■ 第191話 ■だからクジラ食え
▶鉄砲や銛を抱えて3艘の小舟に分乗した英捕鯨船員20 数名が宝島に上陸した。次の瞬間、沖合にいる母船の大砲が火を噴き、波間に大きな水柱が立った。威嚇射撃だ。前2 回の上陸時、表向き友好的に接して来たイギリス人。遂に本性をあらわし海賊と化した。彼らは高性能の鉄砲を撃ちながら畑へと入り牛を追い始めた。すぐに黒牛2 頭が捕獲された。さらに1頭が尻を撃たれ、その場にうずくまった。4 人の男が倒れた牛を取り囲み、楽しそうに解体した。久々のBBQ。そりゃ嬉しかろう。その後、2 頭の牛を引き、さらに解体した牛を担いで浜の方に下りて行った。鮮血を浴びて真っ赤に染まった異人たち。赤鬼そのものだった。
▶強奪された3 頭は全て牝牛だった。大損害だったがこれで大人しく捕鯨船が去れば単なる牛泥棒事件。ところが隊を指揮していた男とその部下2名、合計3 名が略奪目的か腹いせか、村落に向かって坂を駆け上がって来た。吉村九助は覚悟を決めた。目付として島 に出向していた九助だけは新式の火縄銃を所有していた。藪に身をひそめて彼らの接近を待った。そして先頭の男が約8メートルに迫ると引き金を引いた。ズドンという轟音と共に白煙が上がった。男は突っ込んできた勢いのまま前のめりに倒れた。後ろをついて来た2 人は突然のことに慌てふためき、奇声を上げながら転げるように坂道を下って行った。
▶彼らは2 度の下見で島民が火器を所有していないと踏んだ。それで安心して牛を盗みに来たがまさかの反撃に遭い慌てて撤退した。次助が倒れている男を確認した。弾丸が左胸を貫通しており、既に絶命していた。年齢28 ~ 30 歳、赤毛で鼻高く目の窪んだ身長180センチを超す大男だった。山ほどクジラを殺しては食わず、陸に牛肉を求めた結果、彼らは船員1 名を失った。だからクジラ食えって。うんめえぞぅ。仲間の生死を知らぬ捕鯨船が救出と島の殲滅を目論んで再上陸して来るかもしれない。事実、捕鯨船はその後も島の周囲をうろついた。マストの上に昇り、望遠鏡でしきりに島の様子を窺った。しかし島民がどれほどの武器を所有しているのか、彼らは知らない。しょせんは捕鯨船。本社や政府の許可も正当性もない状態で他国と衝突するのはマズい。
▶事件から3 日後、捕鯨船は仲間の奪還を諦め、ようやく波間に姿を消した。牛3 頭を強奪された宝島。島殲滅という最悪の事態は免れた。しかし捕鯨船の置き土産、異人の遺体が超厄介だった。九助らは検分と報告のためイギリス人の遺体を本土まで運ばなければならない。一旦埋めてあった遺体を掘り起こし、口と肛門に竹筒を差して塩を詰めた後に樽に移し、更に塩漬けにした。遺体は鹿児島経由で長崎奉行所まで運ばれ、検分の後、キリシタンが多く眠る西坂に無縁仏として埋葬された。ステーキ食いたい一心で強盗を働き、返り討ちに遭った。そんな恥ずべき悪行を捕鯨船が本国に報告できる訳もない。そのためイギリス側には事件に言及する記録が存在しない。この「宝島事件」を機に幕府は翌1825 年、異国船打ち払い令を発布。許可なく近づく異国船に砲撃を加えた。1842 年、清がアヘン戦争でイギリスにボコボコにされると「やべっ」と思った幕府、同年この打ち払い令を撤回した。事件の舞台となった宝島。イギリス人が駆け上がって銃弾に斃れた一本道はいつしか「イギリス坂」と呼ばれるようになった。てなこって次号に続く。チャンネルはそのままだ。
参考:吉村昭著 「幕府軍艦『回天』始末」
週刊ジャーニー No.1312(2023年10月19日)掲載
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