
■ 第184話 ■ヴィクトリア女王と日本
▶1861年末、アルバート公が死んだ。妻のヴィクトリア女王は以降10年間、喪に服す。愛する夫を亡くした悲しみは分かるけど立憲君主国のトップが10年も喪に服すって、ある? ある! 国政は議会が担う。政治は権力・利権ドロドロの世界。気難しい女帝はお部屋で紅茶でも啜っていてくれた方が好都合。筆者、この辺りのことをしつこく調べているのには訳がある。ペリーが浦賀に来て以来、日本は上を下への大騒ぎ。なんせ260年続いた徳川の世があっという間に崩壊しちゃう。そして土煙の中から誕生した明治日本はビックリするほどイギリスに似ていた。幕末期、横浜にいた某英系商社には本国の親分から「日本を極東のイギリスにせよ」という指令が届いていた。日本が江戸の日没、明治の夜明けを迎えていた頃、遠いイギリスでは一体何が起きていたのか。
▶ヴィクトリアは生後8ヵ月で父ケント公を亡くした。少女時代はホイッグ党党首メルバーン卿を慕った。慕い過ぎじゃね? と周囲が疑うほど慕った。恐らくヴィクトリアには「ファザコン」の気があった。18歳で即位すると周囲はわがままで短気、癇癪持ちの女王を扱える男を探した。そしてドイツから連れて来たのがアルバート公。理知的で冷静で何よりイケメン。ヴィクトリア、たちまちフォーリンラブ。2人は結ばれた。夫婦となってすぐ清との間にアヘン戦争が勃発した。アイルランドで飢饉が発生し大勢が死んだ。クリミア戦争が勃発した。さらにアロー号戦争で再び清と激突。インドでは傭兵(セポイ)の大反乱があった。ほとんどがイギリスに有利な形で収束した。アルバート公と結婚して以降のヴィクトリアはパックス・ブリタニカど真ん中でイケイケ。しかしアルバート公は結婚から21年後、42歳で突然逝った。蜜月は突然終わり、以降10年に及ぶ服喪が始まった。

▶ヴィクトリアが喪に服し始めた翌62年夏、日本で生麦事件が発生した。斬り殺された英国商人に対する賠償金と下手人の首を求めるイギリスとこれを拒絶した薩摩藩が激突。薩英戦争に発展した。その間に品川で完成間近だった英国公使館が焼き討ちされた。やったのは長州藩の高杉晋作らだった。日英間に緊張が走る。ところがその裏で長州藩士5人がこっそりロンドンに向かった。5人の中には英国公使館焼き討ち実行犯の伊藤博文と井上馨もいた。なんじゃそれミステリーその1。64年9月には英仏蘭米四ヵ国の艦隊が下関砲台を攻撃する下関戦争があった。長州藩はボコボコにされた。65年、薩摩藩士19名がロンドンに向かった。テロ部隊か? 留学生だ。なんじゃそれミステリーその2。67年、将軍慶喜が大政を奉還し戊辰戦争が始まった。一方で元号は明治に改められた。日本にとっては激動の10年。西郷隆盛や勝海舟、坂本龍馬らが奔走していた頃、ヴィクトリア女王はなんと、ずぅ~っと喪に服していた。そんじゃこの間に起きた薩英戦争や下関戦争に「やっちまいな~」と勇ましく指令を出していたのは一体、誰なの?
▶ヴィクトリアが君臨した64年間、特筆すべき政治家が3人いる。第3代パーマストン子爵、グラッドストン、そしてディズレイリ。いずれも首相を務めた。アルバート公の喪が明けるまでをヴィクトリア治世の前編とすると、最も深く関与するのはパーマストン卿だ。ヴィクトリアには大嫌いな男が2人いた。そのうちの1人、パーマストン卿を語り始めるところで次号に続く。チャンネルはそのままだ。