戯言? 教訓?英国版「アラビアンナイト」

15世紀初めの写本「カンタベリー物語」の中から「バースの女房の話」のページ。

4月のある夜、ロンドンはテムズ河の東南岸、サザークの宿「陣羽織亭(The Tabard Inn)」。
ここに、聖人として崇められているトマス・ベケットの殉教の地、カンタベリーを目指す30人あまりの巡礼者たちが宿を共にしていた。それぞれ身分も職業も異なる人々だが、宿の主人は偶然にも同じ目的で集まった彼らに、退屈しのぎとして粋な提案をする。「巡礼の途、行きと帰りに1人2話ずつ話を披露しないか。もっともためになり、もっとも楽しい話をした者には、宿に戻った際の夕食をみんなでおごろうじゃないか」――。
こうして始まる「カンタベリー物語」には、14世紀に実在したであろう聖職者や庶民の思想、振る舞いなどのヒントが散りばめられており、ただの旅物語に留まらない未知の世界へと我々を誘ってくれる魅力がある。1066年の北フランスのノルマンディー公(のちのウィリアム1世 )によるイングランド征服以来、書物に使われる言語といえば、宮廷など上流階級の人々が使用していたフランス語と、書き言葉専用として用いられていたラテン語が一般的だった。そうした時代に庶民の話し言葉である英語で執筆された「カンタベリー物語」は、「英文学の礎」ともいうべき重要な作品なのだ。
巡礼者らが次々とショートストーリーを披露するスタイルは、ペルシャ王に妻が毎夜物語を語り聞かせるという手法で書かれた説話集「アラビアンナイト(千夜一夜物語)」に似ている。崇高かつ説教くさい話もあれば、庶民の間で流行っているゴシップ、思わず顔をしかめたくなるような与太話もあり、中世を舞台にした多様な芝居を見ているかのような気にさせられる。
とくに著者が男性だからか、女性や妻に対する愚痴や理想論はたびたび登場。5回もの結婚歴を持ち、色恋沙汰に関しては百戦錬磨というバースに住む女房が、男性陣に「いつ寝取られ男になるかとびくついて暮らすほど若く美しい女を妻にするか、真心と安心感のある年老いた醜い女を妻にするか」という究極の選択を投げかけ、神学生、豪商、近習らが結婚に対する様々な意見を交わし合う場面などは、当時の人々が夫・妻に求めたものや金銭的価値観、対人関係がわかり、興味深く読めるだろう。

19世紀に描かれた、カンタベリー詣でをする人々。騎士や商人、農夫、尼僧まで様々な人々が、道中の安全のために集団で聖地へ向かった。

王族に目をかけられた 順風満々な人生

「カンタベリー物語」の中には、チョーサー自身も登場人物のひとりとして出てくる。小太りでシャイだったとされる自分の姿を「腰格好が立派で、顔つきがぼんやりしている男」と自嘲気味に描写するなど、少々屈折した面も見られるが、キリスト教的思想が中心の社会で、罹患すると死に至るペスト(黒死病)が猛威を振るい、圧政と長期に及ぶ戦争が繰り広げられる中、いかにして豊かな想像力を得たのだろうか。
チョーサーの生年は諸説あるが、1343年頃にロンドンのシティに代々続く、裕福なワイン商の息子として誕生。庶民の公用語である英語はもちろん、初等学校ではラテン語を、家に帰ればフランス語を耳にするような(上流階級の顧客が多かったため)、当時としては恵まれた教育環境の中で育った。宮廷でも顔の利く父を持ったおかげか、チョーサーは初等教育を修了すると、当時の国王エドワード3世の三男で、エドワード黒太子の弟にあたる王子、ライオネル・オブ・アントワープの妻の小姓となっている。
1359年には、フランスとの百年戦争にライオネル王子とともに出征して捕虜となるも、エドワード3世が身代金の一部を負担し釈放されるという格別な措置が取られている。ここから察するに、チョーサーは王族に気に入られており、詩人としての才能を開花させる前に、すでに強い後ろ盾を得ていたように見える。
そして1366年、23歳頃にエドワード3世妃の侍女であったフィリッパと結婚。フィリッパは王の四男である王子、ジョン・オブ・ゴーントと「深い仲」であったとされ、また彼女の妹も同じくジョン王子の愛人になったことから(のちに3番目の妻となっている)、チョーサーは宮廷人として一目置かれるようになっていった。ジョン王子は、やがて詩人として活動を始めたチョーサーをパトロンとして支えていくことになる。