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■ 第78話 ■超高速、生麦事件

▼チャールズ・レノックス・リチャードソン(Charles Lennox Richardson)。20歳の時に一攫千金を夢見てイギリスから上海に渡った。貿易に携わったがパッとせず、諦めて帰国する前に開港したばかりの横浜を訪れた。1862年9月、リチャードソンは知人3人と馬で川崎大師観光に向かう途中、生麦(川崎市鶴見区)で薩摩藩の大名行列と鉢合わせした。馬から降りて道を開ければいいだけだったが一行はそれを知らず、馬に乗ったまま行列に飲み込まれた。そして運悪く島津久光が乗る籠に接近したため警護していた侍たちに切られた。深手を負ったリチャードソンは必死で逃げたが力尽きて落馬。追手にとどめを刺された。享年29。他3名は逃げ延びた。リチャードソンは傲慢、粗暴でアジア人蔑視の傾向があった。上海では苦力(クーリー)に暴力をふるう姿が度々目撃されていた。生麦事件当日も「こういう連中の扱いは慣れている」と豪語していたとの証言もある。

▼イギリスはリチャードソンを利用した。「江戸を火の海にしたるでぇ」と幕府を脅して賠償金10万ポンドを巻き上げた。さらに薩摩にも「犯人を引き渡した上で謝罪し、賠償金2万5千ポンド払え」と迫った。やり口はほぼヤクザ。薩摩は「礼儀作法を知らんモンが悪か」とこれを突っぱねた。イギリスは翌年7月、軍艦7隻を鹿児島湾に向かわせ、薩摩の汽船3隻を拿捕し「謝るんだったら今だよ」と脅した。突然大砲が火を噴いた。どっちの? 薩摩の。薩摩は射程の短い大砲ながらドッカンドッカンイギリス艦めがけて砲弾を撃ち込んだ。イギリス側も慌てて応戦し、砲台を破壊した上、城下町を火の海にした。ところがイギリス側は艦隊司令官や副長をはじめとする13人が戦死、負傷者多数。一方薩摩側の死者は数名にとどまった。英艦隊が鹿児島湾を脱したことで戦闘は終わった。これが後に言う薩英戦争で、プチアヘン戦争になりかけたが薩摩は互角以上に戦った。欧米は薩摩の強さに衝撃を受けた。

チャールズ・レノックス・リチャードソン
事件後に安置されるチャールズ・レノックス・リチャードソンですが、何か?

▼その後は幕府の仲裁もあり、薩英は和睦を結ぶこととなった。イギリスは相変わらず下手人の引き渡しと2万5千ポンドの賠償金を求めた。薩摩は賠償には応じず、幕府から2万5千ポンドを借りて見舞金として払い、後にこれを踏み倒した。幕府が支払った総額12万5千ポンドって今の価値なら軽く100億円を超えているらしい。下手人に関しては「探してんだけど見つからないのよー。見つけ次第、処分しとくねー」と適当なこと言って濁した。薩摩もなかなかのヤクザ。生麦で起きた偶発事故を利用して莫大な賠償金をせしめたイギリスの暴挙は欧米でも疑問視された。叱られながらもイギリスはこの時、「幕府と違い、薩摩の肝の座り方、すごくない? もしかしたらこいつら、本当に幕府倒しちゃうんじゃね?」と思うに至り、こっそり薩摩に接触した。薩摩もイギリスの近代兵器を目の当たりにして、こりゃ利用価値ありそうだとイギリスに接近した。さんざん殴り合った後で「お前、なかなかやるな」と仲良くなっちゃった。まるで昭和の青春ドラマ。友情からじゃなくて利害だったけどね。

▼気の毒なのは幕府だ。巨額の賠償金をカツアゲされた上、薩英の間に入って奔走しているうちに喧嘩した当人同士が「幕府倒しちゃおうぜ」と内緒で手を組んじゃった。これを機にイギリスはますます幕末の日本に食い込んでくる。生麦村でリチャードソンが軽率にも薩摩の大名行列に突っ込み、殺害されたことでニッポンの歴史は大転換していく。イギリスはヤバいよヤバいよ~と盛り上げたところで次号に続く。チャンネルはそのままだぜ。

週刊ジャーニー No.1198(2021年7月22日)掲載

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