖での入水自殺だった。とくにハリエットの自殺に関して、世間から2人への非難は激しいものだった。娘を失うことを恐れた父ウィリアムはついに折れ、パーシーとメアリーは正式に結婚した。
1818年、1年近くかけて書き上げた小説『フランケンシュタイン』がついに発行された。メアリー、20歳の時である。ちなみに、翌1819年に発行されたポリドリによる『吸血鬼(The Vampire)』は、手違いでバイロン作として発行されたものの、なかなかの評価を得た。吸血鬼といえば、1897年に発行された作家ブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』が有名だが、実はポリドリが書いたのはこれよりも78年も早い。ポリドリは、メアリーたちがスイスを去った後にバイロンとケンカ別れをし、これを機にディオダディ荘で途中だった話の続きを書き上げたのである。ポリドリが描いた吸血鬼の特徴は、バイロンの特徴と当てはまる節が多いという。
1816年夏、レマン湖畔の別荘での集いは、『フランケンシュタイン』と『吸血鬼』という歴史に残る二大怪物誕生のきっかけとなった。

船が転覆して溺死

ルイ・エドゥアール・フルニエが描いた「シェリーの葬送」(1889年)。浜辺で火葬されるシェリーをバイロン(中央)が見守っている。
『フランケンシュタイン』の発行後、パーシーとメアリーは北イタリアへと居を移した。ところが、ここで授かった子どもを次々と失くすことになる。
1822年7月5日、5番目の子を流産したばかりのメアリーを残し、パーシーはピサにいるバイロンを訪ねようと、レリチからトスカーナ地方のリボルノに向けて船で出航。その帰路に就いた同8日、パーシーの乗る船は嵐で転覆した。パーシーの行方はわからなくなっていたが、10日後、ヴィアレッジョ郊外の浜辺に遺体が打ち上げられているのが発見される。身につけていたジャケットのポケットに、詩人ジョン・キーツの詩篇などが入っていたことから、それがパーシーだと確認された。30歳になる直前の早すぎる死を知ったメアリーの錯乱ぶりは、見るに堪えないほど凄まじいものだったという。
パーシーの遺体は浜辺で火葬され、参列したパーシーの友人が彼の「心臓」を奪い取っている。というのも当時、遺体の一部を保存すると「魔よけ」になると考えられていたのである。パーシーの遺灰は、3年前に死去した3歳の息子とともに、ローマの墓地に埋葬された。
あのレマン湖畔の夏から8年の間に、メアリーの異父姉とパーシーの前妻が自殺。第二子はマラリア、第三子は赤痢で死去した。1821年にはポリドリが青酸を飲んで自殺。その翌年に第五子を流産で亡くし、夫パーシーは溺死。1824年にはギリシャ独立戦争に参加していたバイロンが熱病で命を落とすなど、メアリーのまわりには死の影が付きまとった。

心臓のゆくえ

ボーンマスから8キロほど東へ行った町、クライストチャーチにあるプライオリー教会には、メアリーの死後、息子が依頼してつくらせた「溺れたシェリーを抱くメアリー像」が飾られている。
24歳という若さで未亡人となったメアリーは、再婚することはなかった。パーシーの伝記の執筆や夫が書き残した作品を編集して詩集を出版することに尽力し、1836年に父ウィリアムが亡くなるまで精神的・資金的に彼を支えた。
生まれた計5人の子どもたちの中で、唯一成人まで成長した息子パーシー・フローレンス・シェリーは、1849年、身体の弱い妻ジェーンと母メアリーが養生できる場所として、ボーンマスの東に隣接する小さな町ボスコム(Boscombe)に邸宅を購入。だが、体調を崩し、ロンドンのベルグレイヴィアに居を構えていたメアリーの健康状態では、ボスコムまで移動することは不可能であった。

1844~79年まで35年間もかけて建造された、ボーンマスにあるセント・ピーターズ教会。建物の裏側にメアリーの両親、メアリー、パーシーの心臓、息子夫婦が眠る墓(手前)がある。
1851年1月23日、メアリーは昏睡状態に陥る。そのまま目覚めることなく息子夫妻に看取られ、2月1日にロンドンでその生涯を閉じた。享年53。死因は、症状の記録から脳腫瘍と考えられている。生前メアリーが息子の妻ジェーンに「私が死んだらあなたたちの家の近くのボーンマスに埋めてちょうだい。その時には私の両親も一緒にお願いね」と話していたことを受け、息子夫妻はセント・パンクラス教会に埋められていた祖父母の墓を掘り起こし、ボーンマスのセント・ピーターズ教会にメアリーとともに埋葬した。
彼女の死から1年後、息子夫妻はメアリーが始終手元に置いていた小さなライティング・デスクの鍵を開けた。すると、メアリーの日記とパーシーの作品『アドナイス(Adonais)』の1ページを切り取って作られた封筒を発見。なんと封筒の中には、パーシーの心臓が入っていた。メアリーはパーシーの心臓を奪った友人から、その心臓を譲り受け、絹の布に包み大切に保管していたのである。発見された心臓は、メアリーとその両親の墓に新たに埋葬された。
時代の先端を行く両親のもとに生まれ、自由奔放な詩人パーシーを情熱的に愛したメアリー・シェリー。小説『フランケンシュタイン』は、手に入れることのできなかった母からの愛、家族との距離から生まれた寂しさと孤独、次々と亡くなった親族や子供への想いを「怪物」の姿に投影した、メアリー自身の物語なのではないだろうか。
穏やかに過ごすことのなかったメアリーは、死後ようやく、父母と愛する夫、息子夫婦と一緒に静かな眠りについている。

メアリーが1846~51年まで暮らした、ロンドンの家。ここで息を引き取った。
24 Chester Square, London SW1W 9H
5分で読める!

「フランケンシュタイン」ってどんな話?

1831年に出版された『フランケンシュタイン』(改訂版)の挿絵。ヴィクター(右端)が逃げ出す場面。
■フランケンシュタインといえば「死体をつなぎ合わせて作られた人造人間」というイメージを思い浮かべるだろう。さらに、「怪物」=「フランケンシュタイン」と思っている人も多いようだが、実際には怪物をつくった科学者の名が「ヴィクター・フランケンシュタイン」であり、怪物に名前はない。ちなみに、パーシーが幼少時に使っていたペンネームが「ヴィクター」で、彼の姉の名は「エリザベス」。これは小説の中に登場するヴィクター・フランケンシュタインの義妹で、妻となる女性と同じ名前である。
北極へ向けて航海していたウォルトン船長は、氷上で青年を見つける。その青年は、科学者ヴィクター・フランケンシュタイン。激しく体力を消耗していたヴィクターを船長は船に招き入れ、手厚くもてなす。やがてヴィクターは身の上話をはじめる。
スイス・ジュネーヴの名家の出身であるヴィクターは、優しい両親のもとで育った。イタリアで出会った不遇な少女エリザベスを気に入った両親は、養女として迎え入れる。美しく気立てもよく成長したエリザベスをヴィクターは妻にしたいと考えるようになり、両親もそれを望んでいた。

1931年公開された、ボリス・カーロフ主演による映画「フランケンシュタイン」。怪物のイメージはこの映画が発端となり定着した。
一方、大学で自然科学を勉強していたヴィクターは、電流を通すと死体が動くことに着目。「死んだ生命を蘇らせたい」という野望に取り憑かれ、夜な夜な墓場から死体を集めては実験を繰り返した。ついに実験は成功するが、「人造人間」の醜い姿を見たヴィクターは激しい嫌悪感と罪悪感にさいなまれ、実験室を飛び出てしまう。翌日、実験室に戻ると怪物は姿を消していた。その後、ヴィクターの弟が殺害されたのをはじめ、身のまわりで次々と事件が起きる。ヴィクターは犯人が、人造人間であることを知る。
会いに来たヴィクターに、人造人間は語った。最初から人間に敵意を持っていたわけではなく、親しく付き合いたかったが、自分があまりにも醜いために人々に嫌われ迫害された。やがて自分を生み出したヴィクターを恨むようになり、復讐しようと考えたのだ。そして、ヴィクターに「自分とともに生きる女性の人造人間」を要求。それを拒否すると、人造人間はヴィクターにさらなる復讐を誓って姿を消した。
ヴィクターの結婚式の夜に人造人間が現れ、花嫁のエリザベスが殺されてしまう。悲嘆に暮れたヴィクターは、人造人間を殺すべく彼を追って北極に向かう。その途中で出会ったのが、ウォルトン船長だった。北へと向かう航路の途中で、船は氷山に閉じこめられヴィクターの体調は悪くなる一方だった。ある時、船長がヴィクターの様子を見に行くと、人造人間がヴィクターを殺した後だった。恐怖で硬直する船長に人造人間は「これで自分の目的は果たした。自分が死ねば人々から我々の記憶はなくなる」と言い残し、船から去って行った。

週刊ジャーニー No.1037(2018年5月31日)掲載