英国繁栄の礎を築いた強運王 ヘンリー8世
第二次世界大戦以降、「弟分」にあたる米国にトップの座を譲らざるをえなかった英国だが、かつては『日の沈まぬ国』と呼ばれ、世界をリードする大国として繁栄を謳歌していた。
この繁栄につながる転機のひとつとなったのは、カトリック教会からの決別だったといえよう。
その種をまいた、すなわち繁栄の礎の一角を築いたといえる人物、ヘンリー8世についてお届けする。

※本特集は2004年1月8日号の週刊ジャーニーに掲載したものを再編集してお届けしています。

● Great Britons ●取材・執筆・写真/本誌編集部

偉大なる王の条件

古今東西、偉大なる統治者の条件としてまず挙げられるのは「強運」であることだ。家柄が良いこと自体、すでに運が良くなければ叶えられぬことなのだが、たとえ王位継承権の順位があまり上位でなくとも、様々な出来事が重なった結果、即位して長く豊かな統治時代を築く、というパターンは多々見られる。英国王室に関していえば、エリザベス1世、ヴィクトリア女王、現女王陛下をはじめ、幼少のころは国家元首になるなど遠い夢、あるいは夢にも思わなかったケースも少なくない。
一見、「たまたま」即位したように思われる場合でも、それは運命という名の必然に導かれた結果であり、そうした運命は、強運と呼ばれるべきだろう。ヘンリー8世も、英国史において、強運を持つ統治者リストの上位にランクインすることは間違いない。本稿では、同王の強運ぶりを検証してみたい。

強運の証 その1
賢明なヘンリー7世の息子として誕生

チューダー朝を開いた王、ヘンリー7世。ヘンリー8世の父にあたる。
英国史では、ヘンリー7世ことヘンリー・チューダー(Henry Tudor 在位1485~1509年)はチューダー朝を開いた王として定義付けられている。ヘンリー・チューダーは、1455年から30年続いた「バラ戦争」の最中、いったんはフランスに亡命したが、1485年、ウェールズ経由で帰国を果たして進軍。ヨーク朝の最後の王、リチャード3世(在位1483~85年)をボズワースの戦いで戦死させ、その同じ戦場で電撃的に戴冠し、バラ戦争を終結させたのだった。
このバラ戦争は、名前のとおり、白バラを紋章の一部とするヨーク家と、赤バラを掲げるランカスター家の戦い。プランタジネット朝の第7代君主、エドワード3世(在位1327~77年)の三男からの血統を女子を経由して継承しているヨーク家は新興勢力(在野勢力)の代表格。対して、エドワード3世の四男の血統を引き継ぐランカスター家は、その支持者には古い家系の諸侯が多く、旧勢力(宮廷勢力)のもとじめ的存在。
かくして、白バラと赤バラの対決は、イングランドを二分する内乱として熾烈をきわめたのだった。
このバラ戦争が始まってまもなく、ランカスター朝(1399~1461年)は倒れ、ヨーク派のエドワード4世(在位1461~83年)が即位し、ヨーク朝がスタート。しかし、これも長くは続かず、わずか24年の後、チューダー朝にとってかわられてしまう。
チューダー家に幸運をよびこんだのは、ヘンリー・チューダーの祖父、オーウェン・チューダーだった。オーウェンは、ランカスター派のヘンリー5世(在位1413~22年)の未亡人であるキャサリンの後妻ならぬ「後夫」となり、ふたりの間にできた3人の男子のうち、長男がやはりランカスター派で、その中心的名門ボウフォート家の一人娘と結婚。そして生まれたのがヘンリー・チューダー(のちのヘンリー7世)である。このヘンリーは、即位後、ヨーク派のエドワード4世の娘との縁組を実行し、ランカスター派とヨーク派の和解に尽力した。
もともと、男子系の祖先がノルマン人でも、アングロ・サクソン人でもなく、ケルト系ウェールズ人という、異色のチューダー家出身であるヘンリー7世は、王家を名乗るには「血がいやしい」として軽蔑されることもあったとされ、ヨーク派の名門諸侯による陰謀・反乱の危機に常にさらされていたのである。
ヘンリー7世は、生真面目で君主としてきわめて有能だったという。商工業を奨励すると同時に、厳しく税をとりたて財政の立て直しに着手。また、星室庁(Star Chamber)裁判所を設置するなど、王権の強化をめざし、反対勢力の抑制に努めた。この賢明な王の跡を継ぐことは、恵まれたスタートラインを与えられたのと同じ。ヘンリー8世は父王に大いに感謝すべきだろう。

強運の証 その2
病弱な兄と対照的に文武に秀でたヘンリー

ヘンリー8世は、ヘンリー7世の次男として生まれた。もし、兄のアーサーが丈夫で、ある程度の統治能力ももちあわせていれば(無能な場合、王位から引きずり下ろされるのが普通)、生涯、「国王の弟」として終わっていた可能性もないとはいえない。しかし、これは論じても意味のない「もし」であろう。事実、アーサーは病弱で、即位することなくこの世を去ったのだ。
これに対し、ヘンリーは健康闊達、文武両道にわたり万能に近かった。ラテン語、フランス語、スペイン語などにも精通。乗馬、音楽、舞踏といったスポーツ・教養部門でも秀でた才能を示した。しかも、当時の基準でいうとハンサムで、体格にも恵まれていた。生まれながらにして、強運の遺伝子を有していたのである。
ヘンリーの最初の妻となったキャサリン・オブ・アラゴンは、兄アーサーの妻だった。キャサリンはスペイン国王フェルナンド5世の娘。まだ「二流国」に過ぎなかったイングランドにとって、大国スペインとの関係をより密接にするための政略結婚は必要不可欠なものだった。
キャサリンは16歳で、14歳のアーサーと結婚。しかし、そのわずか半年後にアーサーは病死、キャサリンは未亡人となってしまう。
当時、兄弟の妻と交わることは「姦淫」としてカトリックで禁じられていたが、8年後、ヴァチカン(教皇庁)からの赦免が得られ、ヘンリー7世の死去により即位したヘンリーとキャサリンの縁組が成立。ヘンリー、18歳の時のことだった。知性あふれるキャサリンは24歳という姉さん女房。政略結婚ではあったが、お互いに好意を抱いていたといわれ、結婚生活そのものはまずまずうまくいっていた。

強運の証 その3
第1の妻との間に男の世継ぎなし

左:ヘンリー8世の娘で、「ブラディ・メアリー」の異名を持つメアリー1世。
右:ヘンリー8世の息子で、9歳で即位したエドワード6世。15歳で病死し、王位はメアリー1世へ。
キャサリンは6人の子どもを出産したが、唯一生き残ったのは女子ひとり。これが後の「ブラディ・メアリー(Bloody Mary)」ことメアリー1世であるが、ヘンリー8世が切望した男子は、ひとりは生後数時間で、ひとりは数週間後に亡くなった。
英国では、女子による王位継承は否定されていなかったものの、女子が王位を継いだ場合、その夫(多くは国際結婚)、およびその背後にいる国家に干渉されることが大いに予想され、ヘンリー8世はそれを極端におそれ、男子の世継ぎにきわめて強いこだわりを見せていた。イングランドが国際社会で、他国の支配下に入ることなく生き残ることは、ヘンリー自身、および後継者の地位を保証することを意味する。自分のため、ひいては自国のため。ヘンリーが必死になるのも無理はなかった。
ヘンリーがキャサリンとの離婚を考えるようになったのは、彼女が42歳の時。キャサリン付きの女官のひとりであったアン・ブリンと恋に落ちたヘンリー8世が、カトリック教徒として破門されるよりアンとの恋を選んだと見る、ロマンチストも多いようだが、ヘンリー8世をつき動かしたのは、統治者としての危機感だったと見るほうが理屈にかなっているように思える。
ヘンリーには、愛人との間にできた男子もいたが、しょせんは庶子。婚外交渉により生まれた子どもに、正当な王位継承権は認められていなかった。なんとしても、健康な若い女性と結婚しなおす必要があったのだが、それは離婚を認めないカトリック、すなわちヴァチカンと正面から対立することを意味した。
そのころのヨーロッパはカトリック主体。イングランドも完全なカトリック教国だった。1519年、神聖ローマ帝国のマクシミリアン皇帝が死去したのをうけ、ハプスブルグ家の当主となったスペイン王カルロス1世がカール5世として即位。オーストリア、ドイツ、チェコ、オランダ、ベルギー、スペイン、イタリアの一部という、ヨーロッパ大陸の半分以上を領地として相続し、巨大帝国を統治下においたのだった。しかも、このカルロス1世(カール5世)はキャサリン・オブ・アラゴンの甥。
ヴァチカンとハプスブルグ家ににらまれては、当時の欧州では死刑を宣告されたも同然である。しかし、ヘンリー8世は、結果的に「宗教改革」への道を選ぶことになる。当初は、自殺行為ともとられただろうが、歴史を振り返ってみると、カトリックからの決別なくしてイングランドの真の繁栄はなかった。エリザベス1世が1588年にスペイン無敵艦隊を破り、本格的な世界貿易に乗り出すにいたって、それは初めて証明されるわけだが、キャサリン・オブ・アラゴンが健康な男子を生んでいたら、こうした展開にはなっていない。何が幸いするかわからないものだ。

離婚・熱愛・処刑…
ヘンリー8世と6人の妻たち

1番目の妻
キャサリン・オブ・アラゴン

後のメアリー1世の生母。ヘンリーは男児の世継を求めて離婚を決意。離婚問題によりカトリック教会と決別した。

2番目の妻
アン・ブリン

ヘンリーの猛アタックの末に結婚。後のエリザベス1世の生母。結婚から3年後、反逆罪で、ロンドン塔で処刑される。

3番目の妻
ジェーン・シーモア

アンの処刑から11日後に結婚。後のエドワード6世の生母。出産後の疲労と産褥熱により死去。

4番目の妻
アン・オブ・クリーヴズ

同盟相手を得るための政治的結婚。ヘンリーは肖像画を見て結婚を決めるが、実際は気に入らず、半年後に離婚した。

5番目の妻
キャサリン・ハワード

19歳のときに30歳上のヘンリーと結婚。奔放な性格で、王の目を盗み不貞を重ね、やがてロンドン塔で処刑された。

6番目の妻
キャサリン・パー

ますます気難しく、体が弱っていく晩年のヘンリーに尽くした良妻。4年弱の結婚生活の後、ヘンリーが崩御した。

強運の証 その4
宗教改革のおかげで財政ピンチも救われる

イングランドにおける「宗教改革」は、純然たる信仰上のものではなかった。政治的な色彩が濃く、国王と議会により進められたという点で、ヨーロッパ史上に登場する宗教改革とは異なっていた。
最初は、できればヴァチカンから破門されることなく、この離婚問題を解決したいと願ったヘンリー8世だったが、時の大法官、トーマス・ウルジー(Thomas Wolsey)による工作は不成功に終わり、ウルジーは失脚。かわって大法官となった、トーマス・モア(Thomas More)は、アン・ブリンとの結婚に反対の立場をとる道を選び、やはり大法官の地位を追われた。理想の世界をえがいた『ユートピア』を著したことでも知られる、このトーマス・モアは1535年、処刑されたのだった。
ここでもう2人のトーマスを紹介したい。1人は、ウルジー卿が失脚した後、事実上、ヘンリー8世の影の右腕として手腕をふるった、宮内長官トーマス・クロムウェル(Thomas Cromwell)。もう1人はカンタベリー大司教に新しく任命された、トーマス・クランマー(Thomas Cranmer)。この2人のトーマスは、ヴァチカンからの決別をためらうヘンリー8世の背中を押す役割を果たし、ついにヘンリーとキャサリン・オブ・アラゴンの結婚は無効であったという裁定をカンタベリーで下すに至らせ、1533年、ヘンリーとアンの結婚が成立した。
既にアンのおなかにはヘンリーの子が宿っており、この子を嫡子として認知させることが火急の業務だったのだ。
この結婚を可能にしたのが、国内の問題をカンタベリー大司教の法廷を飛び越して直接ヴァチカンに上告することを禁止した「上告禁止法」だった。これにより、イングランドはヴァチカンの干渉を受けずに、重大決定を行うことを宣言したのである。また、1534年には「国王至上法」が定められ、国王(または女王)を「イングランド国教会の地上における唯一最高の首長」とみなす、イングランド国教会(Church of England)が成立したのだった。これらの法が議会の承認を得たものである点も、英国の宗教改革の大きな特色だった。
ヘンリー8世もクランマーも、当然のごとくヴァチカンから破門された。しかし、もう後戻りはできない。ヘンリー8世はクロムウェルとともに、イングランド国内のカトリック勢力の弱体化に着手。英国内で大きな力を保持していた、200近い修道院をことごとく解散させ、それらが有していた土地や財産をすべて没収した。土地は即座に売却され、困窮していた国庫立てなおしに当てられたのだった。
強引かつ手荒なやりかたが、カトリックへの信仰心篤い有力貴族らの反感を買い、暴動も招いたものの、それを抑えつつ、改革は進められた。この間、基本的に国民はヘンリー8世を支持し続けた。教会・修道院は、イングランドの富の約3分の1を占有していたといわれており、イングランド国民は、さまざまな形でヴァチカン、すなわちローマ教皇から搾取されていたのだ。「外国人」による、こうした搾取は反カトリック(教会)感情、そしてナショナリズム(愛国主義)を育てる結果となり、ヘンリー8世が男子の世継ぎほしさで進めた改革ではあったが、イングランド国民の利害と一致していたのである。

強運の証 その5
後継者は、やはり強運のエリザベス1世

第1子は女子(後のエリザベス1世)、第2子は男子だったものの死産に終わったアン・ブリンは、わずか1000日で王妃の座を追われ不貞の罪(この罪は「でっちあげ」と言われる)で処刑された。
3人目の妻、ジェーン・シーモアは、1537年、後のエドワード6世となる待望の男子を出産。しかし、産後の肥立ちが悪く約2週間後に死去。4人目の妻は、ドイツのプロテスタント勢力の中で有力だったクリーヴズ公の娘、アン。1540年に結婚したものの、アンのことがよほど気に入らなかったのか、彼女に指一本ふれることなくわずか半年でこの結婚を無効とした。
同じ年、ヘンリーは30歳も下のキャサリン・ハワードを5人目の妻に迎えるが、無教養でまわりに良いアドバイザーもいなかったキャサリンは、おろかにも不貞を重ね、1542年、ロンドン塔で処刑された。その18ヵ月後の1543年、ヘンリーはキャサリン・パーと結婚。既に2人の夫と死別していたキャサリンにとっては3度目の結婚だった。キャサリンはよくできた女性で、ヘンリーは55歳で亡くなるまでの4年間、比較的心穏やかに過ごしたようである。とはいえ、1536年ごろにかかったとされる梅毒のためか気が変わるのが早く、朝令暮改は日常茶飯時、不興をかった宮廷人は容赦なく処刑されるなど、「暴君」のレッテルを決定的なものにするに値する挙動をヘンリー8世は繰り広げた。
巨食のため晩年には130キロほどにもなっており、静脈瘤のできた足ではとても支えきれるものではなく、どこにいくのも、4人がかりでかつぐ輿に乗らざるを得なかった。また、肉中心で野菜を嫌う食事内容は動脈硬化などを招いていたといわれる。また、55歳は、当時の世界では十分長寿で、老衰も進んでいたようである。
やや病弱な嫡男エドワードの身を案じつつ、キャサリンらにみとられてヘンリー8世がホワイトホール宮殿で息をひきとったのは、1547年1月28日のことだった。

メアリー1世の跡を継ぎ女王に即位したエリザベス1世。チューダー朝の黄金時代を築いた。ヘンリー8世とアン・ブリンの娘。
ヘンリーは38年の統治期間中に、イングランド国教会の首長となり、反対勢力である諸侯を抑え絶対王政の強化に尽力したほか、アイルランド支配を本格化させ「アイルランド国王」を名乗り、常設の郵便制度の基礎をつくり、海軍力アップに投資するなど、精力的に動いた。
こうした「種」は、エドワード6世(在位1547~53年)、9日間のみ在位し処刑された悲劇の女王レディ・ジェーン・グレー、カトリック教徒でスペイン王フェリペ2世と結婚し、プロテスタント教徒を数多く殺害したため「ブラディ・メアリー」と呼ばれたメアリー1世(在位1553~58年)などの、「寄り道」を経て、1558年に即位した、エリザベス1世へと引き継がれるのである。
45年間の在位中に、絶対王制をさらに強化しようと努めたエリザベス1世も、強運の人。男子の跡継ぎを熱望したヘンリー8世の強運の遺伝子を受け継いだのが女性であったことは、皮肉なことだったと言えそうだ。しかし、後継者に恵まれたといえるヘンリーは、この世を去ってなお強運だったと思わずにはいられない。

ヘンリー8世の建築愛

「超」がつくほどの建築物好きだったヘンリー8世。即位時、王室所有の宮殿やハンティング・ロッジは12にすぎなかったが、亡くなった時点で55を数えたという。

トーマス・ウルジー卿の失脚にともないヘンリー8世が没収した、ロンドン近郊サリーにあるハンプトン・コート宮殿。

ハートフォードシャーのハットフィールド・ハウス。狩猟で訪れたヘンリー8世が気に入り王室用に購入した。

週刊ジャーニー No.1028(2018年3月29日)掲載