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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年2月2日 No.969

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黒い瞳の伯爵夫人 クーデンホーフ光子の決意

黒い瞳の伯爵夫人

クーデンホーフ光子の決意

今からおよそ100年前。
ウィーン社交界で人々の注目を集めた、美しい日本女性がいた。
「黒い瞳の伯爵夫人」とも呼ばれたクーデンホーフ光子を今号では取り上げる。
写真2点はいずれも光子が暮らしたころのウィーンの街角の風景。

【参考文献】
木村毅『クーデンホーフ光子伝』(鹿島出版会、1976年)
シュミット村木眞寿美(編訳)『クーデンホーフ光子の手記』(河出書房新社、2010年)
鹿島守之助(訳)『クーデンホーフ・カレルギー回想録』(鹿島研究所出版会、1964年)
鹿島守之助(訳)『母の思い出 伯爵令嬢オルガ・クーデンホーフ・カレルギー手記』(鹿島研究所出版会、1963年)他

●サバイバー●取材・執筆/根岸 理子

日本のシンデレラ

クーデンホーフ光子―この優雅で美しい響きの名前に聞き覚えのある読者も多いのではないだろうか。光子は、外国人と結ばれ片仮名の苗字を名乗ることに非常に勇気の必要だった明治時代に、オーストリア貴族と結婚した日本女性である。のちに夫となるハインリッヒ・クーデンホーフ(Heinrich Coudenhove-Kalergi)伯爵との出会いは、おとぎ話のように美しく伝説化されている。
そのストーリーは次のようなものだ。
オーストリア・ハンガリー代理公使として日本に駐在していたハインリッヒが冬のある日、乗馬を楽しんでいたところ、愛馬が凍てついた道で足を滑らせ、転倒してしまった。道に放り出された「異人」を人々は遠巻きに眺めるだけであったが、近くの店から飛び出してきて躊躇することなく彼を介抱した美少女がいた。それが、光子であった―というのが、もっともよく語られている二人の馴れ初めである。ただこれは、残念ながらかなり脚色された話のようだ。
実際に二人がどのように出会ったのか、確かなところは今となっては知るよしもない。しかし、ハインリッヒが光子を見初めたことから始まった関係であったらしい。貴族でもある外交官と結婚した町娘は、まさに「日本のシンデレラ」と呼ばれるにふさわしいが、王子―ハインリッヒ―との結婚で、光子の人生が「めでたし、めでたし」と締めくくられたわけではない。本稿では、その後、彼女が歩んだ苦難の道をも紹介することにしたい。

電撃結婚

光子―本名・青山みつ(戸籍名は「みつ」だが、のち自ら光子と称したので以降すべて光子と表記する)は、1874年7月7日(16日とも)、東京牛込に生を受けた。
父の青山喜八は骨董商を営んでおり、その店は、オーストリア・ハンガリー公使館からほど近い場所にあった。そうした縁で、二人は結ばれたのであろう。光子は近所でも評判の美少女であった。少女時代の写真をみても、長身でスラッとしており、白鳥のように優美な首が印象的な女性だ。洋装の方が似合いそうな顔立ちで、ハインリッヒが一目ぼれしたとしても納得がいく。
一方のハインリッヒも長身で精悍な顔つきのなかなかの美男子だった。彼は1859年、オーストリアの伯爵フランツ・クーデンホーフとスラヴ貴族であったマリーの長男として、ウィーンで産声をあげた。オーストリア・ハンガリー代理公使として日本に赴任したのは、1892年のこと。ハインリッヒは33歳となっていた。
来日してまもなく18歳の光子と知り合い、文字通り「電撃的に」結ばれたとされている。 しかし実際には、この結婚話はハインリッヒと光子の父親との間で取り決められたというのが真相に近いようだ。光子の実家には、ハインリッヒの立場にふさわしい金額が納められたと見られるが、親の決めた相手と結婚することはその時代の女性にとってはむしろ当然の義務。少なくとも、結婚式での写真を見る限り光子の表情は明るく、その運命を前向きに受け止めていたと感じられる。
光子はハインリッヒとともに市ヶ谷の洋館に住み、翌年には第一子ヨハネス(1893年生まれ)が誕生。さらにリヒャルト(1894年生まれ)と続けて子供に恵まれる。親元にも近く、東京で暮らした新婚時代は、光子にとって忘れがたい、幸せな日々だったようである。

日本からの旅立ち

ハインリッヒと光子の結婚式の写真。
光子の顔にはまだあどけなさが残る。
そうした幸福な日々についに変化が訪れる。
1896年、ハインリッヒに本国への帰還命令が下されたのだった。その時には、光子も大きな不安を感じたに違いない。そんな彼女に、ハインリッヒはアジアでの勤務を希望することを約束した。折々には日本に帰ることができると信じての旅立ちであったのである。光子夫妻には、日本女性二人が、乳母として同行した。
外国人外交官と正式に婚姻を結んだ日本女性とあって、旅立ちの前に、光子は皇后(のちの昭憲皇太后)に拝謁を許され、特別にお言葉を賜った。「どんな場合にも日本人としての誇りを忘れないように」という内容のその言葉を、光子は終生大事にして生きたといえる。
光子は、ハインリッヒの領地ボヘミアのロンスペルク城へ向かうため、神戸から始まった船旅について、子供たちに書き残している(シュミット村木眞寿美が『クーデンホーフ光子の手記』として翻訳している)。寄航した国々の印象は鮮やかで、初めて触れた異文化への驚きが生き生きと語られている。新しい世界に目を開かれていく光子の興奮した様子が伝わってくるような文章だ。母国を離れた心細さを味わいながらも、ハインリッヒと密に過ごしたこの旅も、のちの光子を支える大事な思い出となるのだが、光子がそれを予知できようはずもなかった。

外国人妻としての日々の始まり

ハインリッヒと光子が一家で暮らした
ロンスペルク城。
©Mejdlowiki
1896年3月、ついに欧州に到達。日本人である自分をハインリッヒの親族はどのように迎えるのか、光子は不安でいっぱいだったはずだ。ここでまことしやかに伝えられているのが、すること為すことすべて―言葉から食事のマナー、衣服の着こなし、立ち居振る舞いなど―に対して周囲からチクリチクリと当てこすられ、光子がひどく「いじめられた」という話である。
光子自身は、そのようなことは語っておらず、皆、彼女を温かく受け入れてくれたとしている。とはいえ、、実際、周りと馴染み分かり合うには、それなりの時間がかかったと考えるほうが自然だろう。東洋人、しかも平民の娘である光子への偏見は相当強かったのではなかろうか。
そのような新しい生活では、ハインリッヒの気遣いは不可欠だった。ハインリッヒに守られる中で少しずつ新しい環境に慣れていった光子は、やがて、彼の親族の住居に呼ばれたり、知人・友人の夜会に招かれたりと、伯爵夫人らしい華やかな日々を送るようになっていく。まさにシンデレラの世界であるのだが、一つだけ異なっていたのは、シンデレラは自らの国で幸せになったが、光子は母国とのつながりを失いつつあったということである。
当初は、ヨハネスとリヒャルトの乳母の日本女性たちがいたので、光子も日本語で会話する機会が多かった。
しかし、領地管理人が不正を行なっていたことが発覚したため、ハインリッヒは外交官を辞し、領地を自ら管理することを選択したのである。かくして、アジア駐在の話は夢と消え、夫妻はロンスペルクに身を落ち着けることになった。
日本に家族がある乳母たちを、ずっと引き留めておくわけにもいかず、光子は彼女たちを帰国させた。ついに、ロンスペルクで唯一の日本人となってしまったのである。子供たちは、壁に向かって自分たちには分からない日本語で、長い独り言をつぶやく光子の姿を目撃している。そこで語られた光子の言葉は、どのようなものであったことか。
ホームシックというのは、体験した者でなければわからない。その身が在るべき場所にないような、それまで長く生きてきた場所に引かれるような、強烈な感覚。母国語で語り合う相手がいない生活の中で、光子はどのようにその感情・感覚を乗り越えたのか。ロンスペルクの住人たちは、時折、ただ一人馬で駆けるほっそりした光子の姿を見かけたという。光子は周囲にぶつけることのできない想いを、乗馬で紛らわしていたのではない。しかし、落馬で怪我を負ったことで、彼女はこのささやかな慰めさえ失ってしまうのである。
「帰省」という形で一時的にでも日本に戻ることができていれば、光子の心も癒されたかもしれない。しかし、度重なる妊娠・出産により、そうした計画もかなわなかったのだった。

「八番目の子供」

日本で誕生したヨハネス、リヒャルトに加えて、ハインリッヒ・光子夫妻は子宝に恵まれた。三男ゲロルフ(1896年生まれ)、長女エリーザベト(98年生まれ)、次女オルガ(1900年生まれ)、三女イーダ・フリーデリーケ(01年生まれ)、四男カール(03年生まれ)と、ほぼ2年ごとに「おめでた」が続いた。子供たちが背の順にずらりと並んでいる微笑ましい写真が残っているが、彼らを見つめる光子の表情は柔らかく優しい。
しかし、若い光子は、一家の主婦、そして七人の子供たちの母親というよりも、「八番目の子供」として女学生のような生活をしていたようである。ドイツ語、英語、フランス語などの語学に加えて、算数、歴史、地理、ヨーロッパ風の礼儀作法など、学ぶことは山ほどあった。真面目な光子は、そうした勉強に全力で取り組んだ。
ところが、七人目の子供、カールが生まれた後、光子は肺を患ってしまう。ハインリッヒは何とか回復させようと、光子を南チロルへ連れて行き、子供たちも呼び寄せた。新鮮な空気と暖かい気候のおかげで、病気からも無事全快、一安心した光子であったが、気付かぬうちに、夫との永遠の別れの日がゆっくりと近づいていたのである。妻や子供たちについては、あれこれ心配するが、自身の健康には無頓着なハインリッヒであった。

二人のマリー

ハインリッヒは光子と出会う前に、愛する二人の女性との死別を経験している。奇しくも二人とも「マリー」という名前であった。
一人目のマリーは、自らの母親。ギリシャ系スラヴ貴族出身で、美しく優しい母・マリーをハインリッヒは心から敬愛してやまなかった。だがしかし、母は36歳という若さで病(猩紅熱といわれている)により世を去ってしまう。その時、ハインリッヒはまだ17歳であった。
母親の旧姓は「カレルギー」であり、1903年にハインリッヒが苗字を「クーデンホーフ=カレルギー」としたのは、母の存在の「証し」を残したかったからと考えられる。
彼が常に身に着けていた金のロケットの中には母の遺髪が入っており、「お母さん、私のことを忘れないでください」という言葉が刻まれていたという。ハインリッヒだけでなく、妻を熱愛していた父も、最愛の女性を失ったショックから立ち直ることは生涯できなかったようであり、マリーの早すぎる旅立ちは、その後、クーデンホーフ家に暗い影を落としたのだった。
二人目のマリーは、ハインリッヒがウィーンで軍務に服していた20歳の時出会ったフランスからの音楽留学生であった。若い二人はたちまち恋に落ち、マリーはほどなく子供を身ごもった。二人は結婚を望んだが、ハインリッヒの父が強く反対し、彼をドナウ河畔の城で謹慎させてしまう。
若すぎるということと、マリーが平民の出自だったことから結婚を認めなかったようだが、この恋は悲劇的な結末を迎える。マリーが、ハインリッヒが閉じ込められていた城の庭でピストル自殺を遂げたのである。愛してやまない女性の亡骸を目にした時のハインリッヒのショックと悲しみは、いかばかりであっただろう。
恐らくは、日本で光子が出会った時のハインリッヒは、愛する者を失う苦しみを立て続けに経験し、胸に埋められない穴を抱えた状態で、いまだ立ち直れていなかった。しかし、光子は、ハインリッヒは大きな明るい声で笑い、誰からも好かれ尊敬される人だったと繰り返し語っている。彼女との結婚により、ハインリッヒはその胸の空洞を埋めることができた、ということなのかもしれない。

学者肌の語学の天才

ハインリッヒが一目ぼれしたのも
うなずける美貌の光子(撮影年などは不明)。
語学に堪能(18ヵ国語を自由に使いこなせたという)で、諸宗教についても通じていた学者肌のハインリッヒ。それにもかかわらず、聡明だったはずの光子と学問上の話をすることはほとんどなかったとされている。
「女学者」「女物知り」タイプの女性、そして「ブルーストッキング」(教養ある上流階級婦人タイプ)の女性たちを、ハインリッヒは嫌ったという。光子は自分が無知で受身だったので、愛されたというようなことを語っている。しかし、実際のところは、光子は非常に頭の良い、知的な女性だった。
ハインリッヒにその気さえあれば、共に刺激を与え、成長できる関係になっていた二人だったのではあるまいか。二人がそうした関係を築けていれば、ハインリッヒの早すぎる旅立ちの後、光子はもう少し楽であったのではないかと思わずにはいられない。
ただその美しさをめで、守り、子供のように扱うのではなく、光子を「共に生きる同志」と見るべきだったのではないだろうか。そうしていれば、光子はハインリッヒの考えをより深く知ることもできていたはずで、あまりにも急に訪れた「悲劇」に対して、もう少し備えることもできていたと断言したい。

早すぎる別れ

ハインリッヒとの永遠の別れの日は、光子が全く予期しない形で訪れた。
1906年5月14日早朝。
早起きのハインリッヒは、いつもと変わらず5時に起き、日課の散歩に出かけた。だが途中で胸の痛みを覚えて城に戻り、召使を呼んだ。蒼白な顔をしてソファーに横たわっている主人の姿に驚いた召使が、光子を呼びに行こうとするのを押しとどめると、ハインリッヒは肌身離さず身に着けていた金のロケットに唇を押し当て、そのまま息を引き取ったのである。
まだ46歳という若さであった。光子も子供たちもこの突然すぎる別れにどれほどショックを受け、悲しみに打ちひしがれたことだろう。
几帳面なハインリッヒは、20年にわたって毎日かかさず日記をつけており、それは数十冊にも及んでいた。忠実な執事と光子は、自分が死んだ場合にはそれらを焼却するようにというハインリッヒの言葉に従い、深い悲しみの中、庭で日記を燃やした。そこにはどのような言葉が綴られていたのであろうか。日記はハインリッヒにとって自らとの対話のようなものであったと推測できるが、それを、妻との、光子との対話とすることはできなかったのかと悔やまれる。
光子と最後の言葉を交わすことなく、逝ってしまったハインリッヒ。光子は、3歳から13歳までの七人もの子供を抱えて、文字通りただ一人、異国に取り残されてしまったのである。光子はまだ32歳だった。

肩にのしかかる重圧

ハインリッヒの遺言状には、光子を包括相続人とし、七人の子供たちの後見人ともすると指定してあった。日本人であり、また、それまで自らもハインリッヒの娘であるかのような生活をしていた光子に、財産管理などできるかと、クーデンホーフ一族の誰もが危ぶんだが、光子は覚悟を決めた。
「家長」という新しい責務を引き受けることにしたのである。母国日本に帰ることを選ばず、子供たちを立派なオーストリア人―ヨーロッパ人―として育てる決意をしたのだった。
きゃしゃな光子の肩にのしかかる、過酷なほどの重圧。これは、優しく忍耐強かった光子の性格を一変させてしまったようである。その美しい顔から微笑みが消え、子供たちや使用人は、専制的にふるまう光子を恐れるようになる。のちにカトリック有数の作家となった三女のイーダ・フリーデリーケは、当時の光子は癇癪を起こすと雌獅子のように恐ろしく、子供たちは彼女が眉を寄せるだけで震え上がったと語っている。
この時、もし光子に心から信頼できる身内や友人がいれば、事態は異なっていたかもしれない。一人で考え、一人で決めなければならない状況が、彼女をそこまで追い込んだのである。孤立無援の光子は、なぜ彼女を一人残してそのように早く去ってしまったのかと、天にいるハインリッヒに向かって、繰り返し問いかけたことだろう。

ウィーンでの日々

パリのゲラン本店にある、香水「Mitsouko」のボトル。
ゲランは、「ミツコ」の名を当時流行した小説から
とったとしているが、美しい光子のことを
聞き及んでいた可能性は高いと思われる。
©Miyako Hashimoto
光子はやがて領地の一部を売り、ウィーンに移り住むことに踏み切る。
シェーンブルン宮殿にほど近い場所に住居を定め、息子たちはテレジアヌムに、娘たちはサクレ・クール学院に入れた。「黒い瞳の伯爵夫人」として光子がウィーン社交界で注目を浴びたといわれているのは、この時代のことである。光子が「サロンの女王」と言われるほど社交にいそしんだかどうかは定かではないが、輝くばかりの美青年に成長したヨハネスとリヒャルトにエスコートされる日々は、ハインリッヒが生きていた時とはまた異なった幸せを、つかのまながら彼女に感じさせてくれたに違いない。
貴族の子弟が通う名門校・テレジアヌムの、金ボタンのついたコートを着て、腰にはサーベルまで下げた美形の息子たちと連れ立って歩くと、光子の胸は誇りでふくらんだ。彼らの姉と間違われるほど、若々しく美しいこの頃の光子であった。

巣立っていく子供たち

1930年、ベルリンで開催された
パン・ヨーロッパ会議に参加した、
イーダ・ローラン(当時49歳、写真右)。
左は小説家トーマス・マン。
©German Federal Archives
その自慢の息子たちの巣立ちの日は、思いがけなく早くやってきた。
芝居好きの光子は、ある日、ウィーン社交界で話題になっていたイーダ・ローラン(Ida Roland 1881~1951)という女優の舞台を観に行くことにし、ヨハネスとリヒャルトを伴って出かけた。
すっかり感動した光子は、イーダと交流を持つようになり、ある時、光子とヨハネスは非公式の晩餐会に招待されたが、ヨハネスは所用で応じることができなかった。一人での出席をためらう光子に、通常は社交にあまり熱心ではないリヒャルトが、自分が代わりに行っても構わないかと尋ねた。イーダの舞台に心奪われたのは光子だけではなかったのである。
晩餐会では、イーダとリヒャルトは隣り合って座ることになり、いつもは寡黙なリヒャルトが彼女と楽しげに話し込んでいる姿は、光子を驚かせた。
それから数日後、ウィーンのフォルクス・テアターで開かれた仮装舞踏会に光子と共に参加したリヒャルトは、「彼だけのために来た」というイーダと夢心地で踊った。以来二人は離れられない関係となったのである。
光子が事態に気付いた時には、二人はすでに結婚する決意を固めていた。20歳にもならない、まだ学生であるリヒャルトと、離婚歴もあり、娘までいる30歳を過ぎた女優との結婚。
光子だけでなく、クーデンホーフ一族の長老で、当時ボヘミアの知事であったマックス・クーデンホーフも猛反対する。しかし、そのような周囲の反対に従うようなリヒャルトではなかった。イーダとの愛を選んだリヒャルトは、一族と絶縁状態になった。恋人にも等しかった最愛の息子を、光子は生きながらにして失ってしまったのである。
光子の予想を超える恋愛・結婚をしたのは、長男のヨハネスも同じであった。ヨハネスの妻となったのは、元はサーカスの馬術師であったリリーという女性。光子は彼女とも良い関係を築くことができず、結果として思い出深いロンスペルクの城を明け渡すことになってしまった。
すべて良かれと思ってやったことだったが、光子の厳しさを嫌い、大事に育ててきた子供たちが次々に去っていくという悲しい思いを経験する。やがて卒中により半身不随となった光子の傍を最後まで離れなかったのは、次女のオルガだけだった。

EUの生みの親!?
リヒャルト

リヒャルト 光子の次男、リヒャルト・ニクラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー(Richard Nikolaus Eijiro Coudenhove-Kalergi 1894~1972)は、欧州統合運動のきっかけとなったパン・ヨーロッパ(Pan-Europe)思想を提唱したことで名高い。そのため、光子は「パン・ヨーロッパの母」とも称されることとなった。つまり、リヒャルトは、現在のEU設立の先駆者といえる。
光子は日本生まれの長男ヨハネス(リヒャルトと同じく「光太郎」という日本名を持つ)とリヒャルトを特別扱いしていたという。女優イーダ・ローランとの結婚により、一時は光子やクーデンホーフ一族と絶縁状態になったリヒャルトだが、イーダのヒモのような状態になるだろうという周囲の予想に反して、ウィーン大学で立派に哲学博士号を取得した時は、さすがの光子も喜んだといわれる。しかし、晴れがましい博士号授与式には、イーダとの同席を拒んで光子は出席しなかった。
映画「カサブランカ」に出てくる反ナチスの指導者ビクターのモデルともささやかれているが、様々な「伝説・逸話」に彩られているクーデンホーフ一族の例にならって、これも事実とは言い切れないようだ。
リヒャルトのパン・ヨーロッパ思想には、父母の国際結婚や、父・ハインリッヒの諸国諸宗教への関心と理解が影響を与えていると思われるが、母・光子の人生は、異なる言語・文化・習慣を持つ者が一つになる事の難しさをも伝えているようである。

果てぬ望郷の想い

光子が他界したことを伝える告知。
「Mitsu」と「Aoyama」の文字が見える。
「私は、いつも仮装舞踏会に出ているような気がしている」
光子は、そのオルガに語っている。22歳になるかならないかで、母国にすぐに戻れる、少なくとも帰省はできると信じて異国にわたった光子。子供たちは立派なヨーロッパ人に育てることはできたが、自身は借り着をまとっているような気持ちから逃れられなかった。自分の弱点は決して人に見せてはならないとも、光子はオルガに語っている。町娘から異国の伯爵夫人になったシンデレラは、常に気を張って生きていたのである。
晩年の光子の楽しみは、ウィーンの日本大使館を訪ね、日本語を話し、日本の新聞を読んだり、レコードを聴いたりすることであったという。どれほど日本に帰りたかったことだろう。しかし一方、自分が愛した母国が、決して同じままではないことも悟っていた光子であった。
また、結婚問題で疎遠になった愛息リヒャルトが、パン・ヨーロッパ思想の提唱者として著名になったことを光子は喜んだが(コラム参照)、それは息子個人についての喜びの域を出ておらず、彼がテニス選手になったとしても、光子は同様に喜んだであろうと、リヒャルト自身は冷静に分析している。
1941年8月27日、光子永眠。
折りしも、ついに帰ることのできなかった懐かしい母国・日本は悲惨な戦争に突入しようとしていた。それを見ずに済んだことは救いだったといえる。
ロンスペルクの夫の墓近くに埋葬されることを望んでいたものの、それはかなわず、光子はウィーンのヒーツィングにあるクーデンホーフ家の墓に葬られ、今も静かに眠っている。
夫ハインリッヒは、光子に別れも告げずに旅立ったが、「君は本当に良くやってくれた。ありがとう」と、天で彼女を迎えてくれたと願いたい。光子が67年の生涯で最もほしかったのは、何よりもハインリッヒからのねぎらいの言葉だったという気がしてならないのである。
 

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