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2017年4月6日

◆◆◆◆ 《第448回》離脱通告 ◆◆◆◆

 

先月二十九日、テリーザ・メイ首相はEUに対して正式にイギリスの離脱を通告した。その瞬間に私は歴史の歯車がゴトリと動く重たい音を聞いたような気がした。これから二年に亘るEUとのきびしい交渉が始まる。それはイギリスの国民に大変な忍耐を強いる交渉になるだろう。
私は今でもイギリスはEUに残留すべきだったと思っている。国民の合意形成に十分な時間をかけず、軽率に国民投票に踏み切ったキャメロン前首相の愚かさは言うに及ばず、偽りの情報を使って国民を煽ったボリス・ジョンソン、マイケル・ゴーブ、ナイジェル・ファラージなど離脱派の議員たちに怒りを覚える。
しかし「覆水盆に返らず」である。たとえ僅差であっても国民投票で「離脱」という民意が示された以上、それを前提に可能な限り有利な条件をEUから引き出すしか道はない。メイ首相にはしたたかな交渉力を駆使してイギリスが立派に生き残れる環境を整えて欲しい。
むろん難題は山ほどある。イギリスは離脱条件と並行してFTA(自由貿易協定)についても話し合いたい意向だが、EUのトゥスク大統領は「離脱条件の交渉を最優先し、そこで『十分な進展』があればFTAの交渉開始も可能」という立場を取っている。離脱の連鎖を警戒するEUとしてはイギリスのペースで交渉を行なう気はないということだ。
離脱条件の最大の問題は負担金の支払いであろう。EUは「イギリスが負担すべき六百億ユーロが未払いのままだ。まずこれを支払え」と主張している。メイ首相は逆にイギリスが欧州投資銀行に拠出した九百億ポンドの返還に言及している。この交渉だけで二年の大半は過ぎてしまうかも知れない。 
人の移動の問題も重要である。すでにイギリスに住んでいるEU市民とEU各国に住んでいるイギリス人の在留資格をどう取り扱うのか。メイ首相は離脱通告の直後、下院で行なった演説でこの問題の早期決着の必要性を強調したが先行きは不透明だ。イギリスに住んでいるEU市民は三百三十万人にのぼる。彼らは結論が出るまで不安な気持ちを抱えて暮らさなければならない。

 

 

演説の中でメイ首相は「私たちはEUから離れるが欧州から離れるわけではない。欧州大陸の各国は引き続き私たちの重要なパートナーである」と語った。EU側にすれば白々しい表現であろうが、確かにロシアへの対応や軍事同盟のNATO、さらにテロとの戦いなど協力しなければならない分野は多い。自由主義や法治主義の価値観を共有するイギリスとEUは決して敵対関係になったわけではない。
とはいえ離脱は離脱である。単一市場や関税同盟との関係を断つことでイギリスの産業界が受ける打撃は大きい。国際金融センターを擁するロンドンのカーン市長は政府の離脱通告にタイミングを合わせ、パリ、ブリュッセル、ベルリンなどEU圏の五都市を訪問した。現地の政治家、企業経営者、投資家たちに会い、ロンドンの今後のあり方を直接説明するためだ。市長は行く先々で「イギリスのEU離脱後もロンドンは引き続き世界に向けて広く門戸を開放します」と訴え、離脱がロンドンにもたらす負の影響を最小限に抑えようと必死だった。彼はEUの幹部と会見した後、「イギリス政府が正しい態度で臨めば離脱交渉は必ず成功するという確信を得た」と語ったが、何が正しい態度なのか具体的に示していない。
先月末、世界最大の保険組織、ロイズがブリュッセルに法人を開設すると発表した。離脱交渉の期間内にロンドンの本部を移転するための準備と思われる。その他の金融機関の間でも拠点や人員をEU圏に移す動きが相次いでおり、ロンドン金融界の地盤沈下が心配される。カーン市長は「世界一の金融センターが機能しなくなるような事態は絶対に避けなければならない」と述べているが、効果的な対策は見つからない。元金融マンの私はアジアとアメリカの間の時差をカバーするロンドン市場の利便性と英語圏であることの強さや人材の質の高さはフランクフルトやブリュッセルの遠く及ぶところではないと信じているが、当面はシティーも逆風を覚悟しなければなるまい。
イギリスとEUは互いに貿易の重要な相手であり、FTAが締結されなければどちらも困ることになる。離脱交渉は極めてきびしいものになるだろうが、知恵を絞れば打開の糸口は必ずあるはずだ。悲観的になり過ぎず、楽観もせず、事態の成り行きを見守っていこうと思う。

在英二十余年のエッセイスト。商社や銀行勤務を経て、現在は執筆に専念。酒、旅、そして何より犬を愛する。

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