暗黒時代に生まれた名作

ディケンズは新聞記者を辞め、作家としての道を歩みはじめると同時に、記者経験を見込まれて月刊誌「ベントリーズ・ミセラニー」の初代編集長に任命された。彼は編集作業にいそしむとともに、同誌に初期の代表作となる「オリバー・ツイスト」も連載。また、自らの短編小説をもとに軽喜劇の舞台を上演するなど、精力的な創作活動をスタートした。やがて出版社と契約上の不和が生じ、編集長の座を退いてからも雑誌編集への情熱は止み難く、28歳で自らが執筆・編集を務めるワンマン週刊誌「ハンフリー親方の時計(The Master Humphrey's Clock)」を発行。そこでも自作を連載し、英国のみならず米国でも多数の読者を得たことから、1842年、ディケンズは妻を伴って長期の米国旅行も決行している。行く先々で大歓迎を受け、各地で開かれた講演会や自作の朗読会は、常に「満員御礼」だった。
このまま順風満帆に大文豪への道を邁進していくように思われたが、米国旅行から帰国した翌1843年頃から、ディケンズは作家として初のスランプ期に突入する。なかなか新作のアイディアが浮かばず、やっと新たに連載しはじめた長編小説も、これまでのような支持を得ることができずに売れ行きは低迷。大家族を養わねばならなかった彼は、経済的にも苦境に立たされてしまう。
しかしながら、幸運の女神はディケンズのもとを去りはしなかった。
同年の12月、中編小説「クリスマス・キャロル」を自費出版。この小説は、冷酷無慈悲で強欲な「町の嫌われ者」スクルージが、これまでの自身の行いを反省して改心し、町の住民と初めて心からクリスマスを祝う人間愛を強く押し出した心温まる物語。「クリスマスの物語など売れない」と出版社に断られたために自費出版となった小説だったが、その予想を裏切って大いに売れた。
もともとディケンズは、孤児など貧しい市民を主人公に据え、社会的弱者の視点で物語を描くのを得意としていた。社会の「陰」の部分を小説内で表現することで、その実態を世に広めようとしたのである。そしてスランプ中に取材の一環として訪れたカムデン地区の貧民学校で、児童を取り巻く環境の劣悪さに愕然とし、靴墨工場で労働に明け暮れた幼い自分を思い出した結果、彼が書き上げた作品が「クリスマス・キャロル」だった。
発売からわずか6日で完売した大ベストセラー本に感銘を受け、自らもスクルージのように心を改めようとする人々が続出した。街中ですれ違うたびに「メリー・クリスマス」と挨拶を交し合い、救貧院や孤児院への寄付金額も急増。夕食時が近づくと、家族で食卓を囲むために人々は家路を急いだ。この年には世界初の商業用クリスマス・カードが登場したほか、ヴィクトリア女王と結婚したドイツ出身のアルバート公が、同国の伝統であったクリスマス・ツリーを飾る習慣を英国へと持ち込んだことも、クリスマスの過ごし方を見直す後押しとなったと言えるだろう。偶然の出来事が重なったとはいえ、我々がイメージするクリスマスの風景はディケンズが生み出したと言っても過言ではないのだ。
これを機に、彼は毎年12月になると『クリスマスの本』を発表するようになる。生涯で執筆したクリスマスの物語は5冊ほど、クリスマスの風景を描いた中短編となると20作品以上に及んでいる。

主人公の心の変化に注目!「クリスマス・キャロル」って、どんな話?
クリスマス・キャロル

クリスマスを間近に控えたある夜、強欲で冷血な商売人スクルージ(Scroogeは英語で「ケチ」の意味)のもとに、死んだはずの共同経営者マーレイが現れる。スクルージと同様に非情であったマーレイは、生前の行いの悪さゆえに天国へ行けないことを話し、「明日から毎晩3人の幽霊がやって来る。その幽霊たちがスクルージを救ってくれるだろう」と言い残して消えた。

クリスマス・キャロル
スクルージ(左)のもとに現れる、マーレイの幽霊。(「クリスマス・キャロル」挿絵より)

やがて姿を現した3人の幽霊は、スクルージに自身の過去・現在・未来を見せていく。友人もなく寂しく過ごした子供時代、あまりに強欲なために町一番の嫌われ者となっている現在、そして死んだ後に身ぐるみ剥がされ誰ひとり自分の死を悲しまない未来…。スクルージは今までの所業を悔い、これからどのように生きればいいのか、幽霊に教えを乞う。