1952年2月、イアン・フレミングはジャマイカの別荘で執筆に没頭していた。10年以上不倫関係を続けた女性との結婚を決めた直後で、結婚式が1ヵ月後に迫っていた。晴れて結ばれる妻に贈りたいがためか、あるいは目前に迫る婚姻生活の重みから逃避するためか、一心不乱に書き、結婚式の一週間前の3月18日、たった四週間の執筆期間を経てひとつの作品が仕上がった。作品の名前は『カジノ・ロワイヤルCasino Royale』。世界で最も有名なスパイ、ジェームズ・ボンドの誕生だった。フレミングは四十三歳、「これまでのスパイ小説の息の根を止めるスパイ小説を書いてやる」と友人に豪語してから7年が経過していた。
長い間、構想を温めてきたフレミングは、43歳にして初めてペンをとり、56歳で息絶えるまで執筆作業を続け、14作のボンド小説を世に残した。
処女作『カジノ・ロワイヤル』は暴力やセックスシーンに彩られ、53年の出版当時、彼の交友していたブルジョワたちから「野蛮で安っぽく、金儲けのための粗末な文学」と揶揄された。しかし、荒涼とした雰囲気の漂う大戦後の英国で、華やかで羽振りのよいヒーローの物語は必ず受けるに違いないとフレミングは信じていた。さらに強烈な暴力シーンを含み、あえて議論の的になるようなストーリーを盛り込んだ2作目『死ぬのは奴らだLive and Let Die』は、その過激さで知名度を上げ、結果的に売り上げを伸ばした。そして、趣向を凝らした連作は、毎年ボンドファンを確実に増やし、人々を虜にしていったのである。
61年、アメリカ合衆国大統領に就任したばかりのジョン・F・ケネディが、ボンド小説5作目の『ロシアより愛をこめてFrom Russia, With Love』を愛読書として掲げると、ボンド小説の売り上げは一気に急上昇。映画業界が制作に乗り出すことになる。その後の映画における成功についてはここで触れるまでもないが、62年から2006年までに21作、興行収入約44億ドル(約5360億円)を上げる類まれなロングセラー映画に成長した。22作目となる『クォンタム・オブ・ソラスQuantum of Solace』も10月31日に公開されようとしている。
世界中を股にかけ、高級車を乗り回し、美女と戯れつつ、華麗なアクションや秘密兵器で事件を解決していくジェームズ・ボンド。この誰もが憧れる無敵のヒーローは、全くの想像の産物ではなく、フレミングが何人かの実在の人物をモデルに脚色したものといわれる。その最たるモデルが、世界中を旅し、高級車を愛し、多くの美女と関係を持ち、そして英国海軍諜報部の秘書でもあったフレミング自身である。言い換えれば、ジェームズ・ボンドはフレミングの実生活、実体験を投影し、最大限に美化した、彼自身の夢のストーリーともいえるのである。
今年はフレミングの生誕百年にあたり、フレミングに関する展覧会やボンド小説の再版など数々のイベントが予定されている。今号は、英国のスーパースター、ジェームズ・ボンドの生みの親であり、ボンドの等身大のモデルとなったイアン・フレミングに迫る。
▲TOPに戻る▲プレーボーイ Lady's man
夫に先立たれ、女手ひとつで4人息子を育てていたフレミングの母親イヴは、教育熱心で過干渉なタイプだった。そのイヴの、一番の悩みの種がフレミングの女性問題。名門パブリック・スクールのイートン校に入学させたはいいが、学業そっちのけで授業をサボっては他校の女子校生とフラフラしていたフレミング。留年させるくらいならと、性根を叩き直すために陸軍士官学校に入れ直すが、ここでも売春婦から淋病をもらうという不始末を犯し、退学。ついに恥辱に堪えられなくなったイヴは、周囲の目の届かないオーストリアのプライベートスクールに送り込み、語学を習得させ外務省で働かせようと試みる。しかし、そこはヨーロッパでも有数のスキーリゾート地。フレミングはさらに羽を伸ばして、女性とのスキーやドライブに忙しい毎日を送ることになる。
その後、ミュンヘン大学、ジェノバ大学に進んだフレミングは、モニーク(*)というスイス人女性と大恋愛をし婚約まで考えるが、イヴは、外務省入省試験の邪魔になると、あの手この手を使って強制的に別れさせる。

Ian Fleming in his study with a copy of For Your Eyes Only (April 1960)
© Getty Images
これ以降、フレミングのプレーボーイぶりにさらに拍車がかかる。「どうせ本物の恋なんてありえないし、あったところで成就できっこない」といわんばかりに、手当たり次第に多くの女性と浮名を流すことになる。特定の人と交際をする、いわゆる「コミットメント」を結ぶことを嫌い、カジュアルな関係をかわるがわる楽しんだ。積極的で直接的な愛情表現をする女性が苦手で、ミステリアスで美的感覚の鋭い女性を好んだが、相手にのめり込むことはまずなかったという。
フレミングは本の収集癖があることでも知られるが、彼の部屋は春本やヌード写真集、とくにSMや鞭打ちに関する本で満たされていたといい、フレミングの友人は後に「彼ほど頭がセックスでいっぱいの人に会ったことがない」と語っている。
*後にジェームズ・ボンドの母親、モニーク・デラクロアとして小説の中に登場している。ボンドが十一歳の時、父アンドリュー・ボンドとともに登山事故で死亡してしまうという設定
▲TOPに戻る▲愛憎に満ちた関係 Love-hate relationship

十余年もの不倫関係を続けたフレミングとアンはサディズムおよびマゾヒズム的な性的嗜好を持っていたことでも知られる。
Ian Fleming, circa 1960 © Getty Images
女性に対して献身的で、優しくロマンチストだったと伝えられるフレミングだが、その一方で、「普通の女の子なら毛嫌いする」(知人説)冷淡で高慢な一面も持ち合わせていた。デートに誘っておきながら「頭が痛いから、俺がいいって言うまで一言も話すな」と一時間近く黙らせたり、難癖をつけて扱き下ろしたりすることも少なくなかった。「女なんてペットみたいなものさ。本当の人間といえるのは男で、本当に友達になれるのも男だけだ」という問題発言も残されており、サディズム的な考えを持っていたことは間違いないようだ。
この嗜虐的傾向は母親との関係に起因している。前述した淋病を患うことになった経緯も、全く入る意志のなかった士官学校にむりやり入学させられた上、当時交際していた女性とむりやり別れさせられ、自暴自棄になって売春宿に駆け込んでしまったからで、母親の愛情や過度な干渉に対する強い嫌悪や復讐心が、フレミングの女性関係へ影響していくのである。

フレミングはアンとの結婚を決めた際、友人夫婦に次のように語っている。
「俺たちは2人とも双子座で相性がいい訳がないんだよ。俺は社交的じゃないし、暗くて明日のことしか考えてない。 アンは快活で、伝統主義者。大喧嘩するに決まってるんだよ。でも、2人とも楽天的だから、なんとか続くとは思うけどね」。 Daily Mail
フレミングのむら気な愛憎に最も長く激しく惹きつけられることになるのが、彼の最初で最後の妻となるアンだ。出会った当時、アンはすでに人妻で、数年の交友関係が続いた後、不倫関係に発展。フレミング同様、恋多き女だったアンには他にも不倫相手がおり、その相手はフレミングの友人でもあった。この奇妙な三角関係にフレミングは多少嫉妬することはあっても、身を焦がして自滅することはなく、むしろそのスリリングさを楽しみ、利用していた節さえある。結局、しびれを切らして相手を独占したくなったのはアンのほうで、夫が戦死すると、アンはフレミングに「結婚しても構わない」と伝えるが、フレミングは必要性をまったく感じず、呆れたアンは以前の不倫相手だった男性と結婚。その後もフレミングとの不倫関係を続けた。二人の関係は情熱的で、激しくぶつかり合っては激しく引き寄せ合うという愛憎に満ちた関係だったようだ。精神的のみならず肉体的にも傷つけあうことで愛情を感じる関係だったと伝えられる。

ジャマイカの別荘でくつろぐフレミング
Ian Fleming at his Jamaican home Goldeneye (March 1962) ©Getty Images
2人が結婚に至ったのは、十余年に及ぶ不倫関係が続いた後、アンがフレミングとの2人目の子(1人目は生まれて8時間後に逝去)を妊娠した1952年のことで、フレミングは43歳になっていた。
結婚という契約をできる限り遠ざけてきたフレミングもこれ以上責任逃れをするわけにもいかず、ついに観念し、二人はフレミングが別荘を建てたジャマイカで結婚式を挙げた。しかし、どちらも利己的で相手に譲らないタイプであるだけに蜜月時代も短く、子供が生まれるとすぐに別居状態になり、互いに愛人をつくるようになってしまう。

フレミングが1936〜40年にかけて住んでいた家は、ロンドンのヴィクトリア駅のすぐ側(22B Ebury Street)にある。
良家の異端児 Black sheep
祖父のロバートは一代でロバート・フレミング投資銀行(1873年発足、現JPモルガン・フレミング投資顧問会社)を創設したつわもので、金融業界では世界的に有名。父ヴァレンタインは保守党の議員で、ウィンストン・チャーチルの良き友人でもあった。質実剛健で誠実な父と、自由奔放で芸術家タイプの母イヴ、この夫婦間の四人息子の次男としてフレミングは生まれ、ロンドンのハムステッド・ヒースに住み、いわゆる裕福な家庭の「お坊ちゃま」として少年時代を送る。

Churchill giving the V sign outside No 10 Downing Street, having just arrived back in London from Washington where he held discussions with President Roosevelt.
© IWM
父ヴァレンタインの戦死にあたり、彼の良き友人であったチャーチルが故人略伝を綴り、殊勲章を授与した。フレミングはこの記事を額に入れ死ぬまで持っていたという。フレミングが第二次世界大戦時に海軍諜報部で働くことによって、首相チャーチルを助けることになったのも偶然ではないのだ。
フレミングが九歳の時、ヴァレンタインは戦死するが、イヴが再婚しないという条件付きで莫大な遺産を残した。フレミングは父親や兄に倣ってイートン校に進み、体育、語学、文学で良い成績を残し、2年連続で校内スポーツ・チャンピオンに輝くなど非凡な面も見せていたが、もともと伝統や秩序に縛られることを嫌う彼は学校をサボりがちに。さらに母親の干渉や強要にも耐えられなくなり、他校の生徒とつるんで女子学生と夜遊びするなど、問題児のレッテルを貼られる。
また、フレミングを除く兄弟3人は、祖父の人脈にあやかり大学卒業後すぐに金融業界で活躍。とくに文才のあった兄ピーターは、その後紀行家、作家としても成功を収めていた。フレミングだけが金銭に興味がなく、外務省の入省試験に落ちた後はロイターで記者をしていたもののキャリアらしいキャリアを積めないでいた。
祖父のロバートが他界し、遺産をすべて財団に預けてしまうと、再婚を考えていたイヴはフレミングの行く末を按じ、金融業に就くよう説得、いやいやながらロイターに辞表を出し、その後の6年間を銀行マンとして過ごすことになる。
子供好き Adores kids
フレミングの著作として意外に知られていないのが、映画やミュージカルでもお馴染みの『チキ・チキ・バン・バンChitty Chitty Bang Bang』(英語ではチッティチッティと発音)。ボンド小説のイメージとかけ離れているためか、「え? チキ・チキ・バン・バンも彼の作品なの?」と驚いている読者も多いかも知れない。実際、フレミングは子供と遊ぶのが好きで、姪っ子や甥っ子たちには面白くて格好いい叔父さんとして慕われていた。戦後の沈んだ雰囲気の残る50年代に「サンダーバード」などの珍しい車で颯爽と現れ、トロピカルな国々を旅行しては楽しいハガキを送ってくれるフレミングはさぞかし子供たちをウキウキさせたに違いない。
この物語は、たったひとりの息子、カスパーを寝かしつけるためにフレミングが綴ったもので、1964年に出版された。が、フレミングは同作が出版されたのを見届け、すぐに他界。そして、カスパーも約10年後、23歳の若さで麻薬の過剰服用により自殺してしまった。彼の棺の中には同作が納められたという。

チキ・チキ・バン・バンあらすじ
妻に先立たれた貧乏発明家の主人公は子供たちにせがまれ、過去にレースで大破しポンコツになった車を改造する。見違えるように生まれ変わった「チキ・チキ・バン・バン号」で子供たちを連れ、ひょんなことで知り合った令嬢とドライブに出かける主人公。しかし、そこには「チキ・チキ・バン・バン号」を狙う悪党がいた。悪党に襲われそうになるが、「チキ・チキ・バン・バン号」はホバークラフトになって海を駆け巡り、ついには空を飛ぶなど大活躍をする。 www.chittythemusical.co.uk食通 Gourmand
女、車、ギャンブル、ゴルフと並んでフレミングが愛したのが「食べ物」だ。ボンドと同様、美食家であったが、ボンドのようにワインや食材について薀蓄のあるタイプではなく、とにかく美味しければ何でも良しとし、シンプルで高品質のものが好きだったようだ。「The Savoy Grill」と「The Ivy」はとくにお気に入りのレストランだったといわれる。
ちなみにフレミングの大好物は「スクランブル・エッグ」。フレミングが「絶対にがっかりさせられることがない」と語る、そのレシピを下に紹介しよう。
尚、毎日の美食に加え、1日50―70本の喫煙に、ジンをボトル1本という飲酒の不摂生は人生を楽しくはしても長くはしなかったようで、1961年に53歳で心臓発作を起こしたフレミングはその後体調不良のまま、3年後に2回目の発作を起こして逝ってしまう。
絶対にがっかりさせられることがないスクランブル・エッグの作り方
材料(4人分):卵12個、バター150グラム、チャイブまたはフレッシュハーブ、塩コショウ

作り方:卵を割り、フォークで混ぜながら塩コショウする。 小さくて底の厚いフライパンにバターを半分いれ、卵を注ぎ、小さな泡立て器で混ぜながら、ごく弱火で焼く。 卵がまだ半生でこのままでは食べられないというあたりでフライパンを火から下ろす。そこで残っているバターを加え、 30秒かき混ぜる。ハーブを加え、バターをぬったトーストの上にのせて、銅の皿に盛り付け、シャンパンとともに食す。
諜報部員 Intelligence Officer
フレミングにとって人生最初の仕事となったのが、ロイター通信での記者業だった。モスクワなどで通信員として働いていた三年間で、フレミングは「速く書くこと、正しく書くことを覚えた」と後に語っている。第二次世界大戦が始まるとすぐに英国海軍諜報部Naval Intelligenceの海軍少将の秘書として抜擢されるが、それは、このロイター時代の明晰さを買われた結果だった。
『ロシアより愛をこめて』でローザ・クレッブが使用したナイフ仕込みの靴の試作モデル。
Prototype of Rosa Klebb's flick-knife shoes for From Russia, With Love (1963)
© 1963 Danjaq, LLC and United Artists Corporation. All rights reserved.
国の機密情報を扱う諜報部員の一員となったフレミングは、この転機を待ってましたとばかりに受け止め、ロイター時代と同様、自慢の想像力と計画力、情報収集能力、伝達能力などを十二分に活かし、さまざまなスパイ活動を企て、遂行させた。ジェームズ・ボンドのように実際に現地に赴き、任務を行うスパイ(secret agent)ではなかったものの、指揮官としてスパイ部隊を統括し、軍の上層部や政府とのやり取りを円滑にするなど、より重要なポストでその才覚を発揮した。
「マーキュリー」と呼ばれる諜報部を組織し、サンデー・タイムズの海外特派員になりすましたスパイたちを諸外国に送り込み、情報の収集に努めたり、「30AU」(30 Assault Unit、42年設立当初30人だったが、戦争終了時には450人、通称レッド・インディアンズ)と呼ばれる、金庫破りや錠前破り、盗聴などを専門とする奇襲補助部隊を統括したりした。
とくに「30AU」は第二次世界大戦において大活躍し、結果的に勝利を導いたD-Dayでも多大な貢献を果たした。この時企てた陰謀や特別任務はボンド小説の中に散りばめられており、諜報部員としての経験なしにボンド小説は生まれ得なかったといってもいい。