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異常なまでの美への執着

 公の場にとんと姿を見せなくなったエリザベートの評判は次第に落ち、「風変わりな女性=ゼルトザーメ・フラウseltsame frau」と呼ばれ、「皇妃(カイゼリン)は旅女(ライゼリン)=Kaiserin Reiserin」という囃子言葉まで流行りだした。それでもフランツ・ヨーゼフは旅先にせっせと手紙を送り、花束を贈ったり、愛妻が不自由のないように必要な物や資金を送ったりして尽くしたため、皇帝のほうは民衆から同情を集めて、さらに人気を高めていった。
 確かにエリザベートには、「風変わりな女性」と呼ばれるに値する常軌を逸した面があった。
 若さと美貌を永遠に保持するため、二十代からベジタリアンとなったエリザベートは日に三回体重計に乗り、痩身に専心。一七二センチという長身だったが、体重は四十五―七キロを保ち、ウェストは五十一センチにも絞り込まれた。断食を始めとする過度なダイエットのほか、北欧で生まれたばかりの体操を即座に取り込むなどして体形維持に努めた。背中がまっすぐになるよう枕は使わずに寝ていたという。


1869年撮影

 次に挙げるのは、エリザベートの主なダイエット法だ。現代の医学的・科学的見地からは必ずしも推奨できるものではないが、参考までに紹介しよう。
【野菜汁・果汁ダイエット】野菜や果物をジュースにして飲む方法。一日、オレンジ三個分で済ますこともあった。
【乳清ダイエット】牛乳から乳脂肪やカゼイン(牛乳に含まれるタンパク質)などを除去した水溶液「乳清」を飲む方法。乳清はタンパク質をほとんど含まない代わりにカリウムやカルシウム、ビタミンなどを含み、当時「命の水」と呼ばれていた。そのため乳清作り職人が高給で雇われ、旅先でも欠かさず振舞われた。
【肉汁ダイエット】生の子牛のもも肉を絞り、搾り出された血を加熱し飲む方法。アミノ酸やビタミン、ミネラルを豊富に含み、病人にも効くとされていた。ベジタリアンだったエリザベートが肉の代わりに摂取したといわれる。子牛の血は美肌効果があるといわれ、パックにも使用していたとか。


こちらもフランツ・ヴィンターハルターによるエリザベート。
1864年作。自慢の髪が美しく描かれている。
フランツ・ヨーゼフ1世の執務室に飾られていたもの。

 彼女の自慢はくるぶしまで届くほどの髪で、毎日の髪の手入れに二―三時間を要し、洗髪の際は三十個の卵黄とコニャックをブレンドしたシャンプーが使われた。髪が抜けることを嫌い、手入れの際に髪結い係がうっかり髪を抜いてしまったりすると厳しく叱りつけたという。
 姑ゾフィーに「顔は綺麗だが、歯が黄色く、歯並びが悪い」と言われていたことから、歯にコンプレックスを持ち、話すときは扇で口元を隠し、口数が極端に少なく、いつでも唇を固く結んでいたと伝えられる。人嫌いのため、宮廷内でも人に会うのを必要最低限に抑え、庭に出るのに自分専用の螺旋階段を作らせたというのは有名な話だ。
 また思想的にも当時の宮廷人としては突飛で、宮廷人でありながら君主制、貴族制を軽視していた。「革命詩人」と呼ばれるユダヤ詩人のハインリヒ・ハイネを「精神上の愛人」として慕い詩作にふけったが、ハイネは当時、急進自由主義者や社会批判家として宮廷で危険視されていたため、フランツ・ヨーゼフもこれには頭を痛めたという。さらには、子供の遊び相手に珍しくて面白いと、発育不全の黒人少年を買い取り、宮廷で世話した。これも当時の宮廷人としてはあるまじき行動だったが、エリザベートはこの少年に洗礼を施し、周囲を納得させ、子供の手が離れた後も充分な教育、技能習得を施し、宮廷で働かせるなどして目をかけた。
 美への執着、止ることのない旅癖、エキセントリックな志向、これらの共通項は莫大な費用がかかるということ。とくに旅では侍従たちを総勢七十名ほど従えて出かけることもあり、船でも列車でも御用特別客室・寝台を豪華に装備させたため出費がかさんだ。
 一方のフランツ・ヨーゼフは倹約家で知られ、皇帝服がほつれていても買い換えることを拒んで着続けたというが、その背後には、自分のことは後回しにしてでもエリザベートに不自由させたくないという思いがあったのかもしれない。自分の元へ嫁いできたためにかつての天真爛漫さを失ってしまったエリザベートに対し、責任を感じていたのだろうか。フランツ・ヨーゼフは、宮廷にほとんど居着くことがなく身勝手と評されるエリザベートの肖像画を書斎に掲げ、彼女の存在を常に身近に感じるようにしていたという。
 ちなみに、一八七三年に開かれたウィーン万国博覧会では、日本館・日本庭園が造られ、エリザベートは大工の技術に感銘を受け、鉋屑(かんなくず)を持ち帰ったと伝えられる。同年、使節団としてウィーンを訪れ皇帝夫妻に謁見した岩倉具視は、宮廷晩餐会でエリザベートの横に座ったとされるが、旅を繰り返し、人嫌いだったエリザベートに会えたことはきわめて幸運だったというしかない。


エリザベートの数少ない友人のひとりだった、
ルートヴィヒ2世の建てたノイシュヴァンシュタイン城。1890年頃。

不思議な三角関係
女優 カタリーナ・シュラット 町娘 アンナ・ナホフスキー

 愛妻家で一途と伝えられるフランツ・ヨーゼフだが、長期にわたる妻の不在に魔が差すことがまったくなかったといえば嘘になる。エリザベートが旅から旅を繰り返していた頃、フランツ・ヨーゼフはシェーンブルン宮殿で散歩している間に30歳年下のアンナ・ナホフスキーという町娘にひと目ぼれし、この娘と十余年にも及ぶ不倫関係を持った。
この関係を止めさせるために、エリザベートは皇帝がかねがね注目していた人気舞台女優、カタリーナ・シュラット=写真上=と皇帝の仲を取り持ち、「宮廷公認」の三角関係を始めたという。
町娘との不倫は断じて許せなかったが、妻としての役割をきちんと果たせていないことに負い目もあったのか、旅先にせっせと手紙や贈り物を送ってくる夫に多少心を打たれたのか、自分が選んだ女性をあてがうことで、エリザベートは自分の心にケリをつけたようである。
カタリーナは既婚者で子供もいたが夫と別居して芸を磨いていた頃で、エリザベートは、控えめで思いやり深いカタリーナの人柄に触れ、「彼女なら大丈夫」と太鼓判を押したという。クリスマスプレゼントにと皇帝にカタリーナの肖像画を贈ったり、旅先から2人に土産を送ったり、旅先に2人を招待したりしたこともあった。皇帝もまた邸宅はもちろん、別荘や家具一式、装身具などをプレゼントし、その後賭博でつくった借金まで肩代わりしてやるなどして彼女を優遇した。皇帝は何ひとつ隠さず、カタリーナと出かけたことや彼女の体調のことまでエリザベートに報告していたという。
エリザベートが暗殺された際、カタリーナは皇帝の心の支えとなり、再婚候補にもあがったほどだ。実際は身分が違いすぎるのと、皇帝が一生やもめで生きることを決意したため実現しなかったが、その後も2人の交友関係は皇帝が亡くなるまで続いたという。
ちなみにアンナ・ナホフスキーは、皇帝と愛人関係を結んでいる間に離婚、再婚を経ているが、皇帝が別れたい意向を告げると激しく抵抗し、何度も賜見を申し出た。皇帝との関係を口外しないという誓約書を書かされ、高額の手切金を渡されて引き下がっている。後年、皇帝との間に生まれていた娘、ヘレネが、アンナの生前の日記を国立図書館に預け、「自分の死後3年経ったら公開してもよい」とし、30年前にようやく2人の関係が明るみに出た。


フランツ・ヨーゼフ1世とアンナ・ナホフスキーが出会ったといわれるシェーンブルン宮殿の庭