■ 第190話 ■戦争はこうやって始まるの?
▶宝島に上陸した7人の異人たち。対応した薩摩藩士松元次助、上陸の意図を確かめねばならない。青い目の小柄な男が前に出た。遠くで草を食む牛を指さし、胸の前で手を合わせる動作を繰り返した。「牛を所望しておるのか」。理兵衛と次助がほぼ同時に呟いた。2人とも長崎のオランダ人が牛や豚などを食べるという話は聞いていた。宝島島民にとって牛は超貴重な労働力。畑を耕し、サトウキビを圧搾するための動力でありトラクターやプレス機の役割を果たす。大切な農機具を食われる訳にはいかない。次助は頭を大きく左右に振った。異人たちは落胆した。次助の腰にぶら下がる日本刀の切れ味を聞き及んでいた彼らはそのまま大人しく母船へと引き上げていった。
▶ほとんどの村人が島の山間部に逃げ込んでいた。彼らは明朝にでも牛を奪いに戻って来るかもしれない。村の役人らは夜通しで厳戒態勢を維持することを決めた。7挺ある火縄銃が入念に手入れされた。ほとんどが戦国時代の旧式のものだった。竹を切って先端を尖らせ、先を焦がして竹槍を揃えた。地図メーカーですら描き忘れそうな小さな島で戦争が起こるかもしれない。夜明けとともに遠見台に張り付いていた男が息を切らしながら番所に駆け込んできた。「異国船が戻って来た」。村役人や警護にあたっていた男たちの顔から血の気が引いた。いくさ経験のある者などいない。他の番所からも次々と異国船再接近の報が届いた。午前九時半、異国船は前日と同じ辺りで錨をおろした。再び小舟が下ろされ、前日同様7人の男が乗り込むのが見えた。
▶今度は吉村九助という目付が対応する手はずになっていた。九助は屈強な若者二人を従えて浜に向かった。異人たちが上陸して来た。昨日と違う顔ぶれだった。彼らは一様に緊張した笑顔を浮かべながら近づいて来た。何やら書かれた紙を見せたが九助に読めるはずもない。やがて一人の男が棒で地面に2つの大きな丸を描いた。一つを指さし「オランダ」と言った。そしてもう一つの丸の中に自ら歩み入り、胸を張りながら「エンゲレス」と言った。次に大きな魚のようなものを描いた。潮を吹いていた。男はそれを銛(もり)で突いた。九助は彼らがエンゲレスの捕鯨船員であると理解した。九助は母船を指さし「何人乗っておるか」と尋ねた。彼らは両手の指を全て広げ、それを7回、前に突き出した。70人。かなりの人数だ。彼らは布袋を担いで来ていた。袋の中から陶製の瓶を取り出しグビグビっと飲むふりをしたかと思うと千鳥足になった。どうやら中身は酒らしい。他にカラカラに乾いたパンや金貨、銀貨、ハサミに時計などを取り出して広げ、牛を指さし両手を胸の前で合わせた。牛と交換して欲しいと言っているらしい。
▶「牛はやれんのだ」。九助は頭を横に振り、持参した野菜を指さし「これを持って立ち去られよ」と告げた。エンゲレス人は不満げに持参したものを袋に戻し、野菜を抱えて立ち去った。牛を譲れない理由が伝えられない。もどかしかった。小さくなっていく小舟を見送りながら九助は小刻みに震えた。脳裏を「フェートン号事件」がよぎった。「こんままでは済まんど」。九助は正しかった。数時間後、遠見台の見張りたちが駆け込んできた。「小舟が3艘下ろされた。鉄砲や銛を持った20数人が乗り込んだ」。牛を巡っていくさが始まる。じゃっどんここらで紙面が尽きもした。次号に続きもす。チャンネルはそんまま、でごわす。
参考:吉村昭著 「幕府軍艦『回天』始末」
週刊ジャーニー No.1312(2023年10月12日)掲載
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