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皮肉家の学者をうならせた邸宅
十八世紀に、本格的な『英語辞典』を編纂したことで名高い英国の文学者、サミュエル・ジョンソン(Samel ohnson 一七〇九―八四)。優れた文学批評家であり、研究者であったことは疑う余地もないが、偏見に基づく発言や辛らつなコメントも多く、皮肉家でかなり気難しい人物であったと思われている。
そのジョンソンがルートン・フー(on oo)について、「訪問したことを後悔することのない場所のひとつ」と語っており、彼にしてこの『賛辞』を贈らしめた同邸宅は、当時すでに、荘厳なことで世に広く知られていたと考えていいだろう。
「フー」というユーモラスな響きを持つ名は、サクソン語で「連なる丘の一部」を示す言葉がもとになっているといわれ、広大な敷地の中の隆起した場所に古くから住居があったようだ。ノルマン朝時代には「oo」一族がこの辺りに住んでいたという記録が残っており、一六〇一年には、ロバート・ネイピヤ(Rober
apier)なる人物が、ルートン・フーと呼ばれるようになっていた屋敷を購入した。ネイピヤは、この十年後、エリザベス一世(liabeh 在位一五五八―一六〇三年)の跡を継いだジェームズ一世(
ames 在位一六〇三―二五)に爵位を与えられ、このルートン・フーに同王を招待する栄に浴している。
さらに六三年、第三代ビュート( e)伯で、ジョージ三世(eorge 在位一七六〇―一八二〇)治下の首相でもあったジョン・スチュアート( ohn
Sar)が、新しい所有者となったことをきっかけに、この邸宅は長期におよぶ華麗なる変身の時代へと入っていく。
その手始めとして、十八世紀にもてはやされた三人の著名な建築家と庭園設計士がルートン・フーにそれぞれの足跡を刻んだ。
■ロバート・アダム… Rober dam(一七二八―九二)スコットランド出身の建築家。ロンドンでは、ハムステッドのケンウッド・ハウスや西部のオスタリー・パークなどを手がけた。ルートン・フーでは一七六七年から約三年間、舞踏場、書斎、ドローイング・ルームをはじめとする部屋や外装のデザインに携わった。
■ケイパビリティ・ブラウン… apabili ron(一七一六―八三)イングランド出身の庭園設計士。本名は「ancelo
ron」だが、生涯で約百七十の庭園に関わったことなどから「capabili(才能豊かな人物)」のニックネームで呼ばれるようになった。チャーチルの生家ブレナム・パレス、ダービシャーのチャツワースといった大邸宅の庭のほか、ロンドンではホランド・パークやキュー・ガーデンズの設計に腕をふるった。ルートン・フーでは、敷地内を流れるリー川をせきとめ、湖を造りあげるなどした。
■ロバート・スマーク…Rober Smirke(一七八一―一八七六)イングランド出身の建築家。代表作は大英博物館の外装、キングズ・カレッジ・ロンドンのキングズ・ビルディングなどで、ルートン・フーではウエスト・フロントを手がけた。
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| 他界した際、遺産の額の大きさが、英国のそれまでの記録を上回ったというジュリアス・ワーナー=肖像画左=と、アリス夫人=同右。 |
リッツ・ホテルの美に
ほれこんだダイヤモンド王

本館内にある「チャペル」。現在は会議場として利用されている。
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正面玄関には、ギリシャ神殿を思わせる6本の大理石の円柱がしつらえられている。その左から3本目の基盤部分に、ウィンストン・チャ−チルがここで演説を行ったことを記念するプラーク=写真左=が埋め込まれている。

天窓から入る光にその白さが映える大理石の階段は、その優美な曲線で客人を歓迎する。天井の見事な装飾も見逃せない。見上げることをお忘れなく! |

エリザベス女王が滞在されたクイーン・エリザベス・スイート=上から1番目と2番目の写真=と、レイディ・バター・スイート=同3番目。後者の部屋にある、映画『フォー・ウェディング』に登場したワーロドーブは、今は洗面台として使われている=同4番目。
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ルートン・フーは、ダイヤモンド王、ジュリアス・ワーナー(lis Wernher一八五〇―一九一二)が一九〇三年にこの屋敷の新しい主となってから、さらに劇的な変化を遂げることになる。
ジュリアス・ワーナーはドイツ人だったが、フランス語を完璧にマスターしようと赴いたパリで、まず銀行家となった。やがて、南アフリカ産のダイヤモンドをヨーロッパにもたらすビジネスで大きな成功をおさめていたポージズ商会に加わり、ロンドン支店の責任者に昇格。さらには経営パートナーとしてダイヤモンドのみならず金の取引にまでビジネスを拡大、ジュリアスは巨額の報酬を得て世界有数の大富豪となるに至る。まさに夢のようなサクセス・ストーリーである。ジュリアスがパリに赴かなかったら、ルートン・フーの現在の姿は全く異なるものになっていただろう。人生、何が起こるかまったくわからないものだと思ったのは、他でもなく、ジュリアスその人だったかもしれない。
一八九七年に英国籍をとり、英国に落ち着くことを決めたジュリアスは、一九〇六年にオープンすることになる、リッツ・ホテルの向かいに住んでいた。彼はリッツ・ホテルの壮麗さにほれこみ、同ホテルの設計を手がけたミューズ&デイヴィス(es
& aies)に、ルートン・フーの大改装を依頼する。ポーランド人の裕福なビジネスマンを父に、イングランド人女性を母に持つアリス夫人は、華やかなことが好きだったらしく、ロンドンの自邸でもきらびやかなパーティーを主宰するなどして上流階級の紳士・淑女をもてなすことを楽しんでいた。ジュリアスは、カントリーハウスとして購入したルートン・フーで、夫人が社交生活をさらに満喫できるよう望んでいたようだ。ルートン・フーの大改装は愛する夫人のためでもあったのである。
ただ、費用は当初の予算をみるみるうちに超えたばかりか、遅々として進まない工事に、アリスが悲鳴をあげ、南アフリカでビジネスに携わっていた夫にヒステリックな手紙を書き送ったというエピソードが残っている。英国で工事が予定通りに進まないのは、今も昔も変わらないというところだろう。
一九一二年、ジュリアスが亡くなった後、ラドロウ男爵(aron dlo)と再婚したアリス夫人も四五年に他界。ジュリアスの長男が第二次世界大戦中にこの世を去ったため(相続権には直接関係なかったが、三男アレックスも第一次世界大戦で戦死)、ルートン・フーを引き継いだのは次男のハロルド(arold
Wernher 一八九三―一九七三)だった。
リッツ・ホテルに憧れて内外装に大幅に手を入れた父、ジュリアスの意向を尊重しつつ、邸宅内部の美術コレクションの充実をはかったのがこのハロルドだ。父ジュリアスも、ビザンチン、ルネッサンス美術などをはじめとする一大コレクションを有していたが、ハロルドは十八、十九世紀の比較的新しいイングランド製絵画、工芸品、家具などをそれに加えた。
さらに、ハロルドが一九一七年に結婚した、ロシアのニコライ一世(icholas
一七九六―一八六〇)のひ孫にあたるズィア夫人は、ロシア貴族の娘として類稀なコレクションを所有していた。特に、ロシアの優れた宝石ブランドとしてヨーロッパ中にその名を知られた「ファバジェ(aberg)」の宝飾品の熱心なコレクターで、ルートン・フーの「目録」に貴重な品々が追加されたのだった。
四度の悲劇から蘇った邸宅
富に恵まれ、優れた美術コレクションに囲まれ、幸せな日々を送っていたはずのハロルドとズィア夫人だったが、長男を生き永らえさせることはできなかった。長男アレックスは第二次世界大戦中に命を落としてしまったのである。お金では買えないものがあるということを夫妻が身をもって知ったできごとだったといえるのではなかろうか。
この長男亡き後、夫妻には二人の娘しかいなかったため、ルートン・フーは長女の息子であるニコラス・ハロルド・フィリップス(icholas arold
Phillips一九四七―九一)が相続した。ニコラスは、戦後、傾きつつあったワーナー一族にかつての栄光を取り戻そうと決意する。そして、彼はある構想を抱き、その実現に向けて奔走し始める。それはルートン・フーを改装し、会議場などを提供するビジネス・パークとして「復活」させようというものだった。
ところが、八十年代後半、英国は深刻な不景気に突入する。不況の波は、希望に向けて走り始めた若いニコラスにも容赦なく襲い掛かった。財政的に窮した彼は、九一年、自らの命を絶つという道を選んでしまう。享年四十四。早すぎる死だった。
ジュリアスの長男、三男、ハロルドの長男、そしてハロルドの長女の息子と、ワーナー一族は前世紀に四度の大きな悲劇を経験したことになる。ルートン・フーにもし感情があるのなら、歴史という名のアルバムの中で、一番忘れたい部分であるかもしれない。
ニコラスが逝去してから六年を経た九七年、ワーナー一族はルートン・フーの売却に踏み切る。その二年後、エリート・ホテルグループが購入。ホテルとして生まれ変わるための大改装を行うにあたり、地域の行政機関から許可を得なければならなかったが、その許可が下りるまでに七年という月日を要したのだった。歴史的建造物として価値が高い場合、「グレードI」とみなされ、一般的に、その価値が高ければ高いほど、改装や改築の許可をとることが難しくなる。ルートン・フーのそれまでの歴史を振り返れば、七年という検討期間は決して長すぎるわけではなかったというべきだろう。
工事は最新の技術と、細心の注意をもって進められた。三百人の技術者、工事関係者により大規模な作業が十八ヵ月にわたって行われ、使われたケーブルはのべ百七十五キロメートル、レンガは百万個にのぼったという。二十七の煙突が修復されたほか、保存のために本館から撤去された絵画群については、デジタル・コピーでなく、油絵具で描いてオリジナルの複製を作るという方式がとられた。
二〇〇七年十月。ルートン・フーは五ツ星ホテルとしてその扉を初めて開いたのだった。
エリザベス女王夫妻が一九四七年、ハネムーンの一部を過ごしたという部屋はクイーン・エリザベス・スイートと名を変え、大ヒットした映画『フォー・ウェディング(
Four Weddings and a Funeral )』の撮影に使われた際、ヒュー・グラント演じる主役男性が隠れたというワードローブは、レイディ・バター・スイートの洗面台に姿を変えた。
一見、何もかも新しくなってしまったように見える。しかし、ルートン・フーの真髄の部分は変わらず、大切に守られているように思えた。一九四六年に、選挙運動の一環としてウィンストン・チャーチルがルートン・フーで十一万人の支持者を前に演説を行ったことを示すプラーク(標識)は、変わらず正面玄関の円柱に飾られ、白い大理石からなるらせん階段も、昔どおりの優美なカーブをえがく。
我々取材班を案内してくれたズィーナ・ディキンソン氏は、このルートン・フーを二十三年間、見守り続けてきた。ホテルという違う形ではあっても、ルートン・フーがかつての輝きを取り戻したことを同氏は心から喜んでいるという。
ロンドンから車でわずか四十分。エリザベス女王夫妻の思い出の場所で宿泊できるという機会はそうそうない。かつて、自慢の邸宅に招き、また招かれ、英国の上流階級の人々がそのもてなしの優劣を競っていた時代に思いを馳せながら、ルートン・フーに一度出かけてみてはいかがだろうか。
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