雑誌での「別居宣言」

晩年のディケンズと、13年間ともに過ごした愛人のエレン・ターナン。
晩年のディケンズと、13年間ともに過ごした愛人のエレン・ターナン。

1858年、46歳を迎えたディケンズはロンドンを離れ、幼少時代の思い出の地、チャタムにあるギャッズ・ヒルに新居を構えた。演劇活動を通して知り合った当時19歳の若手女優エレン・ターナンと愛人関係にあったディケンズは、22年連れ添った妻キャサリンと別居し、エレンと一緒に暮らしはじめたのである。
別居に至るまでの道のりは、泥沼だった。ディケンズは妻と寝室を分けるために隣接する衣裳部屋で眠り、部屋を行き来できないよう扉を木板で封鎖。やがて家にも帰宅しなくなり、最終的には自身が手がける雑誌の紙面上で一方的に別居を宣言した。あまりの強硬手段に、子供たちも大きく反発したという。
目論見どおりに新生活をスタートさせたが、別居中とはいえ妻と子供たちを養わなければならず、また愛人とその家族(エレンの父親は早逝していた)の生活も保証することになった彼は、以前から児童養護院などで行っていた慈善の自作朗読会に加えて、収入を得る手段として有料の公開朗読会を開始する。著者本人による朗読会は当時かなり珍しいものだったが、ディケンズは自作の朗読が友人らの好評を博したことに気を良くして、たびたび朗読会を開いていた。多くの友人たちが文豪としての名声を得た彼が役者のように巡業することを強く反対したものの、ディケンズはおかまいなしに各地を訪問した。これには創作よりも手っ取り早く収入が手に入るという理由もあったが、芝居好きであった彼にとって、役柄になりきって朗読し、聴衆から拍手喝采を浴びる体験が大きな魅力となっていたことも事実だろう。女優であった愛人エレンの影響も少なからずあったかもしれない。

破棄された遺言

劇場のステージ上に立ち、自作朗読会を行うディケンズ
劇場のステージ上に立ち、自作朗読会を行うディケンズ

朗読ツアーは各地で大きな成功を収め、ディケンズは身動きができないほどの聴衆に囲まれることもあった。なかでも一番人気があった朗読作品は、やはり「クリスマス・キャロル」。だが、精力的な巡業公演は彼から創作時間を奪い、「二都物語」「大いなる遺産」の発表以降、机に向かうことは減っていった。
1865年、フランスで休暇を過ごしたディケンズを悲劇が襲う。英国への帰路で、エレンと一緒に乗っていた列車が、ロンドン南東のステープルハーストで鉄橋から転落するという事故に遭遇したのだ。2人の乗っていた車両は辛うじて難を逃れたものの、多くの死傷者を出した事故の精神的ショックは大きく、彼はその後PTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされることになる。心的ストレスから創作活動にまったく手がつかなくなってしまっただけでなく、度重なる旅の疲労は健康を蝕み、不眠、食欲不振、慢性的な足の腫れ、心臓の痛みなど、数知れない症状に苦しみ、急激に衰弱していった。

博物館に展示されている、朗読会でディケンズが使った本。朗読方法についての細かい書き込みが見られる。
博物館に展示されている、朗読会でディケンズが使った本。朗読方法についての細かい書き込みが見られる。

やがて医者から朗読を禁じられ、本来の作家活動に立ち戻ったディケンズであったが、月刊分冊で刊行しはじめた長編小説「エドウィン・ドルードの謎(The Mystery of Edwin Drood)」の完成を待たずして、1870年6月8日、ギャッズ・ヒルの自宅で昏倒。意識の戻らないまま、翌9日の午後、静かに息を引き取った。享年58、脳溢血が死因であった。
実は、ディケンズは死の1週間ほど前、派手な葬儀や記念碑の建立を辞退し、「私人」としてチャタム近郊にある都市ロチェスターの大聖堂に埋葬するよう遺言をしたためていた。ところが、その希望は叶わず「国家の偉人」として盛大な葬儀が行われた後、ロンドンのウェストミンスター寺院に埋葬された。彼の墓碑に刻まれた言葉は、「貧しき者、苦しめる者、そして虐げられた者への共感者」。自身の体験をもとに、慈善精神の大切さや環境の改善を訴え続けた社会派作家は、今もなお「英国の良心」として人々に愛され、各界の錚々たる著名人とともに、ウェストミンスター寺院の「詩人コーナー」で眠っている。