全英オープンを中止に追い込んだ男 トム・モリス・ジュニア

英国の偉人の生涯をたどる 『Great Britons』
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全英オープンを中止に追い込んだ男

トム・モリス・ジュニア

1860年秋、第1回となるゴルフの全英オープンが、スコットランドのプレストウィックにて開催された。開始以来、毎年行われているはずの全英オープンではあるが、やむを得ない理由で過去12回、中止となった。それは2度の世界大戦によるものだ。しかしそれが原因で大会が中止されたのは全部で11回である。実は全英オープンには、戦争とは全く異なる理由によって中止された、もう1つの空白が存在する。黎明期の全英オープンを中止に追い込んだ若者の、太く短い生涯を追う。

●Great Britons●取材/本誌編集部 ※本特集は2011年6月30日号の週刊ジャーニーに掲載したものを再編集してお届けしています。

全英オープン史を語る上で避けて通ることができない人物に、トミー・モリスという若者がいる。彼は1851年、スコットランドのセント・アンドリュースに生まれた。父親のトム・モリスは「近代ゴルフの父」と称され、セント・アンドリュースのプロ兼グリーンキーパーを務めた人で、近代ゴルフの体系化に大いに寄与した人である。また、自身も全英オープンを4度制するほどの腕前であり、晩年はミュアフィールドやロイヤル・ドーノック等、数々の名門コースを設計した人としても知られる。

トミーにはわずか4歳で早逝した兄がいた。その兄もまたトム・モリスといい、両親は彼をウィー・トム(小さなトム)と呼んで溺愛した。その時、弟となるトミーはまだ母親のお腹の中にいたが、ウィー・トムは弟とすれ違うようにしてこの世を去ってしまう。長男を失った悲しみと新しい命を授かった喜びのはざまで、両親は新しい命に再びトムという名を与えた。両親や周りの人々は、新しく生まれたトムを、父親や兄と区別するためトミーと呼んだ(父親と明確に区別するためトミーを、トム・モリス・ジュニア、またはヤングトムと表現する資料も多いが、本文内では父トム・モリスが呼んでいたように「トミー」で統一する)。

トムは生粋のセント・アンドリュースの人で14歳の時に、プロゴルファー第1号と言われるボール作りの巨匠、アラン・ロバートソンの元に奉公に入った。

ロバートソン家が代々、独占的に作り続けていたのはフェザーボールという代物で、これは丸く削ったつげの木製のボールに取って代わって17世紀初頭に登場したと言われている。フェザーボールとは、ひょうたん型に切った牛皮に帽子にいっぱい入るほどの羽毛を濡らしてギュウギュウに詰め、牛皮を縫い合わせて乾燥させたものだ。ボールの大きさは現在のものとあまり変わらず、上級者が渾身の力でひっぱたけば200ヤードも飛んだと言われる。

ただ、原材料が高価な上、製造するのに大変な手間がかかり、熟練の職人でも1日3個程度しか作れず、名人でも4個がやっとだったという。そのため、ボールは自ずと高価となり、フェザーボール1個が当時の手作りクラブ1本の代金に相当したというから、庶民にはなかなか手の届かない高級品であった。

ロバートソンは、当代きってのボール職人であったのみならず、ゴルファーとしても腕前は超一級で、今も多数残るマッチプレーの試合記録を見ても遂に1度たりとも敗北したという結果が見当たらない。そのため「不敗の名手」とも呼ばれている。ロバートソンはキャディとしても働くかたわら、クラブの会員に依頼されては謝礼を受け取って彼らにゴルフの指南をし始めた最初の人物と言われ、また、懸賞金のかかったマッチプレーにも多数参加していた。そのため、ゴルフ史研究家たちは、彼をもってプロゴルファー第1号としている。

「プロゴルファー第1号」と、その弟子であり、後に「近代ゴルフの父」と呼ばれることになるこの2人に、ある日修復不可能な深い傷が刻まれることとなる。

悪い知らせはいつも南から 

1850年ごろにセント・アンドリュースで撮影された写真に納まる、トム・モリス(左から2人目)とアラン・ロバートソン(右から3人目)。

英国の東インド会社が進出を果たしていたマレー半島から、ガッタパーチャという天然ゴムの一種が本国イングランドを経由してスコットランドにも運ばれてきた。この頃に敷設が始まった海底ケーブルの絶縁体として使われた素材で、さらに虫歯の詰め物としても随分と重宝がられたという。

この樹液を丸めて固めると案外、フェザーボールの代用となることが分かった。それどころかフェザーボールと較べて製造がはるかに簡単で、しかも安価に作ることができ、また例え変形しても型に入れて圧縮、冷却するだけで何度でも再利用できるため、ガッタパーチャボール(通称ガッティ)は、あっという間に人々の間に浸透していった。

230年もの間、フェザーボールの製造と販売を一手に引き受けてきたロバートソン家にとって、ガッティの登場はまさに先祖代々続いてきた家業をおびやかす脅威以外の何者でもない。ロバートソンは「悪い知らせはいつだって南(つまりイングランド)から来る」と憤慨し、弟子に申し付けて手当たり次第にガッティを買い漁らせ、これらを焼却する日々に追われた。

しかし、日頃から高価に過ぎるフェザーボールに疑問を抱いていた弟子のトムは、師匠の意向に反してガッティに将来性を見出し、師匠には内緒でガッティの性能を試していた。それはフェザーボールより若干飛距離が落ちるものの、とにかく原価が安い上に羽毛や牛皮と違って供給も安定的で、価格もフェザーボールの4分の1に抑えることが可能となる代物だった(ボールに打ち損じの際に傷がつくことで、ボールがさらに飛ぶようになることも分かり、飛距離の問題も解決されることになる。今で言うディンプルという意図的につけた凹みの起源だ。ただし、この当時はまだその原理が分かっていない)。

トムは意を決して師匠に、この際フェザーボールを捨ててガッティ製造業へと軌道修正すべきではないかと進言する。しかしこれにロバートソンは激怒し、2人の間は修復不能なまでに決裂した。結局、ロバートソンの元を飛び出したトムは、妻ナンシーとまだ乳飲み子であったトミーの2人を連れ、スコットランド西海岸にあるプレストウィック・ゴルフクラブへと向かった。そこでプロゴルファー兼グリーンキーパーの職を得、1864年に再びセント・アンドリュースの町に戻るまでの約13年間、モリス一家はプレストウィックで過ごすこととなる。

全英オープンのつまずき

1859年、アラン・ロバートソンが亡くなった。フェザーボール作りの職人は、羽毛の細かな粉塵を毎日のように吸い込むため、早死にする者が多かった。享年44。

「不敗の名手」が世を去った。ロバートソン亡きあと、この世の中で最強のゴルファーは一体誰か。

それまでアマチュアの間だけで行われていた競技会だったが、遂にそれがプロの世界でも始まろうとしていた。全英オープン(正確には「ジ・オープン」)。それは、世界最強プロの座を争うプロのための競技会であった。

1860年、プレストウィック・ゴルフクラブの提唱により遂に第1回目となる全英オープンが開催された。会場はもちろんプレストウィックである。

しかし、蓋を開けてみれば、参加者はわずかに6名。まだ鉄道が網の目のように走っていない時代、人々の主な移動手段は徒歩か、せいぜい馬車である。これでは例え行き先がわずか数十キロ先であったとしても、そこそこの小旅行となってしまう。まだまだ遠距離を気軽に往来できる時代ではなかった。1860年とは、日本では大老、井伊直弼が桜田門外で暗殺された年にあたる。鉄道発祥の地とはいえ、さすがに英国でもこの時はまだ、交通事情が今ほどに整っていたわけではなかった。

さらに主催者を落胆させることがあった。参加者たちのスコアが、アマチュアのチャンピオンとさほど大差のないものだったのである。こんなことであればいっそのこと、プロもアマも関係なく、腕に覚えがある者になら誰でも参加を許し、世界一のゴルファーの座を競わせるものとしよう、という意見でまとまった。そして宣言は成された。

「今後永久に、チャレンジベルトを全世界に対して公開(オープン)する」。

第1回目となった1860年の大会は、声をかけたゴルフクラブのプロたちだけによるものであった。そして1861年の2回目以降は、今の全英オープンの理念に通じる「全世界のゴルファーに公開した」大会となって再出発を果たした。

1864年、パースで開催されたトーナメントに参加した、13歳のトミー(最後列左端)と父のトム(トミーが肩に手を乗せている人物)。

始まってから数年の間、目論んだほどには参加者は増えず、まだまだ足元も頼りない全英オープンであったが、1868年、第9回目となった全英オープンで異変が起こる。この年の全英オープンを制したのは17歳に成長していたトム・モリスの子、トミーだった。まだ表情にあどけなさすら残る少年であったが、当時のスコットランドを代表するプロたちを抑えての堂々の優勝であった。この時に打ち立てられた最年少記録は今もって塗り替えられていない。

トミーの活躍ぶりに周囲の大人たちは大いに驚かされたが、驚くのはむしろ早過ぎた。トミーは翌年、さらにはその翌年の大会も制し、大会史上まだ誰も成し遂げたことのなかった3連覇を、いともあっさりと達成してしまったのである。

初優勝の折には、その表情に幼ささえ湛えていた少年も、この時すでに19歳。体つきもがっしりとした立派な大人の男性へと成長し、もはや誰もが認めざるを得ないスーパーチャンピオンとなっていた。

1870年、3年連続で全英オープンを制し、チャレンジベルトを永遠に我がものとした時のトミー・モリス

トミーが3年連続で手にした優勝の証とは「チャレンジベルト」と呼ばれる、いわゆるチャンピオンベルトであった。これは、プロを集めてナンバーワンを競うという全英オープンの開催を提唱したプレストウィック・ゴルフクラブが出資して作らせたもので、上等なモロッコ皮に豪華な銀飾りを施した、高価で立派なベルトだった。

それまで、アマチュアの競技会においてはクラレットジャグ(ボルドーの赤ワインを入れるジョッキ)型の銀製トロフィーが贈られる慣わしとなっていた。歴史上初めてとなるプロの大会が、アマチュアと同じクラレットジャグを競い合うということに若干の抵抗があったのかもしれない。いずれにしても全英オープンの勝者にはベルトを贈ることが決定された。

当時12ホールしかなかったプレストウィック・ゴルフクラブを1日で3ラウンド、つまり36ホールをプレーして最も少ない打数(ストローク)を競う、という極めて単純な決め事だけで始まった全英オープンであったが、実はそれとは別に、もう1つだけルールが存在した。それは「この大会を3年連続で制した者に限り、このチャレンジベルトを永久に自己の所有としてよし」とするものであった。

かくしてトミーは、大会の規定どおり、この世界にひとつしかない立派なチャレンジベルトを永久に彼の所有物とした。

問題はその後である。

主催者側は新しいベルトの用意をしていなかった。予算がなかったのである。人々は金策に走り回った。しかし翌年の大会までにベルトは間に合わず、1871年の全英オープンはやむなく中止に追い込まれてしまった。

主催者たちが出した結論とは、全英オープンの単独主催をあきらめ、セント・アンドリュースとマッセルバラの両クラブを巻き込んで予算を確保することであった。その見返りとして今後の全英オープンはこの3つのコースで順繰りに開催することを提案した。さらにチャレンジベルトは廃止とし、代わりに銀製のクラレットジャグを優勝杯と定めた。クラレットジャグは毎年、チャンピオンの氏名を刻み込んだ上で主催者が保管し、優勝者には賞金とともにメダルを授与することも決定した。

1872年。装いも新たに全英オープンが再開された。1年の歴史的空白を経てこれを制したのはまたしてもトミーであった。唯一無二のチャンピオンベルトを永遠のものとしたのもトミーなら、毎年7月の第3日曜日の夕刻、その年のチャンピオンに与えられる、あのクラレットジャグを最初に手にしたのもトミーであった。参加者の少ない黎明期とはいえ、空前絶後の4年連続制覇をやってのけたトミー。真新しいクラレットジャグを高々と持ち上げるトミーの雄姿を、誰もがため息交じりに見つめていた。一体これからどれだけこのクラレットジャグにトミーの名が刻み込まれていくことになるのであろうか…。トミーはまだ21歳の若者なのである。

 

トム・モリス・シニア

(1821年~1908年)通称:オールド・トム

全英オープンを4度制したゴルフの名手であり、グリーンキーパー、クラブメーカー、ボールメーカー、インストラクター、コースデザイナーでもあった。最後に全英オープンを制した時は46歳であり、これは今も最年長記録として破られていない。2009年、ターンベリーで開催された全英オープン。当時59歳のトム・ワトソンが初日から快進撃を続け、遂にトム・モリスの最年長記録が塗り替えられるかと大きな話題となったが、プレーオフでスチュアート・シンクに敗れ、記録更新はならなかった。
晩年はミュアフィールドやロイヤル・ドーノック、ウエストワード・ホーなど数々の名門コースのデザインを手がけ、ゴルフの世界に巨大な足跡を残した。1908年没。享年86。

メグとの出会い 

新しい朝を迎えたセント・アンドリュースのオールドコース。このゴルフコースがいつここにできたのか、誰も知らない。

翌年の1873年、全英オープンは遂にプレストウィックを離れ、初めてセント・アンドリュース(オールドコース)で行われた。さすがのトミーも5連覇の夢は叶わず、さらにその翌年の1874年の大会でも、5度目の優勝はお預けとなった。

しかしこの年、トミーは優勝杯よりも嬉しい財産を得た。伴侶である。お相手はマーガレット・ドリネンという9つ年上の女性であった。メグ(マーガレットの愛称)はウィットバーンというウエスト・ロージアン地方の小さな町の出身であった。ウィットバーン。19世紀に良質の石炭と鉄鉱石の鉱脈が発見され、大英帝国の成長を地下資源で支えた町として知られる。従って当時の人たちはこの地名を聞いただけでその娘が、恐ろしく不衛生で貧しい鉱山労働者の家の出であると容易に理解できた。

事実、メグは2ベッドのフラットに家族10人がひしめきあって暮らす貧しい家の出身であった。長身で人目を引く美人だったという。その上聡明で性格も明るく、レース編みを得意としていた。彼女は25歳の時、エジンバラでも名の通った弁護士宅での住み込み女中の仕事を見つけ、黒く煙る故郷を後にした。当時の女中という仕事は炊事、洗濯、掃除に始まり、暖炉に薪をくべ、風呂に水を運び、家中の真鍮を磨き、と夜明けと共に休むことなく働き倒し、自分の部屋に戻って息をつけるのは夜の10時半ごろで、週7日の休みなき過酷な労働だった。それでも鉱山の仕事に比べれば、ここでの生活は清潔で明るい上に食事も充実し、彼女にとってはまさにパラダイスであった。

ある日、雇い主である弁護士が、メグにセント・アンドリュースに行けないかと打診した。かの地に暮らす弁護士の母親が、働き者で信頼のできるメイドを探していたためで、弁護士は迷うことなくメグを母親に推薦したのである。敬愛する主人の願いを断るわけにもいかず、1872年、メグは小さな鞄一つを抱え、セント・アンドリュースへと向かった。

そしてトミーとメグはセント・アンドリュースの町で出会い、いつしか惹かれあうようになった。

父親のトムは当初、メグを快く思っていなかった。トムはプレストウィック時代、何とか家計をやりくりしトミーを貴族や裕福な者らの子息が通う私立のアカデミーに通わせた。ここでトミーには教養だけでなく、上流階級の世界との接点を身につけさせたつもりであった。ところがトミーが見つけてきた相手は、ウィットバーンの出身だといい、さらにトミーより9つも年が上だという。

そのトムを諌め、メグを優しく迎え入れようとしたのは母親のナンシーであった。ナンシーもまたトムとの結婚前は女中をしていた人であり、トムより5つ年上の姉さん女房だった。ナンシーにしてみれば、メグを否定することは、過去の自分を否定することにもなったのであろう。

ただ、メグにはもうひとつ、あまり知られたくない過去があった。ウィットバーン時代に、当時の鉱山の主任を務めていた男との間に女の子をもうけていた。2人の間はロマンチックな関係ではなく、むしろメグの意志に反した出来事であったらしい。出産から1ヵ月の後、女児は病気でこの世を去った。彼女が故郷を捨て、エジンバラに移った本当の理由はその辺りにあるようだ。

メグの告白を聞いたトミーは、あまり気にする風でもなく、過去を全てひっくるめてメグを受け入れた。

かくして2人は神の前で結ばれ、メグはマーガレット・モリスとなった。  たちまちセント・アンドリュースの小さな町は、貧民窟からやってきた女中上がりの姉さん女房に関するゴシップで溢れることとなる。

しかし、トミーの毅然とした態度とメグの聡明でいながら控えめで明るい性格はやがて人々の心を溶かし、彼女自身も次第に町に受け入れられていった。

そしてその翌年、メグはトミーの子を宿した。

妻を娶り、そしてやがて父親になる。トミーの闘争心に再び火がついた。2年間遠ざかっていた全英オープン王者の座を奪還すべく、より一層練習に精を出す日々が始まった。

一通の電報

トミーとトム、珍しく2人で写った1枚

1875年9月4日。

フォース湾を挟んでセント・アンドリュースの対岸にある、ノースベリック・ゴルフクラブにて、トムとトミーのモリス親子対、彼らの宿命のライバルとも言える、ウィリー・パークとその甥っ子のマンゴ・パークの2人による、フォーサム(各チームがそれぞれ1つのボールを交互にプレーして競う競技形態)競技が行われた。試合には25ポンドという当時としては高額な賞金がかけられ、当代人気の2家族・4人の取り組みということで、近隣の大観衆を集めての熱戦となった。

トミーはこの試合への参加に気乗りしていなかった。というのも、新妻であるメグのお腹が9ヵ月に満たぬというのに破裂せんばかりに大きくなっていたのである。陽気なメグにも背中を押されたトミーは、助産婦をそばにつけ、不承不承会場へと赴いた。

汽車を何度も乗り継いでほぼ1日がかりで辿り着いたノースベリック。ここでの因縁の対決は予想通りの大接戦となり、試合はいよいよ終盤へと差しかかっていた。

その時、観衆を掻き分けながら進んでくる1人の少年がいた。その手には1通の電報が握り締められていた。

観衆にもみくちゃにされながらも彼は尋ねた。

「トム・モリスさんはどちらです?」

周囲は答えた。

「2人いるぞ。ほら、あそこの親子だ。だがボウズ、ちょっと待ちな。今、いいところなんだ。邪魔するもんじゃないぞ」

少年は困惑した。彼が手にした電報の表には「緊急」と打たれているのである。少年は隙をついて観衆の前に飛び出し、父親のトムに電報をそっと渡した。

トムは、その電報をトミーに見せないようにそっと開いた。

「難産。至急、帰られたし」

トムは戸惑った。白熱した試合は残りわずかに2ホールであり、あと30分もすれば終わる。しかも次の汽車に乗るにしてもまだ数時間も先のことなのである。トムは電報をそっとポケットにしまった。

結局試合はモリス親子の勝利となった。

試合が決着し、大観衆の雄たけびのような大歓声がよくやく収まったころ、トムはトミーに囁いた。「帰ろう。メグがよくない」。

しかし汽車だとセント・アンドリュース到着は翌日の午後になってしまう。どうしたものかと思案しているところへ、ノースベリックの会員の一人が「海路、フォース湾を横切り、直接セント・アンドリュースに行くのが1番早かろう」と提案し、自らのヨットと使用人を提供した。

洋上、凍りついたような表情で1点を見つめ続けるトミーに、トムはかける言葉すら見出せない。2人の間には冷たい海風だけが流れていた。

ヨットが無事、セント・アンドリュースの湾に入ったのは日付が変わってまもなくのことであった。そこにトムの弟であり、トミーの伯父にあたるジョージがボートを漕いでやってきた。彼は悲痛な表情でトムに耳打ちをした。トムはそっと目を閉じ、ひとつ大きく息を吸い込んだ。そして何かを決心したかのように小さくうなずくと、青ざめるトミーに静かに告げた。

「トミー。メグは天に召された。赤ん坊もだ。残念だ」

その瞬間、トミーは大きく目を見開き、全身を細かく奮わせた。そして長い長い沈黙の後たったひと言「嘘だ…」と、うめくように呟き、その場に崩れ落ちた。

トミーの慟哭は激しく続いた。トムはその間黙って湾内をぐるぐると回遊させ続け、2時間後にトミーがある程度、落ち着いたのを見計らってボートを岸へと着けた。

家に辿り着き、そっと寝室のドアを開けた。そこには妹のリジーと末弟のジャック、そして医師や助産婦らに囲まれ、既に永遠の眠りについたメグの姿があった。そしてその横には、生きて両親に抱かれることすら叶わなかった小さな命が真っ白な布に巻かれて置かれていた。男の子だった。

子宮破裂による失血死だったという。4時間に亘って大量失血が続き、その中でメグも赤ん坊も力尽きた。

貧しい鉱山の町に生まれ、幼い頃から親の手伝いで坑道に入っては毎日、爪の中まで真っ黒になりながらも明るく生き、いつしか聡明で美しい女性へと成長したメグ。エジンバラやセント・アンドリュースでは夜明けから深夜まで休むことなく働き続けた。やがて心優しきトミーと出会い、結ばれ、愛する人の子を宿した。幼い頃から夢に見てきたあたたかな家庭は、まさに目の前にあった。その、ささやかな幸せを掴もうと手を伸ばした瞬間、突然何もかもが終わってしまった。まるでシャボン玉がパチンとはじけて消えるように。

結婚からわずか10ヵ月目のことであった。

彗星の運命 

セント・アンドリュースの町に、北海から冷たい秋風が吹き込み始める9月の中頃、メグと赤ん坊の葬儀が盛大に執り行われ、ゴルフの聖地は深い悲しみに覆われた。通常の葬儀代が3ポンド程度だった時代にあって、メグたちの葬儀には50ポンドが費やされたという。

2人の棺は、セント・アンドリュース大聖堂跡の横にある、小さな墓地の一角に埋葬された。

プレストウィックで行われたその年の全英オープンに、当然ながらトミーの姿はなかった。

メグの死から1ヵ月。トミーの心はいまだ、出口があるとも思えない漆黒の闇の中をさまよっていた。周囲の人々はトミーが再びその瞳に精気を取り戻し、天空に向かって急上昇するツバメのような、強烈なショットの復活を願っていた。

10月の半ば、友人らは遂にトミーをゴルフ場に引っ張り出すことに成功した。しかしもう、そこにはかつての溌剌としたトミーの姿はなかった。彼の心は、教会墓地に眠る妻と息子のそばにあるかのようであった。

わずか17歳で全英オープンで優勝し、その後1年の空白を経てこの大会を4度連続で制覇したトミー・モリス。まさに彗星のごとく現れた天才児であった。しかし突然現れ、突然去っていくのが彗星の運命である。その意味で、トミーは本物の彗星であった。

1875年のクリスマス・イヴ。トミーは友人らに誘われ、クリスマス・イヴを祝い、夜11時ごろに帰宅した。病が悪化し寝たきりになっていた母ナンシーであったが、この時まだ起きていてトミーは母の寝室でひとことふたこと言葉を交わした。続いて父親にも挨拶をしてから自室へ入り、そのままそっと眠りについた。

この夜、セント・アンドリュースに月はなく、大きな闇がモリス家を包みこんでいた。

12月25日、クリスマスの朝。トムはいつものように早起きし、妻と2人の息子と共に軽い朝食を済ませた。

いつもなら早起きのトミーが起きてこないことを心配したトムが、トミーの寝室のドアをノックしながら「もう10時だ。そろそろ起きて朝食にしないか」と声をかけた。しかし返事はなかった。悪い予感と共にトムは寝室のドアをそっと開けた。

「ああ、何と言うことだ…」。トムはベッドの傍らで呆然と立ち尽くした。

トミーは既に冷たくなっていた。永遠の眠りであった。しかしその表情は、メグが召されてから誰にも見せることがなかった、穏やかで幸せそうな表情であったという。

墓地の壁に掲げられたトミーのモニュメント。ゴルフの聖地、セント・アンドリュースならではの風景だ。

午前11時、駆けつけた医師によりトミーの死亡が確認された。死因は肺の内出血だったという。24歳と8ヵ月。短くも太い人生であった。

死の数日前、凍てつく寒空の下、6日間にわたる過酷なマラソンゴルフを続けたことが直接の原因ではないかとされている。特にコースに雪が舞い降りた日は、誰もがやめるよう説得したにも関わらず、なぜかこの時のトミーは頑なにこれを拒み、プレーを続けたという。

トミーはその時に肺炎を患い、それがもとで死んだ。しかし町の人々は「トミーは愛するものを失った悲しみで心臓が張り裂けたのだ」と囁きあった。

哀れなトム。彼はわずか4ヵ月にも満たない間に、義理の娘と孫の葬儀を出し、今度は息子の葬儀のために奔走しなければならなかった。

トミーの葬儀は12月30日に執り行われた。トムは借金までして当時としては破格の100ポンドを費やし、壮大な葬儀を執り行った。息子を偉大なるチャンピオンとして送りたかったのである。この日、トミーを見送る人たちでセント・アンドリュースの家の半分以上が空になったとされる。

トミーは、メグと赤ん坊の真横に並んで埋葬された。

トミーの死から3年後、スコットランドとイングランドの名だたる60のゴルフクラブから寄せられた基金を元に、大理石製の立派な記念碑が作られ、トミーの墓のそばに掲げられた。そこには、バルモラル帽を被り、ツイードのジャケットを着たトミーが、今まさにボールを打たんとする颯爽とした姿が刻まれている。そしてさらにセント・アンドリュース大学のタロック教授による碑文がそこに添えられた。

「チャンピオンベルトを続けて得ること3度。これを保持するも1人とてうらやむ者なし。その善良なる性質はゴルフでの偉業に勝るとも劣らず。多数の友人と全てのゴルファー、ここに深い哀悼の意を表す」。

いつ訪れても、この記念碑の前には誰が添えたか、真新しい花が飾られている。記念碑は丁寧に磨きがかけられているらしく、今もトミーが残した大記録と共に、変わらぬ輝きを放ち続けている。

トミーのゴルフ

トミーのゴルフの腕前がどの程度であったか、映像が存在しない以上、数字や証言に頼る以外ないが、1869年、彼がまだ18歳の時、セント・アンドリュースのオールドコースにて77という前人未到の最小スコアを達成している。当時のオールドコースは既に全長6500ヤードほどもあり、コースの整備状況は今と比較にならないほど粗悪だった時代である。さらにガッティボールと木製クラブで叩き出した77は、まさに驚異的な数字であった。
少年期のトミーは学業優秀であったが、次第にゴルフにのめりこむようになっていった。10歳のころのトミーはA地点からB地点に行くためには一本のまっすぐな道筋しかないと思い込んでいるかのようだった。父親のトムはトミーにA地点からB地点に駒を進めるには、無数のルートがあり、さらに戦略的にあえてC地点を経由させるという様々な選択肢があることを教え込んだ。それ以降、トミーは各ホールごと常に1ダースほどの攻略ルートを頭に描きながらプレーするようになったという。
トミーは身長173センチと、決して大柄とは言えないが、幅の広い肩から生まれるショットは強烈で、フルスイングをするたびに被っていた帽子が飛んでいくほどであった。また素振りの際のワッグル(小さな素振りのようなもので、クラブヘッドを左右に小さく動かすこと)だけで木製のクラブを根元からへし折ってしまうほどに腕っぷしも強かった。アプローチショットではボールを右足の前に置き、オープンに構えてダウンブローに打ち込むやり方で当時としては極めて斬新なスタイルで、強烈なバックスピンがかけられたアプローチは正確無比を誇ったという。

■参考文献
『Tommy's Honor』Kevin Cook / 『The Life of Tom Morris』W.W. Tulloch / 『Tom Morris of St Andrews』David Malcolm and Peter E. Crabtree / 摂津茂和著『ゴルフ史話』(ベースボールマガジン社)

週刊ジャーニー No.999(2017年8月31日)掲載

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