野田秀樹新作舞台 NODA•MAP「正三角関係」世界配信決定
野田秀樹新作舞台 NODA•MAP「正三角関係」世界配信決定

Anyway the wind blows...フレディ・マーキュリー [Freddie Mercury]
ブリティッシュ・ロック・バンド、クイーンのリード・ヴォーカルとして圧倒的なパワーでファンを惹きつけ続けたフレディ・マーキュリー。
エイズによる、その衝撃的な死は、悲劇のロック・スターの印象を強くした。
しかし、その死後、彼が大切にした人々により、ミステリアスだった彼の生き様は、広く語られるようになる。
彼がどれほど愛すべき人物で、いかに人生を謳歌したかということも。

Special Thanks to: Phil Symes, Richard Gray

●Great Britons●取材・執筆/内園 香奈枝・本誌編集部

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アフリカ・ザンジバル島での超お坊ちゃん時代

フレディ・マーキュリーの顔を初めて見た時、「この人がクイーンのヴォーカル?」と、驚いた経験がある人は少なくないのではないか。あの何ともエキゾチックな顔立ちは、一体どこからきたのだろう。
1946年9月5日、アフリカの東海岸にある、当時英国保護領だったザンジバル島(現タンザニア領)で、ファルーク・バルサラ(英語での発音はブルサラに近い)は生まれる。父親のボミは英国政府の役人だったが、もともと資産家の家系。ファルーク(後のフレディ・マーキュリー)は、使用人が一日中世話を焼いてくれるような、良家のお坊ちゃんとして育った。
彼の両親はインド系英国人で、日本人にはあまり聞きなれない「パールシー」だ。パールシーとは、8世紀にゾロアスター教からイスラム教への改宗を拒んでペルシャ(イランの旧称、今はイスラム教を広く信仰)からインドに移った教徒のことで、裕福な人々が多く、インド語で「ペルシャ」を意味する。また、「ゾロアスター教」というこちらも珍しい宗教は、紀元前600年頃に古代アーリア人が生み出したもので、他の宗教と違う大きな特徴として「Life is a celebration.(人生は祝祭)」と考えることが挙げられるという。これは「退屈」を何より嫌い、楽しむ事を求め続けたフレディの生き方そのもののようだ。
彼のファルークという名前は、当時、ゾロアスター教の人々の間で流行の名前だった。彼はとても両親や妹を大切にし、クイーンとしてスターダムへ登りつめても、母親の誕生日にはいつも家に駆けつけたり、家族にまめにカードを送ったりしていた。彼が両親らの愛情をいっぱいに受けて育ったことは想像に難くない。
ザンジバル島は海に囲まれた、美しい、のどかな場所だ。ただ、船で2ヵ月遅れで届く欧州の雑誌の話題がニュースになる、といった環境は、ファルークのような好奇心旺盛な子どもには、物足りない所でもあった。
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15歳で初バンド結成

インドの寄宿学校時代のバンド「ザ・ヘクティックス」のメンバーと。もちろん真ん中がフレディ少年。かなり面影がある。
Courtesy Mrs Bulsara
ファルーク少年がまだ8歳と幼い頃、父親がインドに異動になったのだが、そこには適当な学校がなく、彼は一人ボンベイ(現ムンバイ)にある寄宿舎学校、「セント・ピーターズ・スクール」に通うことになる。インドがかつて英国の植民地だったこともあり、学校は権威主義で規律正しい、伝統的な英国風の教育方針を打ち出していた。この頃から、ファルークではなく英語式に「フレデリック」、転じて「フレディ」と呼ばれるようになる。
彼の得意科目はスポーツ、美術、そしてやはり音楽。彼の作曲ツールのメインとなるピアノも8歳ごろから始めた。さらに、15歳の頃、学友たちと一緒に「ザ・ヘクティックス」という、生涯初のバンドも結成。ヘクティック(Hectic=熱病、てんやわんやの)という名前は、ピアノ・ボーカル担当のフレディの演奏スタイルからきている、ということなので、この頃から彼の大げさなステージ・パフォーマンスはすでに確立されていたのだろう。メロディアスな音楽を奏でる「ザ・ヘクティックス」は、学校でも大人気だった。
興味深いことに、この学校に彼は初恋で片思いの「女の子」がいたということだ。しかし、男の子に対し、女の子でも使わない「ダーリン」と呼びかけ美術の先生を驚かせていたそうだから、ゲイ(ホモセクシャル)嗜好は、この頃からあったのかもしれない。ちなみに、彼は男女問わず「一緒にいたい人間といる」というスタイルのバイセクシャルであった。
しかし、1962年にカレッジの進級試験に落ちて、落第。フレディはザンジバル島に戻ることになる。

「クイーン」結成と、「マーキュリー」への変身

写真左:4歳のファルーク。着ているものからもお坊ちゃんとして育った、育ちのいい彼が見て取れる。
写真右:母親のジャーに抱かれる、生後7ヵ月のファルーク。愛らしい笑顔が何とも印象的。赤ちゃんの頃からカメラの前でポーズをとるのが大好きだったとか。
By Bomi Bulsara, courtesy Mrs Bulsara
1964年、ザンジバル革命が起こり、ザンジバルとタンガニーカが合併、タンザニア連合共和国となる。そんな国内の混乱から逃れるため、バルサラ一家はザンジバル島から、英国、フェルサムへの移住に踏み切った。
それまでの使用人付きの裕福な暮らしから一変、バルサラ家は中流家庭の暮らしを始めることになる。そんな暮らしぶりであっても、ザンジバル島よりずっと刺激的な英国に来られたことをフレディは喜んだ。しかし、非白色人種として、差別されることを経験したのも事実。後に、世界的に認められるために、西洋的な名前に変えるが、これはその影響もあったと思われる。
フレディは、イラストレーターを目指し、イーリング・アート・カレッジでグラフィック・デザインを学んだ。この頃、ジミ・ヘンドリックスに憧れ、いくつかバンドも組んでいる。
そんなある日、フレディは「スマイル」という3人組のバンドに出会う。ボーカルは同じカレッジの友人ティム・スタッフェル、そして、後のクイーンのメンバーとなるインペリアル・カレッジで天文学を学んでいたギタリストのブライアン・メイ、そしてロンドン・ホスピタル・メディカル・カレッジで歯科医を目指していたドラムのロジャー・テイラー。
彼らのファンだったフレディは、しょっちゅう彼らのライブを見に行っては、「音楽性はいいのに、ビジュアル面の見せ方が悪い」など、あれこれ口を挟んでいた。音楽の方向性の違いから、ボーカルのティムが脱退となった時、ティムの推薦もあり、1970年、運命的にもフレディが後任のボーカルとなる。

初期のクイーンの曲は層の厚いコーラスや、多重録音などを駆使した凝ったつくりのものが多かったため、ライブでの演奏が難しかった。フレディがライブ映えする太い声を身につけ、ライブ・バンドとして評価されるのは後期になってからだったが、舞台装置やパフォーマンスでは多くの人を惹きつけ、驚かせた。
By Douglas Puddifoot, © Queen Productions Ltd
その後、バンドの名前を決めるミーティングが開かれる。そこでフレディが推したのが、男のバンドなのに「クイーン」。もちろん、ほかの2人は、クイーンという言葉には「男のゲイ」という意味もあるため嫌がったが、フレディは「威厳があって、シンプルで響きがよく、世界中の誰でもわかる、華麗な名前」ということを強調。この頃から、フレディには、「音楽で絶対に成功し、ナンバー・ワンのバンドになる」という並々ならぬ決意があったのだ。
また、「マーキュリー」という名前も、乙女座の彼の占星術における上昇星、水星からきている。パールシー的な「バルサラ」という姓からこの西洋的な名前を芸名とする時、身内への後ろめたさもあったのか、母親に相談したそうだ。母親は「家族のことを変わらず愛してくれれば、それでいい」と答えたという。
それはフレディの「変身」の第一歩だった。ステージ外で見せる、シャイな一面や素顔を見事に封じ、彼は「フレディ・マーキュリー」という、大勢の観客を楽しませる雄雄しいロック・スターを、自ら演出し、見事に演じていくことになる。
幾重にわたるオーディションを経て、チェルシー・カレッジで電子工学を学んでいたベースのジョン・ディーコンが加わり「クイーン」の4人がそろう。
フレディは後に、この4人の誰一人が欠けてもクイーンは成功しなかった、と語っている。クイーンは、フレディが死ぬまで、解散もメンバー交代もなく、20年以上活動し、レコード・セールス2億枚を超える世界的なロック・バンドへと成長した。(下記コラム『インテリ4人の奇跡!』参照)

生涯愛した、一人の女性

また、そのミーティングの場所で、フレディが生涯愛し、彼の人生の中で欠かせない女性となった、メアリー・オースティンと出会っている。
彼女はケンジントンの「ビバ」という人気ブティックで働いていた。フレディやブライアンも、美人ぞろいで有名なそこの店員たちを見るのが楽しみでよく通っていたそうだ。ブライアンはインペリアル・カレッジのライブでメアリーに出会っており、フレディが彼女を好きなことが分かったので、紹介したという。
だが、始めの半年間は、彼が店に行き、「やあ」と挨拶をする程度。こういうところでは、シャイだったようだ。その後やっとフレディが彼女をデートに誘う。彼らは惹かれあい、深く愛し合った。後に、6年という月日を共に暮らし、フレディも彼女のことを内縁の妻だと紹介していたという。

デビュー前から最期までフレディを支え続けたメアリー・オースティン。ブロンドの髪に、青い瞳、白い肌で小顔の美しい女性だ。
© Richard Young / Rex Features
しかし、その後2人の恋愛関係は終わりを告げることになる。フレディがゲイであることを公表(カミングアウト)したためだ。
だが、彼らの絆はそれで終わることはなく、より深く結ばれるようになる。フレディはメアリーを仕事のパートナーとして雇い、特に彼女には最大の信頼をおいて財政面をまかせた。
フレディにとってメアリーは、心を開いて話ができ、一緒にいて幸せを感じられる最高の親友となった。また、彼女も彼がゲイだと分かっても、それを彼の一部として受け入れ、仕事のパートナーとしてだけでなく、親友としても彼の信頼を決して裏切ることなく、彼を思いやり、理解した。その絆はフレディの最期まで絶えることはなかった。
後にメアリーは他の男性と結婚し、子どもも生まれる。フレディはそれをとても祝福し、喜んだという。「自分が先に逝くようなことがあれば、財産のほとんどは彼女に渡したい」とも語っていた。
実際、フレディが、ハリウッド映画に出てくるような贅沢な装飾を施した高価な家が欲しくて買ったという、ロンドン、アールズ・コートにある全28室の大豪邸(通称・ガーデン・ロッジ)は、彼の死後、メアリーに託され、今も彼女が家族とともに暮らしている。

シングル化を大反対された「ボヘミアン・ラプソディ」

クイーン結成から3年後、彼らはやっとデビューにこぎつけた。しかし、ファースト・アルバムやセカンド・アルバムは、売り上げはそこそこだったものの、英国の音楽評論家からは、「バケツいっぱいの小便」「彼らが成功したら、私は帽子でも何でも食おう」など酷評の嵐。フレディはすっかりマスコミ嫌いになってしまう。
しかし、そんな中、彼らを大歓声で迎えた国がある。日本だ。彼らが初来日した1975年、英国から来た貴公子たちに、日本人女性の心はすっかり奪われてしまった。初来日ライブは、黄色い声、もみくちゃ、失神者続出…。これには本人たちも驚き、とても感激したという話は有名だ。それまでよく知らなかった極東の地、日本を、彼ら、特にフレディは大いにひいきするようになる(下記コラム『フレディの「心の友」ニッポン』参照)。
そんな彼らを世界的なスターに押し上げたのは、フレディの多様な音楽性が現れ、バラード、オペラ、ロックが一体となった大曲「ボヘミアン・ラプソディ」だった。3分台という曲が主流だった時代に、5分55秒という長さは衝撃的で、プロダクションはシングル化に大反対。しかし、メンバーは「面白い曲だからリリースしたい」と言い張った。大ヒットするか、全く売れないか、それは賭けだったのだ。
結果的には「全英チャート9週連続1位」と見事に大ヒット。当時は新曲を出すと、人気番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」などの音楽TV番組に出演する、というプロモーション法が定番であった。しかし、当時ツアーで出演ができない代わりとして作られた、「ボヘミアン・ラプソディ」のビデオは、事実上世界初のプロモーション・ビデオとなっている。ちなみに、暗闇から4人のメンバーの顔が浮かび上がるコンセプトは、セカンド・アルバムのジャケット写真を再現したものだ(下記年表参照)。
その後も、パンク旋風が吹き荒れる中、方向転換を図りながら、「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」などのヒット曲を連発。1980年のクイーン9作目のアルバム「ザ・ゲーム」は、全米で初の1位に輝き、彼らの最高の売り上げを記録する。
クイーンは、10年前の結成当初にフレディが決意した通り、世界に名だたる怪物バンドへと育ったのだ。

フレディー・マーキュリー年表

1946 年 0歳 9月、アフリカのザンジバル島(現タンザニア領)で生まれる
1964 年 18 歳 1 月、ザンジバル革命。バルサラ家は英国に移住
1970 年 24 歳 4月、クイーン結成。このころ生涯の親友、メアリー・オースティンと出会う
1973 年 27 歳 7月、クイーン・デビュー・アルバム「Queen/戦慄の王女」発売。英国では酷評される
1974 年 28 歳 3月、2nd アルバム「QueenⅡ/クイーンⅡ」発売。英国で初のトップ10 入り。ジャケットは「Bohemian Rhapsody/ボヘミアン・ラプソディ」のプロモーション・ビデオにも再現された、暗闇の中で浮かび上がる4 人の顔【写真①】
11月、3rdアルバム「Sheer Heart Attack/シアー・ハート・アタック」発売。英最高位2 位
1975 年 29 歳 4 月、初来日、7都市8公演
10月、「Bohemian Rhapsody/ボヘミアン・ラプソディ(フレディ作)」発売。英チャート9週連続1位
11月、4thアルバム「A Night At The Opera/オペラ座の夜」発売。英1位に輝く。「Bohemian Rhapsody/ボヘミアン・ラプソディ」収録【写真②】
1976 年 30 歳 12 月、5th アルバム「A Day At The Races/華麗なるレース」発売。「Somebody To Love/愛にすべてを」「Teo Torriatte(Let Us Cling Together/手をとりあって(ブライアン作)」収録。日本でも1 位に
1977 年 31 歳 10 月、6th アルバム「News Of The World/世界に捧ぐ」発売。「We Will Rock You/ウィ・ウィル・ロック・ユー(ブライアン作)」「We Are The Champions/伝説のチャンピオン(フレディ作)」収録
1978 年 32 歳 11 月、7th アルバム「Jazz/ジャズ」発売。「Don't Stop Me Now(フレディ作)」収録
1979 年 33 歳 6 月、8th アルバムで、初のライブ・アルバム「Live Killers/ライブ・キラーズ」発売
1980 年 34 歳 6 月、9th アルバム「The Game/ザ・ゲーム」発売、全米でも初の1位を獲得し、最高売上を記録。主夫実践中だったジョン・レノンがこの曲に刺激され曲作りを再開したという逸話も残る「Crazy Little Thing Called Love/愛という名の欲望(フレディ作)」や、「Another One Bites the Dust/地獄へ道づれ(ジョン作)」収録
12月、10th アルバムで、初のサウンドトラック・アルバム「Flash Gordon /フラッシュ・ゴードン」発売
1981 年 35 歳 11 月、11th アルバムで、初のベスト・アルバム「Greatest Hits/グレイテスト・ヒッツ」発売。現在、英国で最も売れたアルバムという記録を持つ【写真③】
1982 年 36 歳 5月、12th アルバム「Hot Space /ホット・スペース」発売。商業的には失敗。
10月、5度目の来日。クイーンの活動の半年間休止を宣言
1984 年 38 歳 2月、13th アルバム「The Works /ザ・ワークス」発売。「Radio Ga Ga/RADIO GA GA(ロジャー作)」収録
1985 年 39 歳 4月、フレディの初ソロ・アルバム「Mr. Bad Guy(Mr.バッド・ガイ)」発売。売上げは16万枚で、大ヒットには至らず【写真④】
5月、6度目、最後の日本公演。クイーン解散の危機
7月、ウェンブリー・スタジアムで「ライブ・エイド」に出演
1986 年 40 歳 6月、14th アルバム「A Kind Of Magic /カインド・オブ・マジック」発売
6月、英・欧州で、最大にて最後となった「マジック・ツアー」公演
12月、15th アルバム「Live Magic /ライブ・マジック」発売
1987 年 41 歳 フレディ、エイズ感染を知る
1988 年 42 歳 10月、憧れのオペラ歌手、モンセラ・カバリエとのアルバム「Barcelona/バルセロナ」発売【写真⑤】
1989 年 43 歳 5月、16th アルバム「The Miracle/ザ・ミラクル」発売
1991 年 45 歳 2月、17th アルバム「Innuendo/イニュエンドウ」発売。「The Show Must Go On/ショウ・マスト・ゴー・オン」収録【写真⑥】
10月、18th アルバムで、2枚目のベスト・アルバム「Greatest Hits Ⅱ/グレイテスト・ヒッツVol.2」発売
11月、死の前日に、自身のエイズ感染を公表し、翌日ロンドンの自宅で死去
1992 年   4月、ウェンブリー・スタジアムで「フレディ・マーキュリー 追悼コンサート」開催
5月、19th アルバム、ライブ・アルバム「Queen Live At Wembley '86/クイーン・ライヴ!! ウェンブリー1986」発売
1995 年   11月、フレディが生前に残した音源をもとに、20th アルバム「Made in Heaven/メイド・イン・ヘブン」発売【写真⑦】

奔放なゲイ・ライフ

1980年ごろのステージでのフレディ
By Neal Preston, © Queen Productions Ltd
この頃、フレディは前述の恋人、メアリーと別れ、ゲイの象徴であるかのような髭を生やしだす。スターの地位、富と名声は手に入れた。しかしその一方で、アルバムを出してはツアーを行うことの繰り返しや、プライベートにも介入し、相変わらず中傷記事を書くマスコミの存在など、心の疲弊も大きくなった。
そんな彼が解放されたのが、ニューヨークやミュンヘンの街。ゲイ・コミュニティが発達しており、お気に入りのゲイ・クラブもあった。しばらくそれらの街に住んだのは、税金逃れの理由もあったようだが、彼をスター扱いせず、ひとりの人間として接してくれるという環境がとても心地よかったからだ。
この80年代前半は特に、彼がゲイ・ライフを最も謳歌した時期だといえる。しかし、その頃はエイズやドラッグへの警告、セーフ・セックスという考え方はほどんどなかった。この時期にフレディがHIVに感染したことは間違いないだろう。
この頃、初のソロ・アルバム「Mr.バッドガイ」をリリースしたが、売り上げはクイーンのアルバムには及ばなかった。クイーンで良い意味で中和されていた彼の「アクの強さ」が強烈に出てしまったため、受け入れられにくかったのかもしれない。しかし、演奏がシンプルな分、彼の生き生きした声を堪能できる、彼らしいアルバムだ。

起死回生の「ライブ・エイド」

ブラック系の音楽を取り入れたアルバム「ザ・ゲーム」が最高の売上げを記録し、大成功したこともあり、1982年のクイーン12作目アルバム「ホットスペース」ではさらにダンス・ブラック色を濃厚にした。しかし、これが商業的に大失敗作となる。今でこそ時代を先取りしすぎただけで決して出来の悪い作品ではない、と擁護されているが、当時はブラック市場ではもちろん、重厚なクイーン・サウンドからかけ離れた内容に、ファンまでも興味を示さなかったのだ。やりすぎてしまうことが多い彼ららしい。精神的に疲れ果てた彼らは、半年間クイーンとしての活動を休止することを発表する。
1984年、クイーンらしい曲調に戻ったともいえる13作目アルバム「ザ・ワークス」で持ち直す。しかし、悪いことは続き、同年、アパルトヘイト政策が国際社会から激しく非難されていた南アフリカ共和国、サンシティで公演を行ったことで、国連のブラックリストにのり、英ミュージシャン組合から除名され(後に解除)、罰金を払わされるなど、散々なバッシングにあう。
デビューから10年以上同じメンバーでやってきて、印税の配分など、メンバー内の不協和音も聞かれるようになってきた。4人は、1985年5月の日本公演を最後に、「解散」をほぼ決めていた。
しかし、神は彼らを引き離さなかった。1985年7月13日にウェンブリー・スタジアムで行われた、アフリカ難民救済を目的とした、一大チャリティ・コンサート「ライブ・エイド」は、彼らの大きなターニング・ポイントになる。演奏時間は20分。解散寸前という状況もあり、最初はのり気でなかった彼らだが、世界中のツアー先を追いかけて説得した、主催者のボブ・ゲルドフの熱意に折れた。
あまりのどが強くなかったフレディは、この日ものどに炎症が認められ、医者に歌うのを止められていたという。しかし、そんなことは微塵も感じさせない、「ボヘミアン・ラプソディ」で、彼らのステージはスタート。次の曲「RADIO GA GA」では、クイーン・ファンだけではないスタジアムの8万人の観客が、同曲のビデオ・クリップ同様に両コブシを突き上げ、圧巻の手拍子を披露。さらに「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」と豪華ヒット・メドレー6曲を繰り広げた。

1985年7月の「ライヴ・エイド」にて。全8万人の観客をひとつにし、ライブ・バンドとしての格の違いを見せつけた。
By Neal Preston, © Queen Productions Ltd
8万人の観客、そして衛星同時生中継で80ヵ国以上、15億人もの人々が見守ったと言われるこの日、クイーンのショーは「出演者の中で、最も素晴らしかった」と絶賛される。
それは、意気消沈の彼らを大いに元気づけ、解散という危機からをもクイーンを救ったのである。

インテリ4人の奇跡!

By Terry O’Neill, © Queen Productions Ltd
バンドの顔として、キャッチーな魅力を振りまき、オペラなど多様な音楽性を取り入れたフレディ・マーキュリー。父親と一緒に暖炉の木から作ったギター、「レッド・スペシャル」を駆使する、ハード・ロック好きのブライアン・メイ。華やかなロックン・ローラー気質と、端正なルックスを持ち合わせるロジャー・テイラー。そして、クイーンの庶民派といった地味な存在ながら、抜群のビジネスセンスで経営面を引っ張ったジョン・ディーコン。独特の世界観を持つ「クイーン」は、この4人のバラバラの個性がぴったり合わさったことから生まれた「奇跡」だったと言えよう(写真は1970年代半ば、左からジョン、フレディ、ブライアン、ロジャー)。それぞれが大ヒット曲を書いていることも特筆すべき点だ。また、全員が学位もちのインテリ集団だった(ブライアンは2007年に天体物理学の博士号も取得)というのも、クイーンの曲に品のよさが感じられる一因かもしれない。

壮絶なラストスパート

1986年、「マジック・ツアー」でのフレディ
By Neal Preston, © Queen Productions Ltd
自信を取り戻し、その勢いでクイーンは14作目のアルバム「カインド・オブ・マジック」をリリース。その直後に英・ヨーロッパで行なわれた1986年の「マジック・ツアー」は、デビュー14年目にして、最大の、そして最も成功したツアーとなった。そして、これが4人での最後のツアーとなる。
そのツアー後は、おしのびで日本での1ヵ月にわたるショッピング三昧(下記コラム『フレディの「心の友」ニッポン』参照)、自分にピッタリの歌といってはばからなかったカバー曲「ザ・グレイト・プリテンダー」がソロ・シングルの中で最大のヒットになるなど、うれしいことが続く。
さらには、憧れのオペラ歌手、モンセラ・カバリエとのセッションも実現。1992年のバルセロナ・オリンピック開会式でも歌われた「バルセロナ」の歌詞には、彼が彼女に出会え、夢を叶えられた喜びがピュアに歌われていて感動的だ。ロック・スターと、オペラ会のディーヴァという異色の組み合わせは、1988年にはアルバム「バルセロナ」として結実、見事にその世界を融合した。このアルバムはフレディ自身、彼のキャリアの中でも最高のご褒美で、とても誇りに思うと語っている。

「バルセロナ」で競演したオペラ歌手、モンセラ・カバリエに、後ろから抱きしめられるフレディ。憧れのディーバに少し緊張しつつも、うれしそうな表情の彼が微笑ましい。彼女のことは、1983年にパバロッティの「仮面舞踏会」を観に行った時に初めて知り、その声のあまりの美しさに、フレディは口をポカンと開けたままになったという。
By Terry O’Neill, © Mercury Songs Ltd
しかし、1987年、モンセラとの競演が進行し始めていた頃、彼の身体に彼の人生においてもっとも悲劇的な事実が判明している。エイズ(HIVウイルスに感染し、免疫不全をおこした状態)を発症したのだった。彼は、メアリーや、彼の最後の恋人となり、当時「僕のハズバンド(たまにワイフ)」と紹介したジム・ハットンら、ごく近しい人だけに、それを打ち明けた。当時はエイズという病気の正体は現在ほど分かっていなかったが、彼の人生が確実に死に向かうであろうことは明らかだった。彼らはそれに一様にショックを受けたが、騒ぎ立てず、周囲にその事実を隠し通した。
フレディはジムに「別れてもいいよ」と告げた。しかし、彼らは別れることはなかった。数年後、お互い辛かったに違いないジムのHIV感染が判明しても、ジムは彼の元を離れることはなかった。世界的ロック・スターと、街の美容師(後にフレディの家の庭師)という一見変わったカップルであったが、6年間ともに暮らし、夫婦のような関係が最期までつづいたという。
自分のエイズ感染を知ったフレディは、それまで以上に仕事に打ち込み、プライベートでは、まだ空き部屋などがあった、「ガーデン・ロッジ」の装飾にも力を注ぐようになる。
1989年はほとんど、クイーン16作目のアルバム「ザ・ミラクル」を完成させるため、ロンドンと、スイスのモントルーのスタジオを行き来して過ごした。この頃はまだ、メンバーにエイズの事実を知らせていなかったとされるが、日に日にやせ細っていく彼の異変にメンバーも気づいていたはずだ。それまで個人名だった作曲クレジットも、印税の配分についてのもめごとをさけるために、すべて「クイーン」に統一され、4人の団結が強まったアルバムとなる。
しかし、当時の決して健康そうには見えないフレディの様子などから、フレディの健康状態に関して、マスコミで様々な報道がなされていた。「エイズでは?」という憶測もかなりあったが、その事実を知る人々はマスコミに対して、それを否定し続けた。この頃の彼は、人前で会うときには、病状を隠すため、かなり厚いメイクをして出て行っていた。
そして1991年2月には、彼の生前では最後となるクイーン17作目のアルバム「イニュエンドウ」をリリースし、英チャート1位に輝く。そこでのフレディの歌声は「ショウ・マスト・ゴー・オン」でも聴かれるように、この世のものとは思えないような、荘厳さや美しさに満ちた絶唱だ。愛猫「デライラ」への曲も歌っている。猫をとてもかわいがり、生涯を通じてたくさんの猫を飼ったフレディは、闘病中も寝室の大きなベッドの上で愛する猫たちに囲まれて過ごしていたという。この頃の彼は本当に弱りきっていたが、それでもシングルのリリースの度に力を振り絞り、ビデオを撮影した

フレディの「心の友」 ニッポン

お忍び来日での散財…数百万ポンド!

ショッパホリックだったフレディ。特に、日本画や骨董品が大好きな彼は、全6回の来日公演の度に、たっぷりショッピングをして帰っていた。最もすごかったのは、1986年にプライベートで来日した時。歌川広重の浮世絵、人間国宝の漆塗りの作品、伊万里焼、薩摩焼、アンティークの着物スタンド、屏風、刀、電化製品、そして火鉢30個などをお買い上げしていったそうだ。一時間もたたないうちに25万ポンド、はたまた100万ポンドを使った時もあったという。

日本のファンへのラブソング

クイーン5作目のアルバム「華麗なるレース」は、日本のファンに贈った曲、「手をとりあって」を収録。「♪手をとりあって このまま行こう 愛する女(ひと)よ 静かな宵に 光を燈し 愛しき教えを抱き」というロマンチックな日本語のサビは、日本のファンをとても喜ばせ、アルバムもチャート1位を記録した。
さらに、フレディとモンセラ・カバリエのアルバム「バルセロナ」には、「ラ・ジャポネーゼ(La Japonaise)」(スペイン語で日本人)を収録、随所に日本語が使われているが、一番の聴き所は、フレディが完璧な発音で歌う「♪朝が微笑みかける いつも君だけは 心の友~」という部分。歌詞カードにのっていないこのメッセージが聴けるのは、日本人の特権だ。

最も愛した家に 日本間、日本庭園

フレディが手塩にかけて、装飾した家「ガーデン・ロッジ」。そこには、日本間や、日本庭園もあるのだという。庭にはフレディが好きだったというツツジと、竹が植えられ、滝、錦鯉の泳ぐ池、茶室、石灯籠まで作られた。彼が来日時たくさん買いこんでいった日本のものも、彼の家を彩っていったことだろう。日本が彼を幸せにした一つだったというのは、誇らしいことである。

エイズ感染の公表―そして死

彼は1991年、スイス・モントルーに家を買う。美しい湖と街が見渡せる静かな家だったが、彼が訪れることができたのは3回だけだった。最後に訪れたのは10月末。この時、彼は治療をやめて、死ぬ決心をする。だが、彼の死のほんの1週間前まで、彼は奇跡的な体力で、家族や友人と会っていたという。
11月23日、フレディは自分のエイズ感染に関する声明を公に発表する。瞬く間にそのニュースは世界中に広まった。それまで彼が公表しなかったのは、彼がともに暮らした仲間や、家族、友人たちに対する気持ちからだったという。当時のエイズへのイメージや特性により、大衆から眉をひそめられたり、根掘り葉掘り詮索されたりすることから、愛する人々を守りたかったのである。
その翌日、11月24日、フレディ・マーキュリー永眠。享年45という若さだった。彼が息を引き取ったのは、ジムたちがフレディを着替えさせようと抱きかかえた時であったという。愛する人たちの腕の中で、彼は最期を迎えたのだ。彼の左手の薬指には、ジムとのウェディングリングが灰になるまではめられていたという。死因はエイズの合併症、「ニューモシスチス肺炎(カリニ肺炎)」だった。

今もなお生き続けるフレディの音楽

1980年代後期、アルバム「ザ・ミラクル」リリース時のクイーン。フレディ(一番右)は、この時すでに自分のエイズ感染を知っていたが、最後まで、音楽への情熱とユーモアを失うことはなかった。
By Simon Fowler, © Queen Productions Ltd
1995年には、死の間際まで音楽のアイデアを持ち続けたフレディが残した音源を元に、残された3人のメンバーがクイーン20作目アルバム「メイド・イン・ヘブン」を発表する。
フレディの死後も、彼とクイーンへの賞賛は高まるばかりだ。
2002年には、「ボヘミアン・ラプソディ」がジョン・レノンの「イマジン」などを押さえ、ギネスブック認定の「英国で最も愛されるシングル」の一位に選ばれた。また、クイーンのベスト・アルバム「グレイテスト・ヒッツ」の「英国で一番売れたアルバム」という記録は、未だに破られていない。
日本でも、2004年木村拓哉が主演し、クイーンの曲が数々使われたフジテレビ系月九ドラマ「プライド」をきっかけに、日本限定のクイーンのベスト・アルバム「JEWELS」が、170万枚以上を売り上げる大ヒットを達成。これにより、クイーン再ブームが訪れた。
スポーツシーンで「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」は定番曲と化す。2005年、08年に行われたクイーン+ポール・ロジャースのライブでも、「ボヘミアン・ラプソディ」の演奏中、フレディの歌う姿が映し出された時には、会場は大歓声と大合唱に包まれた。
彼は、今もなお私たちの元に、色あせることのない歌を届け、時に慰め、励まし、元気をくれる。
時にはやりすぎとされることもあったが、フレディは愛する音楽と、人生を、楽しみ抜いた。悔いなく生きるということにおいて言えば、これは何より幸せなことではないだろうか。短い生涯ではあったが、愛する人や大切な仲間たちと出会い、エネルギーを思いっきり発散させながらまっとうしたのだから。
「退屈」を何より嫌った彼は、死後も私たちを飽きさせることなく、とことん楽しませてくれる、生粋のエンターテイナーなのである。きっと、これからもずっと。

週刊ジャーニー No.572(2009年4月30日)掲載