『高慢と偏見』や『分別と多感』など、その著作が恋愛バイブルとまで呼ばれることもあるジェーン・オースティン。
しかし、これらの作品には実は女性の意識変革への強い思いがこめられていたとも感じられる。
女性にとって裕福な男性との結婚が至上命令だった18世紀から19世紀にかけての英国に生きたこの女流作家の素顔に迫りたい。
しかし、これらの作品には実は女性の意識変革への強い思いがこめられていたとも感じられる。
女性にとって裕福な男性との結婚が至上命令だった18世紀から19世紀にかけての英国に生きたこの女流作家の素顔に迫りたい。
●Great Britons●取材・執筆/山口 由香里・本誌編集部
漱石が絶賛した文才
「ジェーン・オースティンは写実の泰斗1※なり。平凡にして活躍せる文学を草して技神に入るの点において、優に鬚眉2※の大家を凌ぐ」(『文学論』夏目漱石)
1※たいと:大家
2※しゅび:髭と眉が揃っているの意で男子のこと
ロンドンで留学生活を送った明治の文豪、夏目漱石。この漱石に最大級の賛辞を送られたジェーン・オースティンが活躍したのは、漱石がロンドンを訪れた時期からさかのぼること約100年前の19世紀前半だった。そのまた約100年後の今、本はもちろん、それを原作とした映画やドラマでも、世界中の人に最も親しまれている英作家の一人となっていることは周知のとおりだ。
オースティン原作のドラマや映画をご覧になっていない方でも、メガ・ヒットとなった『ブリジット・ジョーンズの日記』はご存知だろう。米女優のレニー・ゼルウィガーが、それぞれに魅力的な硬派のダーシーと軟派なダニエルの間で揺れる、主人公のブリジットをユーモラスに演じたものだが、この映画のダーシーはその名前の示す通り『高慢と偏見』のダーシーが元になったもの。
この役に扮しているのは、BBCドラマ『高慢と偏見』でもダーシー役を演じ、世の多くの女性たちのハートを射止め話題となった英俳優コリン・ファース(オースティンの生涯とその主要作品をDVDで楽しみたい!のDVD欄参照)だ。この『ブリジット…』には、他にも『高慢と偏見』の設定や台詞があちらこちらで使われている。
『高慢と偏見』のパロディのような『ブリジット…』は現代のラブコメだが、恋と結婚に悩み、誤解やすれ違いを繰り返しながらも、最後には「ミスター・ライト(Mr Right)」と結ばれる女性の話ということでは、他の主要作品と同様といえる。
ジェーン・オースティンの作品は、今も多くの女性を虜にしてやまず、恋愛小説の大家といって間違いないだろう。ただ、オースティンを評価しない人々がいるのも確かで、その理由は、彼女の作品を恋愛小説としかとらえていないからのようだ。しかし、本当に「ただの」恋愛小説なのだろうか。
心理描写の走りともされるオースティン作品は、まさに「平凡にして活躍せる文学」。決して品のないものには落とさずに、日常生活の中での男女間の微妙かつ複雑、そして時には緊張をともなう関係を描く巧みさはそれまでの作家にはなかったもの。現代的な小説の形を初めて作りあげた作家と言われる所以だ。
また、女性の役割が今とは比べものにならないほど断固として決められていた時代にあって、オースティン作品のヒロインたちがしばしば見せる強さに、後世の女性運動家たちが試みることになる意識改革の「あけぼの」とも呼べるものを感じるといってはいい過ぎだろうか。
この点についてさらに述べる前に、日常にドラマを見出す鋭いオースティンの目を培った、その実人生をまずは見てみることにしよう。
結婚は生涯の幸福をかけた一大事
ジェーン・オースティンが使ったとされている、小さなライティング・テーブルと木のイス=写真提供:チョートンのJane Austen's House Museum
ジェーン・オースティンはハンプシャーのスティーヴントンに、牧師の家の娘として1775年12月16日に誕生した。アメリカ独立戦争が起こった年で、まもなくフランス革命、そして英仏戦争、国内では産業革命が始まるという激動の時代だった。だが、表立ったことをするのは男性に限られた時代でもあり、海軍でナポレオン軍と戦った兄たちと違い、ジェーン本人は生涯、あまり変わることのない生活を続けた。
ジェーンは8人きょうだいの七番目、次女だった。仲の良い家族で、8人きょうだいの中にあって、女の子は2人ということもあり、2つ違いの姉カサンドラとは特に結びつきが強かった。
内気な子供であったとも伝えられているが、年頃になったジェーンはダンスの名手として踊りの機会を楽しみにするようになる。当時のダンス会場は娯楽の場であると同時に、若い男女が異性と出会う、お見合い会場のような役割も果たしていた。と言っても、相手の踊る姿にポーっとするような甘いものではなかったようだ。
その頃の女性にとって唯一のキャリアとなるのが結婚。文字通り永久就職で、家柄や経済力は結婚相手を探す際に切実な基準となるものだった。
それには、当時の法律や家督相続制度も関わっている。
ジェーンの姉、カサンドラの横顔のシルエット。
後の産業革命により変わっていくものの、その時代の財産といえば主として土地のことだった。土地を子らに分け与えれば、相続される土地はどんどん小さくなり、その家の力も衰えていくのは目に見えている。そのために採られたのが、長子相続権と限定相続だ。長子相続権とは一家の土地全部を長男が相続するもの。その長男も土地から上がってくる収益がもらえるだけで、土地そのものを売却したりできないようにしているのが限定相続だ。これにより、先祖代々の土地が受け継がれ、その家も、その土地で働く人々も安泰というわけだ。ただし、浪費壁のある長男が借金を重ね、土地を含む家ごと手放さねばならなくなったというようなケースもしばしば見られた。
また、例えば『高慢と偏見』で、主人公には男兄弟がいなかったため、ゆくゆくはベネット家を甥のコリンズが相続することになっていたように、娘ばかりという家の場合は、近親の男子が家督を相続した。
さらに資産運用は男性、女性は家を守るものという前提で法も定められており、結婚すると同時に妻の財産は夫のものとされ、妻が結婚後に働いても、その所得も夫のものとされていた。それが改正されるのは、1882年の既婚女性財産法制定からで、ジェーンの生まれた年から百年余りも後のことだ。
どの作品の中でも結婚が大きく取り上げられているのは、その時代に生きた女性たちにとって結婚は避けては通れぬ、まさに死活問題だったからに他ならない。ヒロインたちが最終的に到達する「幸せな結婚」を、誰よりも望んでいたのはジェーン本人だったかもしれない。
物語はいつもハッピー・エンドで
オースティンの主要6小説
『高慢と偏見』を世界の10大小説の1つに挙げた、近代の人気・英作家サマセット・モームは、元気な時に最新の注意を払って読まなければ益が得られないような名作とは違って、オースティンの小説はどんなに元気のない時に読んでも必ず魅了されるとして、次のように評している。「たいしたことが起こるわけでもないのに、ページを繰らずにはいられない」
Sense and Sensibility(1811年)
『分別と多感』『知性と感性』
◆父親が亡くなり、先妻の息子が家を継ぐため、母と娘たちは家を出なくてはならなくなってしまう…。思慮深い姉エリノアと、気持ちのまま行動する次女マリアンの恋の行方をつづる物語。◆出版前に大幅に書き直したとも伝えられるが、オースティンがこの作品の元となる『エリノアとマリアン』を書いたのが弱冠20歳の時! なお、右の写真にあるように、出版時は作者名が「By a lady」としか記されていなかった。
Pride and Prejudice(1813年)
『高慢と偏見』『自負と偏見』
◆5人姉妹を抱えるベネット家の近所に、資産家でしかもハンサムなビングリー、ビングリーよりさらに裕福だという友人ダーシーがやってくる。ベネット家の長女ジェーンとビングリーは惹かれあうが、ダーシーによってそれが引き裂かれたと次女エリザベスは思いこんでしまい…。エリザベスとダーシーの恋愛模様を軸にした物語。◆この作品の元となった『ファースト・インプレッション』も、オースティンがミスター・ダーシーのモデルともされるトム・レフロイと出会った20歳の折に書かれている。早熟の天才かも。
Mansfield Park(1814年)
『マンスフィールド・パーク』
◆貧しい家の娘ファニー・プライスは、金持ちのもとに嫁いだ叔母に引き取られ、蔑まれながら育つ。内気で臆病なファニーだったが、それでも意思を貫こうと健気に生きる姿をえがく物語。◆いったん出版された後、新たに書き直しが行われ再出版された作品。
Emma(1815年)
『エマ』
◆エマは恋のキューピッド役きどり。人の恋心を見抜くのが得意と思っているのだが…。周囲の人々をふりまわすだけでなく、自分の恋には実は不器用というエマを主人公に展開される物語。◆『高慢と偏見』のエリザベスについて、誰もが好きになるような主人公と述べたオースティンが、このエマについては、「私以外は誰も好きにならないような主人公」と評している。そういう主人公でも読者を引き付けられるようになったという自信の表れか?
Northanger Abbey(1818年)
『ノーサンガー僧院』『ノーサンガー寺院』
◆キャサリンは、当時流行のゴシック小説を読んでは空想にふけるような女の子。そのキャサリンが密かに憧れるヘンリーに招待されていった彼の実家は、ゴシック小説そのままのおどろおどろしい雰囲気が漂う屋敷だった…。想像力豊かな18歳という設定のキャサリンの魅力があふれる物語。◆この作品の中で、ジェーンはベースボール(野球)という言葉を登場させている。少なくとも活字としてその言葉を使った初の人物とされている。
Persuasion(1818年)
『説得』『説きふせられて』
◆27歳になるアンの前に、周囲の説得により若き日に1度は別れたウェントワース大佐が再び現れる。経済的にも豊かになり、立派になったウェントワースに、自分はもう盛りを過ぎた年増の女性(27歳は当時もう行き遅れと見られた!)だと思いながらも、アンの心は大きく揺れる…。アンが真の幸せをつかむまでをえがいた物語。◆晩年近くに書かれたこの作品に、通り過ぎた恋を取り戻す主人公を登場させているのが興味深い。この作品も出版後、書き直されている。元のバージョンより、修正バージョンのほうが数段良くなったと評価されている。
20歳のほろ苦い出会い
ジェーンの「初恋の人」とする説もある、トム・レフロイこと、トーマス・ラングロワ・レフロイ。映画『ジェーン・オースティン 秘められた恋(Becoming Jane)』の中では、女性にもてるタイプのチャーミングな若者として描かれている。アイルランド最高裁判所長官の地位にまでのぼりつめ、キャリア的には大きな成功を収めたといえる。ジェーンとは違って長寿で、93歳まで生きた。
20歳の冬、ジェーンはトム・レフロイとして知られるトーマス・ラングロワ・レフロイに出会う。彼は、ジェーンの友人であるアン・レフロイ夫人の甥だった。アイルランド一の大学、トリニティ・カレッジを優秀な成績で終え、ロンドンで学業を続けていたトムが、マダム・レフロイとして知られるアンを訪れた際のことだ。トムの誕生日もジェーンのすぐ後の1月8日だから、こちらも20歳という頃。
1795年12月から翌年1月にかけての1ヵ月程の滞在だった。
いとこのエリザは、カサンドラとジェーンの姉妹を「数十人のハートを射止めるに違いない完璧な美人達」と述べているし、今も残るトムの肖像画からは、そのハンサムぶりがうかがえる。才気あふれる若く美しい二人の間に恋が芽生えても不思議ではない。
婚約者のもとを訪れ不在だったカサンドラに宛てた手紙で、ジェーンはトムについて「すごく紳士的、ハンサムで感じのよい若者」と好意的に言及。ただ、当時の「すすんだ」小説であった『トム・ジョーンズ(Tom Jones)』をジェーンに貸したトムが、小説の主人公のトム・ジョーンズを真似て白いコートを着ていることに関しては、茶化す調子で報告している。ちなみに、歌手のトム・ジョーンズはこの小説から芸名をもらっている。
だが、トムがロンドンに戻る頃に書かれた手紙は、「(カサンドラが)この手紙を読む頃には、もう終わっているでしょう。そんな悲しいことを書いていると涙が流れる」と、お茶目な調子から一転、恋する乙女の心情がつづられている。
この時期の手紙で残されているのはその2通だけで、ほかは焼却されている。その2通からは、この恋がジェーンにとっては短く淡い初恋のようなものだったように思われる。後にアイルランドの最高裁判所長官になったトムも、ジェーンとのことは、少年らしい恋だったというように語っているという。
小説『高慢と偏見』の中の挿絵。ベネット家の居間の様子。娘5人と、ベネット夫人(右端)の姿が見える。=イラスト:Hugh Thomson
だが、別の推測をする人もいる。今も残るジェーンからカサンドラへの手紙の次のものは、その年の夏、ロンドンのコーク・ストリートからのものだ。コーク・ストリートは、ロンドンで勉学中のトムが身を寄せていた彼の叔父の家があった通り。当時、その通りに宿屋があったという記録もないことから、トムの所にジェーンが滞在したのではというのが、ジェーンとトムの恋物語をえがいた映画『ジェーン・オースティン 秘められた恋』(下記参照)の作者ジョン・スペンスの説だ。2人の仲がどの程度のものだったのか、今となっては定かではないが、後に『高慢と偏見』として出版される『ファースト・インプレッション』をジェーンが書き始めたのが、トムとの一冬を楽しんだ後の1796年の秋。主人公エリザベスにはジェーン自身が投影されていると分析されており、そのお相手のダーシーは、トムをモデルにしたのではないかとも言われている。
実際のトムのほうは、翌九七年の春に学友の妹と婚約。同年にマダム・レフロイを訪ねたものの、ジェーンに会いに来ることもなかった。 結婚相手の家柄や経済力が重要なのは、女性に限ったことではなかった。12人兄弟の長男で、姉妹や弟たちの面倒を見ることを期待されていたトムは、名の通った家の娘と結婚する必要があったようだ。
オースティンの生涯とその主要作品をDVDで楽しみたい!
●生涯をたどるなら…
Becoming Jane(2007年/映画)
この映画のようなロマンスが、ジェーンとトム・レフロイの間にあったという『証拠』は残っていない。だが、なかったという証拠もないのがミソ。歴史のあいまいな部分をロマンチックに仕立てた一作。アイドル女優から躍進著しいアン・ハサウェイのジェーン・オースティン、あっという間にアンジェリーナ・ジョリーと共演するまでになったジェームズ・マカヴォイのトム・レフロイと、若手成長株2人の共演も楽しめる。Miss Austen Regrets(2008年/BBCドラマ)
脚本を書いたグウィネス・ヒューズが、真の脚本家はジェーン自身と評するほど、ジェーン本人が書いた手紙など史実をふんだんに盛り込んで作られたドラマ。実像に近いジェーンと思ってよさそうだ。正統派美人で地に足の着いた姉カサンドラ役にグレタ・スカッキ、個性派美人で時に辛らつな意見も言う妹ジェーン役にオリヴィア・ウィリアムズというのはなかなかの配役かも。●主要作品を観るなら…
人気の高い『Pride and Prejudice』など、古くはローレンス・オリビエ出演のものから最近のキーラ・ナイトレイ主演のものまで、数え切れないほどあるが、ここでは、手に入りやすい最近のものから、比較的原作に忠実+楽しめる、お勧め作品をご紹介。Sense and Sensibility(1995年/映画)
出演しただけでなく脚本も書いているエマ・トンプソンはこの作品でアカデミー脚本賞を受賞。作品自体もゴールデン・グローブ賞を受賞した秀作。監督は『ブロークバック・マウンテン』のアン・リー、出演もケイト・ウィンスレット、アラン・リックマン、ヒュー・グラントと主役級の英国ビッグ・スターがズラリと揃った豪華競演となっている。Pride and Prejudice(1995年/BBCドラマ)
原作の起伏を6話連続ドラマにうまくまとめてある。エリザベス役のジェニファー・イーリー、ダーシー役のコリン・ファース始め、それぞれの俳優が役柄のイメージを生き生きと見せており、評価のきわめて高い作品。池に飛び込み、濡れたシャツ姿を見せるコリン・ファースの姿も話題をさらい、高視聴率獲得の一因とも揶揄された。さてはBBC、最初から女性層を狙った?Emma(1996年/映画)
周りの人達の恋の世話焼きに奔走し、肝心の自分の恋は見当違いになってしまうエマを、可愛らしい女性としてグウィネス・パルトロウが演じている。この作品を見て、英国人だと思った人もいたというほど、アクセントごとエマになりきっているグウィネスのほか、アラン・カミング、ユアン・マクレガー、トニ・コレットもいい味を出している。Mansfield Park / Northanger Abbey / Persuasion (2007年/ITVドラマ)
ITVのジェーン・オースティン・シーズンとして放映された3作品。『ドクター・フー』でお馴染のビリー・パイパーがファニー役の『Mansfield Park』、原作同様軽いタッチで仕上がっている『Northanger Abbey』もそれぞれに楽しめるが、出来のいいのは締めを飾った『Persuasion』だろう。コリン・ファースの池シーンが『Pride and Prejudice』の「突出シーン」とするなら、『Persuasion』のそれはサリー・ホーキンスがバースの街をひたすら走るシーン。『ハッピー・ゴー・ラッキー』でベルリン映画祭女優賞も受賞した演技派のサリー、耐える女という感じでアンを演じているだけに、最後の疾走シーンが爽快。耐えがたきは愛のない結婚
バースで毎年行われる、ジェーン・オースティン・フェスティバルの模様=写真提供:バースのJane Austen Centre
父がスティーヴントンの牧師の職を長兄に譲り退職したのを機に、1801年にオースティン家はバースへと移り住む。引っ越してすぐ、一家はイングランド西部のデヴォンにあるスィドマス(Sidmouth)という海辺の街に旅行したが、ジェーンはその地で、ある青年と恋に落ちる。
所用で一度その地を離れなければならなかった、その青年の帰りを待ちわびるジェーンに届いたのは、青年が亡くなったという突然の知らせだった。青年は牧師だったとも伝えられるが、名前などは残されていない。その数年前にはカサンドラが婚約者を熱病で亡くしていたことから、姉妹はより一層深く結びついた。
ジェーンがプロポーズを受けることになるのは、その翌年だ。
26歳になっていたジェーンにとって、6歳年下の裕福な家の息子であるハリス・ビッグ=ウィザーは申し分の無い相手だった。当時の二十六歳といえば若さの終わり、中年の始まりと考えられるような年齢だ。ジェーンも、今後、これだけの好条件の相手が現れるとは考えがたいと思ったのか、一度はプロポーズを受諾。ところが、その翌日には断ってしまう。
なぜ、ジェーンは心変わりしたのか。
ジェーンの作中、主人公の家庭のおおかた、またジェーン自身も属していたのはジェントリーという新興階級(地主階級)だった。貴族よりは下ながら、支配階級に含まれるジェントリーは土地と使用人を有するものの、年収も1000ポンド(現在の3~5万ポンド相当)から1万ポンド(現在の30~50万ポンド相当)と経済的には幅が広く、生活が苦しいジェントリーも少なくなかった。
オースティン家もそれほど豊かではなかったようだが、ジェーンは経済的な安定のためだけの結婚を良しとしなかったのだろう。
BBCのドラマ『ミス・オースティン・リグレッツ』(上記「オースティンの生涯とその主要作品をDVDで楽しみたい!」のDVD欄参照)の中で、プロポーズをむざむざ断ったことに対し、後年、ジェーンが母親から批判されるシーンがあった。母親は言う。「お金で幸せは買えないかもしれない。でも、『safe』(安定した暮らし)を得ることはできる」と。このドラマの中でのジェーンは敢えて反論しなかったが、彼女はある手紙の中でこうつづっている。
「Any thing is to be preferred or endured rather than marrying without affection.」(愛のない結婚にくらべれば、どんなことにも耐えられる)
ジェーンの作中のヒロインたちは、この信条を貫き、苦しみや悲しみに挫けることなく行動し、やがて夢を叶える―というのがお決まりのパターンだ。ジェーンは、恋愛小説という形をとりながら、世の女性たちを励まし、希望を与え続けた思想家と呼んでも良いのではないだろうか。彼女の密やかな闘志が、行間にこめられているように思えてならない。
初めて手にした原稿料
バースにいる間には、さらに不幸な出来事が相次いだ。ジェーンの友人マダム・レフロイが落馬で亡くなり、1805年に父ジョージまで亡くなってしまう。一家の主を失ってしまったジェーンは、母、姉とともに、五兄フランクとその若い妻のもとをはじめ、縁者の家を転々とするようになる。不安定な生活が続いた。
しかし、悪いことばかりではなかった。この間に四兄ヘンリーの助力もあり、ジェーンは初めて出版社と契約を結ぶ。後に『ノーサンガー僧院』として出版される『スーザン』という物語を十ポンド(現在の約370ポンド相当)でロンドンの出版社クロスビーに売ったのだ。当時としても安いその価格はジェーンが新人作家という以外に、女性作家だったせいもあると見られている。それでも、自分の書いたものが出版社に売れたことは、大いにジェーンを元気付けた。
とはいえ、数ヵ月たっても数年たっても本は出版されず、ついにジェーンが、活字になった『ノーサンガー僧院』を見ることはなかった。
匿名で出したデビュー作が大ヒット
裕福な家の養子となっていた三兄エドワードが、1809年にチョートンの別宅をジェーンたちに提供。その家がとても気に入ったジェーンは、母、姉とともに、そこでしばらく幸福な日々を送った。その頃には結婚していた兄弟たちの子供は総勢20人を超えるほどになっていたが、その姪や甥にとって、ジェーンはまたとない良い叔母であった。幼い子らとは庭で遊び、長じてはロンドン見物に連れて行った。
やがて記念すべき1811年を迎える。
ヘンリーが出版業者トーマス・イガートンと交渉し、ジェーン初の本となる『分別と多感』が出版されたのである。ただ、本は良く売れたが、本に作者としてジェーンの名前はなく、「バイ・ア・レディ」として出版された。
牧師の娘であるジェーンは、どんな評価を下されるかもわからない本、しかも恋愛ものに実名を出すわけにはいかなかったようだ。初版本だけでジェーンの収益は140ポンド(現在の約5000ポンド相当)になったが、姪や甥でさえ、ジェーンが人気作家となったことは知らされなかった。
ある日、ジェーンと姪の一人アナが出かけた移動図書館で、アナが『分別と多感』を手に取った。当時、まだ高価だった本は、そういった図書館にお金を払って、借りて読むことも広く行われていた。普段、ジェーンが話す物語を喜んで聞く姪や甥の中の一人であったにもかかわらず、ジェーンが書いた本とは知らないアナは「こんな題名の本は、しょうもないに決まってるわ」と、ページを開くこともせずに戻したという逸話も伝えられている。
1813年には、イガートンがジェーンの2冊目の本となる『高慢と偏見』を出版。その年の内に増刷されるほどの人気で、最もよく読まれた英文学の一つと呼ばれるに至る。
これは、前述のようにもとは『ファースト・インプレッション』という題名で書かれていたものだ。トム・レフロイと出会ってまもなく書かれたというだけでなく、トムがアイルランド出身で、ダーシーはアイルランドで有名な一族の苗字だったことなどから、ダーシーのモデルはトムであろうと言われている。
この本はジェーンにとって思い入れの強いものであったようだ。本がロンドンから届くのを待ちかねていたジェーンは、手にした本を、まるで自分の子供のようだと書いている。
だが、この時にはもう、ジェーンにはあまりに早い最期が間近に迫っていた。
プリンスのお気に入り作家
父王が正気を失った後、リージェント(摂政)として長い間、国王の座がまわってくるのを待ったジョージ4世。派手好みで浪費壁があることでも知られ、リージェント・ストリートの建設なども命じた。
翌年にイガートンは『マンスフィールド・パーク』を出版。これは発売6ヵ月で売り切れ、ジェーンは着実に作家としての地歩を固めていった。そのまた翌年の1815年、静かに暮らすジェーンの日常から、かけ離れたことが起こる。
ジェーンは匿名で本を出版していたが、彼女の作品のファンで、それぞれの居城に本をセットで用意しているというプリンス・リージェントから、ロンドンの邸宅への招待状が届けられたのだった。放蕩息子として知られ、結婚後も、婚前から囲っていた愛人との関係を続け、王妃をないがしろにしていたこのプリンス・リージェント(後のジョージ4世)を、ジェーンは実は嫌っていたという。
当時、法制上、経済的には夫に頼るしかなかった妻だが、婚姻でも不平等な扱いを受けていた。夫は妻の不貞で離婚の申し立てができるが、妻は夫の不貞だけでは離婚申し立てもできなかったのだ。
しかし、嫌いだといっても、後の国王からの招待を断るわけにはいかない。ジェーンは、プリンス・リージェントのロンドンの邸宅へ出かけていった。実際にプリンス・リージェントに謁見こそしなかったが、王室の図書館員の勧めで、次の作品『エマ』はプリンス・リージェントにささげられることになった。その頃の作家としては、誇るべき栄に浴したのである。
この『エマ』以降、イガートンではなく、ロンドンでよく知られた出版業者ジョン・マレーが、作品の刊行を手掛けるようになる。『エマ』は売れたが、すぐ後にマレーが出した改訂版の『マンスフィールド・パーク』は売れ行きが悪く、『エマ』の収益が相殺されてしまった。さらにこの頃、ヘンリーが興した銀行が倒産。負債を抱えたヘンリーはじめ、その銀行に投資、預金などしていた兄弟たちも大金を失い、ジェーンと姉、母を支えることが難しくなってしまったのである。
たった1人で起こした革命
ジェーンが息を引き取った、ウィンチェスターのカレッジ・ストリートにある個人宅。中は見学できないが、プラーク(標識)=写真右=が掲げられている。
プリンスへの作品献上、ヘンリーの破産とさまざまな出来事がめまぐるしく起こる中、ジェーンの体に暗い影が忍び寄っていた。彼女の身体を病が蝕み始めていたのだ。現在でいう副腎不全、またはリンパ系の病気だったのではとも言われるジェーンの病状は、激しい痛みをともなうものだった。最初は痛みをおして、執筆を続けていたジェーンだったが、じきに歩くことも困難になり、最後はヘンリーとカサンドラに連れられてウィンチェスターで療養、そこで息を引き取った。最初の本が出版されてから、わずか六年後の1817年7月18日のことだった。
当時の未婚女性の例にならい、カサンドラ一人が棺を見送るひっそりとした葬儀が行われた。ヘンリーの手配で、ウィンチェスター大聖堂に埋葬されたが、墓碑銘にさえ作家としての功績は記されていない。後世に残る大作家であったにもかかわらず、誰それの娘、誰それの妻としてしか生きることが認められない、その時代の大多数の女性たちとさして変わらない生涯を送ったということになるのだろう。
アイルランドで要職に就き、幸せな家庭も築いていたトム・レフロイが、ジェーンの死を聞きつけ、ロンドンに駆けつけたことも伝えられている。
十ポンドで売られ出版されないままだった『スーザン』が、ジェーンの存命中にヘンリーによって買い戻されていたが、マレーがそれを『ノーサンガー僧院』として出版したのは、ジェーンの死後となってしまった。また、最後の完成作となる『説得』も、セットで出版された。
その中の著者についての説明で、ヘンリーは初めて著者の素性を明かした。死後に、ようやく作家としてジェーン・オースティンの名が認められるようになったのだ。
自分の気持ちに正直に生きて、最後にはミスター・ライトとハッピー・エンドを迎える主人公を描き続けたジェーン。結果的に生涯独身を通すこととなったジェーン自身、それがいかに難しいことであるか、身にしみて知っていたはずだ。それでも、真っ直ぐにがんばる女性主人公達を、ハッピー・エンドで祝福したジェーンの声援は現代の女性たちにまで、しっかり届いているようだ。
2004年、英国のラジオ番組「ウーマンズ・アワー」である投票が行われた。「あなたの心に語りかけ、自分自身に対する認識を変えた、または、女性であることを喜ばしく感じさせた小説」を選ぶもので、1万4000人に上る投票が寄せられた中、一番多く票を集めたのは『高慢と偏見』だった。
激動の時代の中、ジェーンはたった一人で女性の革命を起こしていたのかもしれない。その思いは今も活字の中に、あるいはドラマや映画といった映像に形を変えて色あせることなく輝きを放っている。
ジェーン・オースティン 縁の地を訪ねて
●チョートン
Jane Austen's House Museum ジェーン・オースティンの家・博物館
Chawton, Alton, Hampshire GU34 1SDTel: 01420 83262
www.jane-austens-house-museum.org.uk
ジェーンはここで作品のほとんどを書き上げた。遺品などが展示されているほか、ジェーンがここに住み始めてから200年を数える、2009年7月に向け、新しい見どころを追加する計画が進められている。なお、バースの「ジェーン・オースティン・センター」とは、どちらが「ジェーンの家」としてふさわしいか、ちょっとしたライバル関係にあることが報じられている。
Chawton House Library チョートン・ハウス図書館
Chawton, Alton, Hampshire GU34 1SJTel: 01420 541010
chawtonhouse.org
ジェーンらにチョートンの別宅を提供した三兄エドワードが住んでいた屋敷。今は図書館となっており、1600~1830年までの英国の女性作家の資料なども展示。図書館部分以外もガイドツアー(要予約)で見学可能。
●バース
The Jane Austen Centre ジェーン・オースティン・センター
40 Gay Street, Queen Square, Bath BA1 2NTTel: 01225 443000
www.janeausten.co.uk
オースティン一家やジェーンの人生について詳しく知ることができる博物館。バースでのジェーンの家や、『Northanger Abbey』『Persuasion』に登場する場所などを巡るツアーも主催。
●ウィンチェスター大聖堂
Winchester Cathedral ウィンチェスター大聖堂
1 The Close, Winchester, Hampshire SO23 9LSTel: 01962 857200
www.winchester-cathedral.org.uk
北身廊にジェーンが埋葬されている。7世紀からの歴史ある大聖堂にはビジター・センターも併設されており、冬季はアイス・リンクがオープンするほか、クリスマス・マーケットも開かれる。
●スティーヴントン
St Nicholas Church 聖ニコラス教会
Steventon, Basingstoke Hampshire RG25 3BEジェーンが25歳まで暮らした牧師館が(教会に隣接)、当時とほぼ変らず残っている。父ジョージの後を継いで牧師となった長兄ジェームズと妻の墓もある。ロンドンで興した銀行が倒産後、牧師となっていた四兄ヘンリーも、長兄が亡くなった後を継ぎ、甥のウィリアムにその職を譲るまで、この地にとどまった。
●ロンドン
Henry's flats 兄ヘンリーの住まい
23 Hans Place, London SW1X 0JY10 Henrietta Street, London WC2E 8PS
4兄ヘンリーがロンドンで銀行家となっていたことから、ジェーン、また他の兄弟たちもよくヘンリーのもとを訪れた。ジェーンは主に観光と出版社との打ち合わせに上京していたという。ヘンリーの銀行があったヘンリエッタ・ストリート、病に倒れたヘンリーの看病にジェーンが長期で滞在したハンズ・プレースにはジェーンの名前入りのプレートがかかっている=写真。
The British Library 大英図書館
96 Euston Road, London NW1 2DBTel: 0870 444 1500
www.bl.uk
大英図書館にはジェーンが使っていた机とカサンドラに宛てた手紙、初期のノートが展示されている。
週刊ジャーニー No.547(2008年10月30日)掲載