イタリアでの文芸復興
創作への目覚め

チョーサーがいつから創作を始めたのか定かではないが、結婚から数年後、王の側近を務めていた彼は、宮廷で開かれる昼・晩餐会にて「物語でもてなす」という天職に巡りあう。披露する物語はロマンスから喜劇まで幅広く、自作のショートストーリーを声高に読み上げ、宮廷人たちの歓心を得るようになった。ちなみに、1369年にジョン王子の最初の妻が亡くなった際に書いた哀悼詩「公爵夫人の書(The Book of the Duchess)」が、チョーサーの最初の作品とされている。
やがて外交使節としてたびたび赴いたイタリアで、ルネサンスを代表する詩人・人文主義者のペトラルカと親交を結んだり、同じく詩人のダンテやボッカッチョの傑作に触れたりして刺激を受け、イタリアに興った文芸復興の力強い息吹をみるみるうちに吸収していった。とくに「カンタベリー物語」は、「アラビアンナイト」に似ていると前述したが、実際にはボッカッチョの短編集「デカメロン」に登場する『十日物語』(フィレンツェで蔓延したペストから逃れようと街から離れた10人の男女が、気晴らしに10日間、毎日1話ずつ話をするという物語)の影響を強く受けた作品とされている。チョーサーはこれを巡礼の旅に変え、自身がそれまでに耳にした噂話や書物から得た逸話、そしてオリジナルで創ったとされる話などで構成したのである。
1374年にはロンドン港における関税と特別税の検査官となり、衣食住も給与も申し分のない報酬を受けていた時代は1385年まで続く。その後、イングランド南東部ケントに移った彼は、治安判事に就任。翌年には同地の議員を1年間務めた。そして、これらの職務の合間に「トロイルスとクリセイデ(Troilus and Criseyde)」や「善女列伝(The Legend of Good Women)」の刊行、「カンタベリー物語」などの執筆を重ね、詩人としての名声も着実に得ていった。
1387年に妻のフィリッパを亡くすという不幸に見舞われたが、間もなく王室関連施設の修理工事官に任命され、ロンドン塔やウエストミンスター宮殿といった重要建造物を多数手掛ける。階級制度が明白な時代に、「カンタベリー物語」に登場する上流階級から下層民まで、個性豊かな登場人物に息吹を与えることができたのも、生涯を通じて数多くの職務に就き、そこで出会った人々があってのことなのかもしれない。

19世紀の画家、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスが描いた「デカメロン」。暇をもてあました女性たちに、男性が話を語り聞かせている。

「取り消しの言葉」にみる後悔と懺悔

15世紀初めの写本に描かれた、チョーサーの肖像画。

イタリアなどヨーロッパを飛び回っていたチョーサーは、妻と過ごす時間は多くなかったものの、2人の子どもに恵まれた。権力者のパトロンにも寵愛され、詩人としても成功し、華やかな人生を送ったかに思えるが、そんな彼も「老い」からは逃れられなかった。
晩年の10年以上を費やして書かれた「カンタベリー物語」は、30人あまりの巡礼者たちが当初の設定通り、カンタベリーへの行きと帰りに2話ずつ話をしていれば、全120話にもおよぶ超大作になっていたはずだ。しかし実際には1人1話ずつ、しかも全員が話すこともなく、全24話で終わっている。執筆半ばにして死を迎え、未完のまま終わったように見えるため、「未完の大作」とも呼ばれているが、実は巻末に、それまでの全著書の執筆を悔やむ「取り消しの言葉(Chaucer's Retraction)」が記されている。
「これらを読んで何らかの知恵が生じ、喜ぶべきものを見つけたのなら、イエス・キリストに感謝を。そうでなければ、著者の能力不足のせいにしてほしい」
自分なりに終止符を打っているようにも見える「取り消しの言葉」。妻亡き後、子も巣立ち、男やもめとして年金生活を送る中で、老いていく自分を実感していたのだろうか。執筆作業は進まず、だんだんと悲しみに暮れる詩が増えていき、生きることに幻滅して創作意欲をなくしてしまったという説もある。「カンタベリー物語」の最後のページは、この「取り消しの言葉」で幕が閉じられており、当時そして今に伝わる名声とは裏腹に寂しい晩年を感じさせる。
1399年、チョーサーは何かを予期したかのように、ウエストミンスター寺院の庭園内に家を借り、翌年10月25日に死去。享年56~57だったとされる。そのまま同寺院に埋葬され、現在は英文学史における中英語期の最大の詩人として、詩人の墓所(Poets' Corner)で眠りについている。多くの観光客が日々訪れる同所なら、きっと寂しさを感じている時はないだろう。