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■ 第183話 ■アルバート公が死んじゃった

▶ヴィクトリア女王の夫アルバート公は胃痙攣を起こして倒れて以来、体調の優れない日々が続いていた。それでも子育てに忙しい妻に代って政務や公務を精力的にこなした。君主含めて「ヤバキャラ大図鑑」のような英王室にあってこのアルバート公、極めてまともな人物だった。王室は政治と距離を置くべきという原則を導入。国民には道徳的模範を示した。じゃじゃ馬ヴィクトリアは真に良き伴侶を得た。な~の~に~長男アルバート。父と名が被るアルバートはバーティーの愛称で呼ばれた。後にエドワード7世となる皇太子。バーティーは英王室初の大学生となった。オックスフォード大に入学したがその後、なぜかケンブリッジのトリニティカレッジに転校した。

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▶1861年11月、タブロイド紙がバーティーとアイルランド人女優ネリー・クリフデンのスキャンダルを報じた。ゴシップはたちまち社交界にも広まった。複数の男と浮名を流す、王室にとって好ましくない女性だった。メディアに醜聞を売り込んだのもクリフデン自身だった。バーティーはクリフデンと会うまでチェリーボーイだった。後の大英帝国君主様を「童貞」呼ばわりしていいの?だって英語の資料にそう書いてあるんだもの。アルバートとヴィクトリアはバーティーのチャラ男ぶりに頭を抱え、クリフデンの妊娠や脅迫に怯えた。さらにケンブリッジ大では悪いご学友たちと不良行為に及び、莫大な借金を抱えていると噂が立った。アルバート公は病を押してケンブリッジに説教に向かった。2人の間でどのような会話があったのか、定かではない。

5歳。可愛い盛りのバーティー
5歳。可愛い盛りのバーティーですが、何か?

▶ケンブリッジから戻った数週間後の12月14日、アルバート公が死去した。42歳だった。腸チフスと診断されたが、記録に残る数々の症状から今では胃がんだったのではないかと言われている。ヴィクトリアは悲しみに暮れた。暮れまくった。なんせこれから10年に渡って喪に服す。さらにその後も死ぬまで黒い服を着続けた。暗い。国民もたまったもんじゃない。翌年の7月に次女アリスがドイツ、ヘッセン大公国皇太子と結婚した。結婚式は一切の華やかさがなくドンヨリ暗かったため「女王が王女の晴れ舞台をアルバート公の葬式のように地味に暗くさせた」と批判された。

▶もともとバーティーのことを出来損ないのスットコドッコイと疎ましく思っていたヴィクトリアだったが、アルバート公の死を早めたとしてバーティー嫌悪は一層加速。公務からも外した。ケンブリッジ大でご学友とされた不良&親友はバーティーより1歳上のナサニエルと1つ下のアルフレッドと言う兄弟だった。苗字はロスチャイルド。偶然? な訳がない。兄ナサニエルは後にロスチャイルド・ロンドン家3代目当主となる。そしてユダヤ人として初めて男爵の爵位を授けられ、貴族院入りを果たす。バーティーはこの時、常軌を逸した放蕩生活から超特大借金を抱えていた。母ヴィクトリアは借金の額を聞き、腰を抜かしたと言われる。首相をつとめたロバート・ピール保守党党首もロスチャイルド家に多額の借金を負っていた。ピールは1844年にピール銀行法を発布し、ロスチャイルドが支配していたバンク・オブ・イングランドに独占的通貨発行権を与えた首相だ。権力者を巧みに借金漬けにした上でそっと救いの手を差し伸べ支配下に置く。ロスチャイルド家のお家芸に政府も王室もまんまとやられちまったところで次号に続く。チャンネルはそのままだ。

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週刊ジャーニー No.1305(2023年8月24日)掲載

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